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デンベレ氏の発言を差別と断じるべきかを考える。アジア人差別と日本の極右化【後編】サッカー問題

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家
デンベレとメッシ。2017年9月ラ・リーガで。(写真:ロイター/アフロ)

後編の今回は、ウスマン・デンベレ選手(24歳)についてです。

デンベレ選手に関しては、前編に書いたグリーズマン氏と異なり、特にその後の反響や変化はありません。

次から次へと新たに、深刻な差別問題も、それほどではないものも起きています。特に欧州のニュースは、注目すべき要素があれば国内ニュースのごとく入ってきますので、数が大変多いです。そのため、この件も時の経過と共に薄らいでいます。

デンベレ氏のバルサ(バルセロナ)との契約は続く模様ですが、ケガをしているので、数か月はパリに滞在して治療等に専念するということです。

この稿では、前編のグリーズマン選手とは異なり、デンベレ選手の問題発言について、私がどう思うかを書きたいと思います。

ずいぶん時間が経ってしまいましたが、やっと考えがまとまってきました。大変長いですが、もし良かったらお読みください。

参考記事:【前編】スポンサーやジャーナリストに支えられるグリーズマン:デンベレ&グリーズマンの差別問題その後

人種差別と断じて表明して良いのだろうか

彼の発言「汚いツラ、醜い顔」について、侮辱発言であることは間違いないけれど、人種差別だと断じて表明することについては、私はずっと考えてきました。

日本語の報道記事では、誤訳の問題があったので、話がややこしくなってしまいました。でも、私が考えて悩んできたのは、彼が発した言葉の問題ではないのです。

よく見かけたのは「フランス人が『差別でひどい発言だ』と言っているのに、なぜ異議を挟むのだ。フランス人がそういうなら、そうに決まっている」という意見でした。

でも、フランス人は6500万人以上います。全員が同じ意見ということはないでしょう。

それに、フランスは、非常に多様性に満ちた社会です。そして、個々の意見を尊重し、議論する社会でもあります。私は私の意見を持って議論すれば良い。あなたはあなたの意見を持って議論すれば良い。人々は私の、そしてあなたの意見に耳を傾けてくれるでしょう。

自分の「無知」は、常に謙虚に頭に置いていたいと思っているので、できるだけ多くの、特にフランス人の意見は聞きたいです。もし多くのフランス人が「差別だ」というのなら、フランス社会をそのように受け止め理解します。

ただ、差別問題は普遍的な問題なので、フランス人だけに意見を求める必要はないと考えます。フランス社会の物指しが、仮にそのようなものがあるとしても、それだけで考える必要はないと思います。色々聞いて、その上で、自分の意見を決めます。

前置きが長くなりましたが、以下に私の考えを整理してみました。

無自覚の可能性を考える

真っ先に思いあたったのは、本人の無自覚です。

私が日本語で読んでもっとも納得した意見は、かつて日本のサッカー代表チームがフランス人のトルシェ監督をもった時代に、彼の通訳をしていたダバディ氏の意見です。

私も子供の時にずっとデンベレ選手出身のパリ郊外でサッカーをしてきた。貧しい階級の子供たち(フランス系であろうが、アフリカ系であろうが)はありえない用語でお互いを差別し、それが面白いと信じています。情けないのは親の教育です。

多民族国家の問題でもありますが、同じ町、同じマンションで共存生活を送っているだけに、もう人種差別はないと暗黙に彼らが考えます。とはいえ、彼らのスラング用語の中で人種に言及した言葉が多いのです。いずれも、恥ずかしいです。(原文ママ、以下同)

ダバディ氏と同じような見解をもつ、他のフランス人もいます(YouTube動画は、こちらをクリック)。この二人の言い分は、すごくわかります。

「パリの郊外」とは、移民や移民系の人たちが集まる、公共住宅の団地群の風景となるでしょう。西欧の都市では「郊外問題」といえば、移民問題のことを意味します。婉曲的な表現なわけです。

ちなみに、デンベレ選手はパリ郊外の出身ではないはずなので、この点はダバティ氏の思い違いだと思います。とはいえ、移民出身の多くが集まって住んでいる「郊外」は、どこも大変似ています。

たくさんの肌の色の異なる人が集まっています。日本人はすぐに白人VS有色人という構図で見たがりますが、発展途上の国から来た白人の移民はたくさんいます。

私は自分の活動上、日本人のなかでは、移民問題の現状をかなりよく知っているほうでしょう。それでも彼らが毎日何を考えてどのように生活しているかまでは、詳しく知りません。

「ありえない用語でお互いを差別し、それが面白いと信じている」「もう人種差別はないと暗黙に彼らが考える」ーーこの描写は、胸にぐっと迫るものがありました。

つまり彼らは、侮蔑的で人種差別的な言葉を日常的に使っているが、お互い人種差別をしているなんてつもりは毛頭ない。それらはただの会話にすぎない。ああ、なんだかとても思い当たる節があります。

逆に言えば、様々な人種がお互い侮蔑的な言葉をフランクに言い合うことで、率直さと親しみを出す。日本で言えば、わざと「おい、デブ」「何か用、このハゲ」と親しげに呼び合うように。そうすることで、人種差別などない世界に住んでいると、暗黙に思いあうということなのでしょうか。

でも、なぜ彼らは、日常的にそんな汚い差別的な言葉遣いをするのでしょうか。

背負わされた歴史

一昔前の本ですが、『沈まぬ太陽』(山崎豊子著)という有名な本があります。ノンフィクションとフィクションを交えた手法の本です。

NALという日本の飛行機会社の社員の、一生を描いた本です。戦後の労働組合運動の代表から、左遷されてパキスタンのカラチ赴任、そしてアフリカのケニア赴任、御巣鷹山での飛行機墜落事故を経て、会社を再生するために迎えられた新社長の側近に取り立てられる大出世、そして改革は挫折、また左遷されるという、数奇な生涯の物語です。

ここにケニアの空港の描写がありました。

高い壇上のような所から、旅行者に対して「パスポートを見せろ」など、あれしろこれしろと、係りの人が威丈高に命令します。旅行者は、大変不愉快になる。

でもこれは、ケニアを支配していたイギリス人が行っていたことなのです。言葉も態度も主人然と横柄で、物理的にも高いところから命令をくだす。かつて彼らがケニア人に使っていた英語には、決して「Please」など付かなかったのです。

そういう風に慣らされてきた人々は、自分がされてきたことと同じことを相手にしていただけ。自分が言われて学んだのと同じ英語を、誰かに話していただけ。

彼らに「旅行者を見下して扱っている」という意識はあったのでしょうか。あるいは「ここは見下すのが当たり前の場面だ」と思っていたのでしょうか。

つまり、彼らが使っている汚い言葉は、歴史的に彼らが言われてきた言葉であるということです。それは、何世紀にも渡る奴隷制や、数百年に渡る植民地主義の負の遺産なのです。

確かに、今は21世紀で、社会も考えも変わりました。今のケニアの空港は、上記のものとは違うと思います。ケニアは、東アフリカ諸国の玄関口として、地域経済の中心的役割を担っていますし、東アフリカ共同体のメンバーとしても活躍しています。アフリカは変化しています。

でも残念なことに、同じような連鎖は今でも残っていると思います。大っぴらではなく、隠されての場面で。実際に、私はそのような場面を見て、間に割って入った事もあります。

そんな「汚い暴言」を「郊外」で日常用語として使うのは、耳に触れる機会が多いから自然にそうなったのもあり、心の自衛の手段として、笑い飛ばそうとしてそうなったのもあるのかもしれません。

また、難しいことに、このような地域の教育レベルは低くなりがちです。こういう地域でいかに教育をほどこすかの国家や自治体、各団体、ボランティアの人たちは、自然に頭がさがるほどの懸命な努力をしています。

こういうことを書くと、「犯罪が多そう」というイメージをもつ人が多いのでしょう。でも、たいていの「郊外」では、人々は無難に平和に暮らしています。

ーーというような、複雑な社会背景が考えられるのです。

私はデンベレ氏の「誰にでも同じ表現をする」という弁明を読んだ時、「まあ、そうでしょうね」、「ああ、そのまま本心を言っているのだろうな」と思いました。

ただし、そういう所に住んでいる人たちは、みながみな同じではありません。

欧米に比べれば多様性がほとんどなく、同質性の極めて強い日本ですら、地元の公立小学校・中学校くらいでは同じような感じでも、高校あたりから、各自がそれぞれの道を歩んでいきます。

ましてや彼らは、共通項は「移民(系)」というだけで、とても多様性に富んでいるのです。各自が成長するに連れて、学業や仕事、個人の体験、メディアなどを通して自分たちの置かれた現状を知り、自分の家庭や家族を客観的に見られるようになり、それぞれに変化して、市民として大人になっていくのです。

子供っぽさを感じる弁明

彼は、インスタグラムのストーリーで次のように弁明しました。

(このようなシーンは、自分にとって)地球上のどこで行われていてもおかしくないし、僕は同じ表現を使っただろう。

これはどこかのコミュニティをターゲットにしたわけではなく、このような表現は、プライベートでも友人の間では、その出身地にかかわらず使うことがある。

ただ、このビデオは公開されており、この映像に映っている人々を不快にさせる可能性がある。だから、彼らに心からの謝罪を捧げる。

彼が一定の時間がたつと消えてしまうインスタグラムのストーリーで発表したことも、批判を招きました。

でも私には、この24歳の若者の、とまどいと自信のなさ、世間に対する無知が表れているように感じました。

しかもフランス語の文体は、本人が書いたとはとても思えないようなものでした。話している言葉と文体のレベルが、違いすぎるのです。自分の言い分を、誰かに正式なフランス語で書いてもらったように見えます。なんというか・・・子供っぽい。

在仏の有名な日本人作家は、彼のことを「クソガキ」と表現しました。感想は似ているなと思いました。24歳のクソガキ・・・。14歳じゃない。

スポーツ選手は、才能があると10代の頃からスポーツばかりの暮らしになります。狭い世界しか知らなくなることがある。

その上サッカーでは、10代でも世界的に有名になることができて、超高額なお金を手にできて、周りにちやほやされてしまう。年齢に比べて世間の常識知らずで、子供っぽいことは、ありがちだと思うんです。

だから私は、この時点で彼を責める気がまったく失せているわけです。

私が彼よりずっと年上なことも関係あるでしょう。20代前半の若者には、40代にもなれば寛大になるものです。彼と年齢が近い人は、感じ方が違うかもしれませんね。

上述のダバディ氏は、以下のように結論付けています。

『人種差別じゃない、私たちは普段から使ってるスラングだよ。どの人種に対してもさ』と言い訳をするのですが、アメリカだったらこれは全く通じないのです。彼らは間違っている。しっかりと謝って欲しかったです。

「アメリカだったら」というのが大変意味深長なのですが、ここでは話がそれるので掘り下げません(一言だけ書くなら、フランスの平等思想や政策の悪い側面、弊害を言いたいのかなと思います。参考記事はこちら)。

ダバディ氏と私の違いは、彼はフランス人で、私はそうではないということです。

大西洋に面する西欧の国々は、その歴史に黒人奴隷制の過去を背負っています。日本はこの点は無縁です。何世紀にもわたる黒人奴隷制度や、数百年にわたる植民地制度を克服しようとする、支配側と被支配側の両方による、人権と平等と自由を目指す、長い長い戦いがありました。

差別された側による戦いだけではない。差別をしてきた白人側に「このような社会は間違っている、変えなければいけない」と信じて戦う人がたくさんいたからこそ、社会は変わったのです。そこを見ようとしない日本人が、かなり多いように感じます。

そういう絶え間ない闘いが根付いた社会に生まれ育った、ダバディ氏をはじめとするフランス人たちが、同じフランス人に率直に言う。それは理解しているつもりです。

でも、私は同じ歴史を背負っていないし、人々は同じでなくてもいい。

もちろん、悪いことは誰がどういう状況で行おうと悪いという倫理観はとても大事です。百も承知です。でも・・・他の解決方法はないかと思ってしまうわけです。

それでもわからない点が三つ

わからないことは、色々とあります。あまり上手にまとめられませんが、以下では三つの点を書いてみたいです。

前提として、世代の違いは大きいと思います。世代が上になるほど、差別の経験は大きいと感じます。

拙編書『ニッポンの評判』(新潮社)にも書きましたが、そのような時代に苦労して、真面目さを失わず、今の日本人の国際的に良い評判を築いてくれた方々には、感謝しており、敬意の念をもっています。ただ・・・世代の違いによる感覚の違いは、いかんともしがたい。

世代の違いは大きいのです。前に、アメリカ在住の方と話した時のこと。その方は後期高齢者で、私から見るとおばあちゃまでした。それでも「私の前の世代、戦争花嫁でアメリカに来た人たちと、私の世代は違う」と述べていて、「そうなんだ」と驚いたことがあります。

それだけこの100年、急速に世界は変わってきているのでしょう。

ですから以下は、大雑把に言って21世紀の話だと思ってください。

その1、アジア人への差別の形

まずわからないのは、デンベレ選手は、しばしば欧州で見られる「黒人など差別されている側(移民系の男性が多い)が、アジア人を差別する」という罠に陥っている人なのか。

これは自覚的な場合と、無意識の場合、無知の場合があります。

このようなことは、現実にあります。悲しいことに、差別される立場の人々は、誰かを差別したいという強い欲求をもつということでしょうか。

このような人間の不条理を知ったのは、私が10代のころ、大宅壮一ノンフィクション賞をとった『私を抱いて、そしてキスして(Please hug me)』(家田荘子著)という本がきっかけでした。

これは、エイズが登場して、社会問題になるほど広がった時代に、在米の著者本人が、アメリカで黒人のエイズ患者の女性を、ボランティアで面倒をみていた記録です。

今はエイズは空気感染・普通の接触による感染はないことを誰もが承知しています。しかし当時は、そのように専門家が言っても、未知の死に至る伝染病に対する恐怖のために、一般の人は感染者に触れてはいけないように怖がっていました。

そのエイズ患者の女性は、もっと症状がひどいエイズ患者に対して、「こっちによるな、エイズ患者! 気持ち悪い! あっちへ行け!」と叫ぶのです。

著者が「あなたもエイズ患者じゃない。人々の偏見にあって同じように苦しんでいる者同士なのに。なぜそんなひどいことを言うのか」と言うと、彼女は「エイズ患者がエイズを嫌いじゃないと思っているのか。私だって、あんなひどい患者はお断りよ!」と返すのです。

大変悲しい、ショックな内容でした。差別は拡大再生産されるという現実です。

なぜアジア系なのでしょうか。

アジア系は、欧州においては圧倒的に人数が少ない。植民地支配の歴史的な関係は、イギリスは多くフランスも一部あるが、アフリカや中東に比べれば、関係は少ない。

そしてアジア人は、一般的におとなしくてまじめ。

そして、現地の人と宗教的なつながりも少ない。これは半面では、味方になってくれる集団が欧州にあまりいないということ。例えば黒人のキリスト教徒は、西欧のキリスト教徒が味方になってくれます。もう半面では、アジア人の多くとは、イスラム教がもたらしたような、宗教による大きな摩擦や問題も生じなかった。

上記のような理由で、今までは、現地の西洋人社会との摩擦は、相対的に少なかった。摩擦が少ないのだからアジア人差別は、ないわけではないが、あまり目立たなかった。

フランスに来る移民は、圧倒的にアフリカ大陸から来る人たちです。アラブ人やベルベル人、黒人、漆黒のような肌色の黒人など、様々です。宗教も、イスラム教徒とキリスト教徒、部族の宗教などが交ざっています。

彼らの中にごく一部ですが、アジア人差別をする者たちがいます。

理由は前述したように、差別される側が、差別する相手を必要とすることがあるからです。アジア人は数が少なくておとなしいから、うっぷんばらしの標的になりやすいのかもしれません。

もう一つ付け加えるなら、彼らの出身国では、封建的な社会における差別が当たり前なことが珍しくない。「それは、出身国では普通でも、民主主義国家では差別なのだ」という自覚がないことが多い。排他的な国や、身分制が厳しい国もある(だからフランス国家は、市民教育に力を入れている)。

その感覚をそのままに欧米にもってやって来て、生活している場合が多いせいもあります。

アラブ系は、人数も多く、イスラム教徒ということもあり、大きく一つの層をつくっています(実際には細分化されていますが)。ある意味、強い。

彼らの出身国、いわば実家である国々も経済発展をしてきていますし、欧州とは近いこともあり、一定の政治力をもっている。

黒人層はまた異なります。

黒人は「黒人」という一つの団結は、あまり見られません。部族や言語グループ、出身国の集まりはありますが、それほど強い力をもつ一群とはなっていないと思います。

もし黒人がアラブ系と同じイスラム教徒だったとしても、モスクは部族や出身地、言語(方言)、あるいは思想・宗派で分かれています。そして、黒人とアラブ人は仲がよい場合もあるが、そうとも限らない場合もある。奴隷貿易において、アラブ商人が黒人をだまして白人に売ったと考えられているためです。大変、複雑です。

ただ、誤解しないでください。

アジア人差別が見過ごされていたというのは、あくまで相対的にではありますが、それほど深刻な事態ではなかったからだと思います。

イスラム過激派によるテロの連続、そのために起こったイスラム教徒への差別と偏見、そのような差別に反対するメディアや団体、市民の人道的で理性的な反対などに比べれば、どうしてもアジア系への差別は小さく見えてしまいます。

また、まじめなアジア人は、西洋人から好かれてきた面があるのも事実なのです。歴史的な問題や摩擦は、西洋人にとっては心の重荷です。日本人が旧植民地とそうであるように。アジアは遠く、現在の政治問題とは距離があることもあり、対アラブ人や黒人に比べて、アジア人に対しては、相対的に気が楽という側面はあると思います。

皮肉な物言いをすれば、特に宗教や慣習の摩擦が大きいアラブ系は嫌だ、でもそれだと人種差別主義者と思われてしまうのではないか、そうじゃないというアピールをするのに、アジア人は好きと強調したいんじゃないのかな、と思ってみたりします(本当に好きなのでしょうけどね、と明るく前向きに考えてます)。

特に日本に関しては、フランスは大変な親日国です。

日本の伝統芸能を愛していなければ、現代インテリではない、といわんばかりなほどです。

アラフォー以下の人々はというと、ゲームやアニメ、マンガを通じて、日本が好きな人が大変多い。日本のマンガの売上数は、人口比で言えば、フランスが世界一です。

先ほど私は、移民系の特に男性のなかに、ごく一部だけどアジア人を差別する人がいると書きました。でも、まったく逆の場合も大変多いです。

日本人と知ると、単純にマンガやアニメで好きになったという以上の親しみを見せてくれる人たちがたくさんいます。それは、日本の技術の進歩に対する尊敬の念

であり、同じ非西洋人としてエールを送っているというか、そんな感じの視線です。

在仏日本人も、「え、今まで差別にあってきたことなんて、ほとんど(あまり・全然)ないよ」「親日的でびっくり」という人は、大変多いです。場所にもよりますが、古い世代でなければ、おそらく圧倒的多数派です。

在仏日本人がみんな日々差別にあって苦しんでいると思うのは、現実に存在しない、ただの妄想です。

最近急にアジア人差別問題が注目されてきたのは、コロナ禍になり、中国人に対しての攻撃が突然増え、日本人が巻き込まれるケースが増えてきたからです。

中国人差別は、コロナ禍の前から増える傾向にはありました。

一つには、単純に中国系移民の人数が増えすぎたというのがあります(最近の受け入れ人数は、相当減っている印象があります)。

歴史的にはフランスの中国系移民は、旧フランス領のインドシナからやって来た華僑や、中国での迫害を逃れてやってきた人が多かったのです(チベット人は今も昔も多い)。

それが、経済発展と開放に連れて、本土から来る移民が増え、現地フランス社会との摩擦が増えてきた。

さらに最近では、ヨーロッパや欧州連合(EU)と中国の政治的な緊張や摩擦が高まり、中国の軍事経済進出、人権弾圧が注目されるにつれ、中国を嫌う風潮は徐々に高まってきていました。

そこにコロナ禍が起き、欧州では人々に厳しい外出制限が敷かれました。このストレスは、そこまで厳しい制限の経験のない日本人には、おそらく理解できないでしょう。

そんな中で、新型コロナウイルス発生源とされる中国の人に対して、嫌がらせやヘイトの矛先が、一部で向くようになったということです。あくまでごく一部ですが。

その中には、中国人と間違えて日本人を差別したり狙ったりする人が出てきました。あるいはアジア人はみんな同じと思っているような層の中にも、そういう人がいます(フランス人は、アジア人の見分けがつく人が大変多いほうだと思います。世界一の観光大国であることと関係あるのでしょう)。

そういう大変複雑な社会の中に、フランス人や、フランスへ移民で来た人たちは生きています。フランスの多様性の問題があります。

デンベレ氏も同じです。そんな社会に生まれ育ちました。

彼はおそらく移民2世です。父親はセネガル出身、母親はセネガル・モーリタニアの出身で、彼自身は、パリの北西にあるノルマンディ地方のヴェルノンという町で生まれました。

2世とは、一つの大きな宿業です。移民1世と、フランスで生まれた(あるいは小さい時にやってきた)2世とでは、感覚がまったく違います。

1世は、ほとんどが自分の意志で外国にやってきて、根は母国にあります。また、3世以降になると、かなりフランスへの統合(同化)が進みます。個人差は大きいですが、一般的にもっとも辛い立場や状況が、デンベレ氏のような2世なんです。彼は黒人で2世という、大変厳しい立場を背負っています。

表現の場において、2世(人によっては3世)の位置にある人たちは、「デラシネ(根を抜かれた・根がない)」と形容されることがよくあります。デラシネの人々は、不安定で弱いところがあるのです。根がないから。生まれる場所は、誰一人として選べません。

不安定さは、子供っぽさに見えることがあります。まったくの推測ですが、デンベレ氏の子供っぽさは、ここにも原因があるかもしれません。

いったいデンベレ氏は、大人しいアジア系に差別の目を向けるという罠に落ちてしまっている人なのでしょうか。もしそうなら、自覚はあるのか、無自覚なのか。それとも、郊外で育った「クソガキ」がそのまま大人になってしまったような人なのでしょうか。両方混ざっているのでしょうか。ーーここが個人的には一番、知りたい点です。

今のところ私には、彼の「子供っぽさ」が、最も強く印象に残っています。

彼にはもうちょっとしっかり、誠意をもって謝罪してほしいです。「日本人は優しいから、きちんと謝れば許してくれるよ」という内容を、在仏の有名作家は書きました。私もそう思うんですけどね・・・。

その2、隠れ極右の黒人差別

フランス法は、「どんな差別でも許さない」という、厳しい基本姿勢をもっています。

抽象的な「差別」という概念に、25の基準を定め、法律で禁止しています(この数は、適宜増えていくでしょう)。

もっともフランスだけではなく、西欧の多様性社会の現実は、日本人には想像できないほど複雑で、大変厳しいものです。

しかし一方で、今回は別の疑いももっています。

一般の報道は別にいいのですが、それに対するネット上の人々の反応が気になりました。

デンベレ選手を「差別主義者め」と叩く反応を見ていて感じるのですが、一部には「黒人なんかがこんな発言して、日本でのイメージ落としやがって」「これだから程度の低い黒人は」という、黒人差別が隠されているのではないかと。

反差別の法律の厳しい国なので、たいていの人は表現に用心しています(それでもイタチごっこで次から次へと出てきます)。直感で「感じる」としか言いようがないのですが・・・。

だから私はデンベレ氏に「侮辱だ」と毅然と抗議することは必要だけど、一方的に彼を「人種差別だ」と責める気には、ますますなれないのです。真の隠れ人種差別主義者、真の極右かナチスに加担するみたいで・・・(これは日本でも同じです。後述)。

それに、こんな複雑な欧州の社会にあって、日本人と黒人が争うことに、意味がないように感じてしまって。

最近は、平等思想を偽りの看板にした極右や、極右に近い極左が多くて、うっかり加担しないよう、本当に気を付ける必要があります。

もし相手が無知ゆえに、あるいは自分の置かれた立場ゆえにアジア人を侮辱してくるのだとしたら、唯一の解決の道は、コミュニケーション(と教育)だと思っています。

デンベレ氏にも、「あなたは人種差別をした」「人種差別主義者だ」という糾弾ではなく、「あなたの言動は、大変侮辱的で不愉快だ」と伝え、「人種差別と言われても仕方がない行為と思うけど、あなたはどう思いますか」のように聞いてみたいです。

秋にインタビューを申し込むつもりですが、スポーツに詳しいフランス人ジャーナリスト曰く、サッカー選手はインタビューを取るのが大変難しいとのこと。実現する見込みは薄そうです。

その3、日本のメディアと、隠された本心

日本のメディアの問題、これが一番の難題です。

複数の在仏日本人が、日本のメディアに「私はいかにフランスで差別されているか」を語り、それが報道されていました。

ここで問題になっているのは、日常でこういうことを言われた・された、という話だと限定して考えます。

自分の差別の体験談を日本のメディアに話し、それを日本のメディアが取り上げるという一連の行為。どこか強烈にひっかかる。

この感情が、我ながらよくわかりませんでした。私は何にひっかかるのだろうか、なぜイライラするのだろうかと。

時間をかけて考えてみて、一つ確実なのは「自分の国、日本を棚に上げて・・・」という気持ちがあるのだと思います。

日本は、移民どころか、難民すら受けいれていません。日本の2020年の難民受け入れ数は、たったの47人です。入国管理局の外国人収容所は、刑務所と同じと言われています。自由も人権も無視です。

そして「実習生」という名の、歪んだ移民労働者受け入れシステムは、国際的に批判されています。

今ちょうど、名古屋の出入国在留管理局で、たった33歳で亡くなった、スリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさんの事件がニュースになっています。

<リンク先にはビデオがあります>

アメリカ国務省は今年の7月、世界各国の人身売買に関する2021年版の報告書を発表しました。日本については、国内外の業者が外国人技能実習制度を「外国人労働者搾取のために悪用し続けている」としています。

「デンベレは差別をした」とか、(デンベレ氏問題に限らず)「私はフランスで差別を受けているんだ」と日本のメディアで訴える人々や報道が、母国日本のはるかにひどい外国人差別、いや搾取と人権侵害を同時に訴えているのならいいのです。

「このような差別はすべて、なくさなければならない」と訴えているのなら、私も共感するでしょう。でも、そんな報道や発信があったでしょうか。

差別を訴えたいのなら、在住市民としてフランス社会にするほうが先です。フランスに住む一市民として差別を訴えるのなら、努力すれば、その声を聞いてくれる人や組織は存在します。

そして、内容の多くが「私が」「アジア人の区別がつかない人たちから」いかにフランスで差別を受けているか、というものです。

「私」「私」を、国際社会的な弱者がいうのなら、仕方ないかもしれません。祖国が戦場の国もあれば、経済的に移民しないと家族を養えなくて出稼ぎにくる人たちもいます。でも日本人は違います。世界最強クラスのパスポートをもち、フランスが好きで住み着いた人しかいないと思います。

ただ・・・在仏日本人は、自分の嫌な経験を聞いてもらえる滅多にない機会だから、嬉しくて、無自覚に日本のメディアに発表しただけなのかもしれない。それに、フランス市民として生きているので、日本の現状に疎くなっているのでしょう。だから、仕方ないのかなとは思います。

最も不可解で問題なのは、在仏日本人よりも、そういう体験談を載せて日本のことはまったく触れない、日本のメディアのほうです。

差別がテーマで、自分の国のことは振り返らないのか。よくもまあ、思いっきり自国のことは棚に上げて。こういうのを「猿の尻笑い」というのだそうです。その手法は、フランス人は差別的だ、白人は差別的だと煽っているのと同じだと思います。結局、極右的なのだと思います。

「差別はよくないことだ。日本も共になくしていこう」などという姿勢は、つゆほども見せない。人権も、平等も訴えない。日本のメディアに主に見られたのは「日本人が◎◎国で差別される」という域を出ないような報道でした。

実際、これらの報道で、言及されていなかった二つのことがあります。

一つは「アジア人差別」だと口では言いながら、同じアジア人との連帯の姿勢を、見せていないこと。

もう一つは、デンベレ選手は黒人ですが、そのことに言及しているものが全くないことです。「黒人」というキーワードが難しくて、「問題が起きたら困る」と、深く考えずに避けたのだとは思いますが。

この事件では、韓国や他のアジアの国の人たち、在仏のアジア系の団体からも「アジア人差別だ」と連帯を見せる声が上がっていたのに。

私はここに、口にしないが、日本人や社会の中に「他のアジア人と日本人を一緒にするな」、「問題は日本人様が差別されていることだ」、「黒人のくせに日本人を差別しやがって」という、隠れた差別意識が潜んでいることがあるように思えてならないのです。

メディアは、黒人への差別感情が、社会の一部の根底にあるのを見て見ぬふりをして、デンベレ氏の発言を批判しているのではないか。「日本人様が差別されている」のだけは伝えたいから、と疑いの目をもっています。

これらのことは、差別を訴える難しさを示していると思います。特に今の日本では。

差別を訴える内容で、そこに「誰に対してであろうと差別を許してはいけない」「人間は法のもとに平等である」という考えがなければ、結局「外国への不信感や嫌悪感の扇動」という極右に加担しているのと同じだと思います。

扇動は、「外国(人)の排斥」につながり、「私・日本人への差別は許されないが、◎◎人への差別ならよい」という、差別の拡大再生産につながるのだと思います。

「デンベレ選手は差別をした」と断じて表明することは、ここでも極右と黒人差別に加担するみたいで、本当に嫌な気持ちになってしまいます。日本でのほうが、フランスでより、もっともっと嫌です。

フランスには少なくとも、不十分ではあっても「あらゆる差別に反対」という思想があり、それを支える政治・政治家・政党・メディア・団体・市民という、社会の力と核が存在します。アメリカにもあります。だから「極右に加担するみたいで嫌だ」という気持ちは、比較的薄くてすみます。フランス語や英語でなら、極右のことは考えずに、訴えられないこともないです。

でも、日本にはそんなものがない。反対する市民はいる、団体はある。それなのに、彼らは社会での力が乏しいのです。それは政治家と政党、大メディア、さらには法律にも責任があると、小山田圭吾事件やDaiGo事件で、はっきりと気づきました。

フランスの裁判所で

もちろん、自分の被害は訴えなくてはいけません。黙っていてはいけません。

でも、金持ち先進国からやってきて、「私が、私が」「日本人が」という姿勢で差別を訴え、いったいどこまで国籍や国境を超えて、人々の共感と協力を得られるのか・・・ものすごく疑問です。

そういう私も、複雑な気持ちを抱えているのは同じでした。私の中にも「あのひどい政治体制の中国と日本を、アジアだからと同じにするな」という気持ちがあったのです。

これは、先進国で日本はほぼ唯一、非西洋の国である現実から来ている悩みだと思います。私は長くなったフランス生活で、ずっとこの問題と、自分の中の矛盾を考えてきたと言えます。

コロナ禍のフランスにおいて、ある事件が起きました。

19歳から25歳のフランス人の学生5人が、中国人に対する憎悪をツイッターで扇動したのです。それぞれ3万人から6万人のフォローワーを持っている人たちです。殺人をそそのかすような、恐ろしい言葉でした。

今年の3月に、パリで裁判が行われました。傍聴に来ていた日本人は、見た範囲では私一人でした。

ちょうどその1ヶ月ほど前に、パリで日本人に起きた事件のために、在仏日本人社会で「アジア人」への差別問題が盛んに話されていたころでした。それなのに、この程度の関心度なのかと、残念に思いました。

2018年から使われている、新しいパリ裁判所。17区にある。設計はイタリア人の巨匠レンゾ・ピアノ氏。
2018年から使われている、新しいパリ裁判所。17区にある。設計はイタリア人の巨匠レンゾ・ピアノ氏。写真:ロイター/アフロ

事件とは、今年2月、コロナ禍の最中に、邦人が友人2人と一緒にパリの道路を歩いていたところ、怪しい3人組に硫酸を浴びせられたというものです。幸い怪我は大したことなかったようです(記事末に注)。

結局、被害者は被害届を出しませんでした。何か事情があったのでしょうけど、届けを出さないという行為に、日本人らしさを感じました。

異例なことに、在仏日本大使館から、在留届を出している日本人に、この事件を知らせ、身の安全の注意を喚起するメールが届きました。そのために「アジア人差別」が大きな問題となっていたのです。

おそらく中国人と一緒にされている「アジア人狩り」の犠牲者だったのだと思います。正直に言って「嫌だなあ。間違われたくない。あんなひどい独裁国家の出身者と一緒にしないで」と思う気持ちはありました。

一方で、フランス社会の価値観と法律に従ってまじめに暮らしている中国人(系)にまで、そんなことをするのは許せないという気持ちもありました。

私は二つの気持ちの間で揺れていました。「行けば、何か自分の気持ちを整理できるヒントがみつかるかもしれない」という思いで裁判所に傍聴に赴きました。

行ってみると、軍服をきた中国系に見える10人強の一群がいたのでびっくりしました。話してみてわかりましたが、彼らは元フランス外人部隊の人たちでした。警備の警官たちも、彼らには礼儀をもって接しているように見えました。

7月14日の革命記念日(パリ祭)で、シャンゼリゼ通りの恒例のパレード。手前は正装した外人部隊の人々。向こうにマクロン大統領夫妻や、招待された外国首脳が並ぶ。2019年。
7月14日の革命記念日(パリ祭)で、シャンゼリゼ通りの恒例のパレード。手前は正装した外人部隊の人々。向こうにマクロン大統領夫妻や、招待された外国首脳が並ぶ。2019年。写真:ロイター/アフロ

外人部隊は、軍人として国に奉仕すれば、一定の条件を満たすことでフランス国籍がとれるというものです。サルコジ元大統領の父親は、ハンガリーの亡命貴族で、外人部隊を経てフランス国籍を得た人でした。日本人もいるらしいです。

そのうちの一人が「犠牲者は、アジア人全員です」とはっきり言ったのがとても印象的でした。

なんだか複雑な思いでした。

「アジア人とくくるのか・・・メディアは『中国人差別問題』と報道をしているけどなあ」、「元はと言えば中国政府が悪いのに。習近平独裁で、ほとんど全体主義国家になっている国のせいでしょう?」、「日本人も他のアジア人もとばっちりなのでは」と反発を感じました。

一方で、「でもここにいる人たちは、祖国と決別して、フランス国籍をとった人たちなのだから」とか、「そもそも中国出身といっても、チベットや香港出身かもしれないし、華僑で元の国籍はベトナムとかカンボジアかもしれないし」と思ったりもしました。

さらに印象的だったのは、彼らと共に働いたフランスの人権支援団体の人たちが、優先的に傍聴席に案内されていたことでした。

この訴訟は、2つの在仏中国系団体だけではなく、フランスでは割と名の知れた複数の人権支援団体・人種差別反対団体が支援して、実現したのでした。

日本人と中国人(華僑)では、立場も違うし人数も違います。でも、ここに来ていた人と話をして、様子を見ていて、気持ちは落ち着いていきました。

「やはり、立場や国籍を超えて、あらゆる差別に反対という考えが、何よりも一番大事なんだろうな・・・」と改めて思えたのでした。やっぱり、実際に話してコミュニケーションをとることが、最も大切です。

人間は法のもとに平等であるーーそういう気持ちがないと、支援してくれる人もいないのかもしれません。

そう思うに至ったのは、私には、学校や仕事、活動で出会った、たくさんの外国人の友達や知り合いがいるからです。彼らがどういう人達かを知っているからです。同じところも違うところも、人としての信頼も不信も、好きも嫌いも、通じ合うものも、越えるのが難しそうな壁も。話すことは何よりも大事です。

そういう人たちが、本人の言動や考えとはなんの関係もない理由で差別されるのは、やっぱり嫌なんです。自分がされるのも嫌、友達がされるのも嫌。答えは意外に単純なのかもしれません。

オリンピックを見ていても思いました。アスリートたちは、国籍や民族を超えて、相手の功績を讃えあっている。たとえ悔しくても、賛辞の表明は忘れない。国や民族単位で考えていったら、あのようなオリンピアたちをも差別したり、差別されたりすることになる、そんなのおかしい、と。

もちろん、どこかの国の体制や政治、承服しがたい言動を行う特定の団体や個人は批判します。でも、それと一般の市民は分けて考えるほうが良いと思うのです。

日本の極右化。市民はまともなはずなのに・・・

日本では、わかりやすい極右が、目にあまるほど蔓延しています。

私は日本に帰るたびに、電車の中のつり革広告という公共の場に、近隣国をあからさまにののしっているタイトルが並ぶ雑誌の広告があって、気持ち悪くなります。

いま日本人が反動化するきっかけの多くが、近隣国側の政治にあるのはわかっています。日本は、欧州連合(EU)を築けるヨーロッパと異なり、本当に近隣国に恵まれていません。

(こんなにご近所に恵まれていないのに、不十分とはいえ、ここまでの民主国家をつくった日本はすごい!と時々思うほどです)。

でも、今まで地道に築いてきた市民間の交流や友情すらあざわらい、踏みにじるような、強烈な憎悪扇動(ヘイト)の言葉の数々。「これら全部、フランスだったら憎悪扇動罪とみなされて、禁止どころか、罰を受けるかも」と思う文句が並んでいます。公共の場に。

(10年以下の禁固刑や罰金が可能性としてあります)。

こんなものが日常生活の中にあるのに慣らされている日本人には、これらが「憎悪扇動」「極右」という自覚すらないのかもしれません。

実際に、このサッカー選手差別問題では、ここまでに書いてきたようなことは一切すべて無視して、ネトウヨたちは「フランス人は人種差別主義者だ」「フランスは差別的な国だ」という言説を煽りました。

どうしてそこまで、すべての文脈と背景を無視できるのか。自己正当化するのには「旅行した時に嫌な思いをした」という、一度か二度の、原因も定かではない乏しい経験談のみ。

自分の国は、外国人労働者を死に至らしめるような差別をしても完全にスルーで、自分たちは、言葉で不愉快なことを言われただけで怒り、差別だとわめきたてる。

このようなコメントが、ネットで大変目立つ。「ネトウヨ2%説」というものがあります。実際には少数派なのかもしれませんが、とてもそうとは思えない露出ぶりです。

そして、在仏日本人は、「私は差別されている」と日本のメディアに深く考えずに言うことで、こういうネトウヨや極右集団に、栄養と燃料を与えていることに、まったく気づいていないらしい。ああ、おそらくこれが、私のイライラの原因でしょう。

ネットのコメントも問題ですが、それよりもっと問題なのは、やはり公共の場所で堂々と、憎悪先導の広告をはるメディアのほうです。そんなことが許されている日本の法律と現状です。このような現状があるからこそ、あのようなネットのコメントの状態があるのでしょう。

こんな極右の風潮に、人々は、特に若者は、知らず知らずのうちに染まり洗脳されていってしまうのだろうか。本当に心配です。

DaiGo事件は、この日本の風潮のために起こった側面があるでしょう。

同事件でも、小山田圭吾事件でも、多くの市民がまともなことは、これもまたネット上で証明されています。それなのに、このような悪質な差別事件の表面化に、何も社会で大きな動きがないように見えるという異常。

報道が活発なのは、なぜかほとんどスポーツ新聞で、差別問題で大きな社会問題なのに、多くのネット情報のカテゴリーは「エンタメ」という奇怪珍妙。

DaiGo事件では、生活困窮者を支援する4つの団体が、素早く動いてくれました。そのおかげで、大メディアの反応も続きました(大変報道が早かった毎日新聞から、かなり遅れたところまで、反応は分かれました)。

参考情報:全国一斉8/21「コロナ災害を乗り越える-いのちとくらしを守るなんでも電話相談会・第9弾」フリーダイヤル

でも、日本には、極右に立ち向かう確固とした大きな力がない。政治勢力がない、政治家がいない。社会の支柱の一つとなるべき市民団体に、大きな力が与えられていない、権威はあったはずの新聞ジャーナリズムも、もはや瀕死の状態。

日本が少しずつ確実に極右に蝕まれていってしまうのが、心から心配です。

自らそういうレベルに落ちていっても、行き着く先は、差別し差別される嫌らしい社会、人間の排斥、そして究極的には戦争と抹殺しかありません。

そんなことになっても、私たちが豊かに幸せになることは、決してないと思います。

この原稿を、76回目の終戦記念日である8月15日、平和への祈りの日時に公開いたします。

どうにもまとまらない長い文章でしたが、これでこの原稿はおしまいです。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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※注 パリにおいて、日本人が硫酸をかけられた事件について。

2月10日夕刻、パリの公共空間において、邦人被害者が友人と3人でいたところ、フードをかぶり下を向いて歩いてきた3人組(男女の別不明)からいきなり顔に向けて液体をかけられました。

被害者は、不審なグループだったため注意していたが、グループのうち一人が液体の入ったボトル(工具店などで普通に購入できるもの)を取り出した瞬間、危険を察知し、手で顔をガードしました。幸いにして顔には液体がかからなかったが、掌に火傷を負ったというものです。

この事件では、何か事情があったのでしょうが、被害者が被害届を出さなかったことで、警察はそれ以上何もできないことになってしまいました。

また、かなり詳細に書いている匿名のブログのような記事があり、検索すると上位にきます。

そこで「被害者家族が警察に赴いて、被害届を出そうとしたのに、警察は受け付けてくれなかった。軽傷だからと軽く扱われたのだろう」、「被害届を受け付けてもらえないこと自体が差別」と述べていますが、これは完全に無知による間違いです。

フランスでは、本当の「子供」ではない限り、たとえ未成年であっても、本人が被害届を出さなければなりメールや手紙で被害届けを出すこともできます。

病気の告知でも、医者は、本人の許可なく他の人に話すことはできません。本人の意思が何よりも大事ーーそういう社会なんです。家族主義が残る日本とは、異なる文化です。

日本の家族主義・集団主義という伝統の急速な崩壊と真空化も、社会をいっそう難しくしているのでしょう。

参考記事:翻訳は難しい。。。デンベレ&グリーズマン選手の発言の日本語訳は、どう変だったか:サッカー界の差別問題

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。日本EU学会、日仏政治学会会員。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省関連で働く。出版社の編集者出身。 早大卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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