日本の1人あたり生産性はなぜ低迷しているのか。日本社会は、管理主義的な選抜競争に疲弊して、個々人のやる気や能力を引き出せていない。過去から引き継ぐ社会全体としての階層的な組織構造が問題である。

人生の選択を歪めている日本の制度

 今年5月に経済産業省の次官・若手プロジェクトの研究成果「不安な個人、立ちすくむ国家」が発表され、140万ダウンロードを超えるほど話題になっている。

 その内容は、個人の価値観や生き方が多様化しているにもかかわらず、「昭和の標準モデル」を前提に作られた制度が個人の人生の選択を歪めており、一定年齢以上の高齢者を弱者として支えるシルバー民主主義から、子供のケアや教育を社会的投資として重視する財政へと転換すべきだと主張する。

 経済若手官僚の議論自体は有益で、前半の問題意識には共感するが、本質的に自らのポジションにメスを入れるような改革案にはなっていない。社会・国家の制度に問題があるのは確かだが、単に若者に財政を向けるだけではおそらく解決しない。経産省の彼らを含めてエリート意識の根底にある垂直統合型の組織構造も、「個人の人生の選択を歪めている」古い制度の1つである。

個人の能力を活かせない組織と社会

 日本の総人口は2011年から減少が始まっている。しかし、人口の総数が頭打ちにあることよりも、1人あたり生産性が停滞していることを、より深刻にとらえるべきである。OECD諸国の労働生産性の順位で、日本は1991年の7位をピークに2014年時点の21位にまで低迷し、首位のルクセンブルクと比べると約半分の低位水準にある(図参照)。このことは、日本経済は1人当たりの価値生産力を高めるイノベーション経済の段階に移行できていないことを示唆している。

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 日本人はチームプレイに強く創造力に乏しいと巷間言われるが、決してそんなことはない。ノーベル賞をはじめとして、毎年のように日本人が受賞している建築界のプリツカー賞、10年連続日本人が受賞するイグノーベル賞など、科学、デザイン、アート、建築、文芸、職人、音楽、ゲームなど創造性で勝負する世界で、日本人の評価は高い。ところが、そうした個々の創造力が日本全体としての労働生産性に反映されていないとすれば、それは個人の能力を活かせていない組織や社会の仕組みに問題があると言わざるを得ない。

全国的なヒエラルキーな組織体系

 「昭和の標準モデル」として構築されたのは、「サラリーマンと専業主婦で定年後は年金暮らし」(「不安な個人、立ちすくむ国家」より)という人生設計だけではない。日本社会は全体として、人材を階層的に選別して、全国的なピラミッド型(ヒエラルキー)の組織体系の中に配置するという、垂直統合型の社会構造を形作ってきた。この「人生すごろく」の下では、若者はまず教育システムによってランキングされ、学歴に応じた就職システムによって振り分けられ、それぞれの組織内の出世ランクに応じた役割を与えられた。

 大企業と下請け、国と地方の機関は、機能別・系列的に強い上下関係で結びつけられて、それぞれの役割と報酬を与えられつつ、「経済成長」の下に利害統合された。この垂直的な分業関係は空間的に編成されて、人材は農村部から地方都市を経て、優秀な人材ほど大都市とくに首都圏に集められる一方で、知識集約的な仕事は中央に、労働集約的な仕事は地方に配置された。これが「垂直的国土構造」と呼ばれる日本モデルであった。

 ここで大事なことは、垂直統合モデルの下層に位置する組織や人材も、単に波及効果を受ける従属的な立場なのではなく、比較的低コストで質の高い現場生産力を担う重要な成長の構成要素であり、むしろ日本経済の競争力はこうした「現場力」にこそ強みがあったという事実である。

構造改革は失敗したのか

 さて、ピラミッド型(ヒエラルキー)の社会構造は、キャッチアップ型工業化の国民経済システムには適合的であった。しかし、グローバル化・知識経済の時代となり、より高い効率性と流動性、あるいは生活の質に対する多様なニーズに応える創造性や柔軟性を求められるようになると、個人間の競争意識が強まり、垂直統合関係における下層の現場労働的パートナーは次第に重荷と見なされるようになってきた。

 そこで、1980年代後半から断続的に、市場メカニズムを重視する新自由主義的な構造改革が進められた。しかし、制度は改革されたのだが、むしろ制度間のバランスを欠いた不整合な改革こそが日本の停滞をもたらしたという指摘がある(セバスチャン・ルシュヴァリエ『日本資本主義の大転換』岩波書店、2015年)。危機感を持つ若手官僚には、ぜひ「改革の失敗」をこそ検証してもらいたい。

ピラミッド型社会の構造は引き継がれた

 新自由主義的改革は、本来は市場メカニズムを働かせて、イノベーションが活発に生まれる経済構造を作り出すことを期待されていた。ところが日本では、垂直統合モデルを前提としたまま競争原理が取り入れられために、小規模多数が自由に活躍できる市場モデルの競争フィールドは結局作り出されなかった。

 日本の構造改革は、エリート集団(国家官僚、多国籍企業、大企業正規労働者)の特権を保持しながら、旧成長同盟の中の相対的弱者(農業者、中小企業者、地方建設業者等)を「既得権者」として攻撃し、彼らの淘汰を促す形で進められた。

 日本企業は、大企業モデルのままエリート層を厳選し、下層階層を振るいにかけ、開発・製造体制の一層のスリム化で国際競争に対応しようとしてきた。これによって、階層的な社会の中で生き残るための選抜競争はむしろ激しさを増した。

選抜競争の激化が招いたこと

 下層グループは、直接社会のニーズに応えて創造性を競う機会に乏しく、上位機関の示す「計画」にあわせるように努力するほかない。地方圏、中小企業、非正規労働者という非エリート階層に属する集団は、人材・資金が制約される中で、上位組織に選ばれるための競争に追い立てられてきた。

 日本の垂直的分業の下では、中小企業の出口は、主に上位グループの企業に使ってもらえるかどうかにあるため、選別の強化は企業の存廃に直結する。小規模企業の数は1999年の423万社から2014年には325万社まで淘汰され、企業の廃業数は開業数を倍近く上回っている。市場モデルが想定していたようなベンチャー企業が活発な市場環境とは真逆の結果となってきた。 

 民間企業だけでなく公共機関も同様である。国は配分する予算の総額を抑制しながら、競争的資金を使って管轄下にある組織の選別を強めたり合併を促進したりしてきたが、現場は国の方針に追われ、本質的な問題解決よりも表面的対応に終始してきた。

組織の中で疲弊する個人

 他方、エリート層の所属する大組織でも、少数精鋭を厳選することで、選抜競争はますます激しくなった。大手企業の正社員は「狭き門」になり、そこに残ったとしても、主に組織内の評価を巡る競争が待つ。

 大きく安定した組織のように見えても、より大きなヒエラルキーの中で説明作業に汲々としている実情がある。大きな組織が優先することは、何よりもどうやって組織を維持するかである。大きな組織ほど、縦割りの官僚主義がはびこり、「確実な」成果を求め、ランキングのポジションを競う。組織内では人材選抜の評価・管理を強化しつつ、傘下の下層グループを競争させて、よりコスト効率的な成果をあげようとする。

 選抜競争が激しくなることで、大枠としての管理主義はむしろ強まり、優秀な社員は自分がどれだけ成果を上げるために努力しているかを「証明する」ことに多大な時間やコストをかけている。これでは社会全体の生産性は上がるべくもない。

選抜競争社会から脱却を

 市場モデルの競争と、ヒエラルキー社会の選抜競争とは、まったく質が異なる。問題は競争自体よりも、競争の前提にある社会全体としての組織の構造にある。今の日本は、小さい頃から受験競争をさせられ、大人になっても永遠に受験競争が続くような社会である。言うまでもなく、受験は本来選抜をするだけで何も生み出すわけではない。

 現実を直視するならば、不毛な選抜競争社会から脱却し、国民1人1人のやる気と能力を最大限発揮させて、社会の課題を能動的に解決していくような組織と社会を作ることが急務である。改革すべきは国を頂点とする階層的な統治構造や垂直的な分業関係であり、国が主導して社会の枠組みを整備していく発想すら、もはや前提ではない。

 現状を抜本的に打破するには、戦後の財閥解体・農地改革のように、エリート組織の占有する資源や権限を大胆に分割すべきであるが、難しいであろう。現実には、逆に権力の集中と管理の強化が進み、自由な挑戦を許容する社会はますます遠のきつつある。

オープンでフラットな組織の実験

 こうした状況でも社会の変化を促すには、既存の組織の外に新しい水平的な組織を作る試みを続けるしかない。この先はまた別稿を期したいが、私は、オープンでフラットな組織を試すには、それぞれの組織での工夫とともに、地域という場が求められてくると考えている。

 必要なのは、ヒエラルキー的な上からの指示ではなく、「現場」からボトムアップで問題解決のための自発的な組織を再構築することである。ポスト工業化社会では、企業単位の組織よりも、多面的な要素を含む地域の現場で、異分野の連携が大事になってくる。

 代替的な組織のあり方は、「学習コミュニティ」型となろう。課題解決やアイディアのために、問題意識のある人々が自発的に集まり、専門性を組み合わせて、実現のために、共に学習し、協力して実験事業を試みる。こうした学習と協働のコミュニティに、資源や権限が分配されていくような社会的な仕掛けが工夫されねばならないだろう。