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「鬼滅の刃」煉獄さんが食べた大正時代のそばはどんな味?かき揚げの具を考察してみた

坂崎仁紀大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト
札幌「ながら」の野菜かき揚げそばは実に美しい

「鬼滅の刃 無限列車編」の冒頭にそばを食べるシーンが

 10月10日に放送されたテレビ版オリジナルアニメ「鬼滅の刃 無限列車編」。その冒頭部分を何気なくみていると、鬼殺隊最高位剣士集団の炎柱、煉獄杏寿郎がそばを食べるシーンが映し出された。

 部下らしき若い隊士がそば屋に入ると、すでに煉獄杏寿郎がかけそばを食べて「うまいっ」と叫んでいる。そして煉獄杏寿郎は彼にそばを一杯おごるといい、自分ももう一杯お代わりする。若い隊士はおろしそばを食べてつゆがうまいと感心する。店主が煉獄杏寿郎の食いっぷりをみて感心し、天ぷら(かき揚げ)をサービスする。

 若い隊士が「おやじさん、上野に店を出したって十分やっていけるよ」とそば屋を褒めている。そば屋は暗く、厨房越しに格子状の窓から外の明かりが差し込んでいる。夕暮れ時前だろうか。

 そばを湯通しする小さい湯釜は2つ。竹で編んだテボが1つ入る大きさだ。大きな湯釜がその隣にあり、さらに隣には天ぷらを揚げる大鍋がある。かき揚げが2つ揚げ置きされている。そばは茹で置きしたいわゆる茹で麺で、注文があると、湯通しして提供するタイプである。

 壁には質素なお品書きが並ぶ。右からそば、天ぷらそば、かき揚げ、天ぷら、おしんこ、さらに正宗(日本酒)、焼酎、ビールなどと記されている。

 そば屋は店主が1人で営業している。中台・釜前・板前・花番と大勢で分業している高級老舗店ではない。大正時代の街場の大衆そば屋の情景をうまく描き出している。

そばは江戸時代に人気となり大正時代には大きな産業となっていた

 そばは仁治2(1241)年、臨済宗の僧・円爾(えんに)が石臼によるそば・うどんの製法を中国から持ち帰ったことから始まっている(諸説あります)。そばの製法が各地に広まるにつれて、江戸時代以前、街道の菓子茶屋あるいは飲み屋から派生してそば屋は誕生したと考えられている。今でも甘味処にはそば・うどんがある店も多いし、居酒屋でそば・うどんを提供する店もある。上記の煉獄杏寿郎が食べているそば屋のシーンは居酒屋から派生したタイプである。隣の席で酔っ払いが徳利を倒して寝込んでいた。

 江戸時代後期には江戸市中には約3500軒ものそば屋があったそうで、明治大正時代には、製粉業、製麺業なども大規模化し、そば麺の卸売りも開始されていた。東京の下町では豆腐や納豆、そば玉・うどん玉もみなリヤカーなどを使い、振鈴などで知らせながら曳売りするスタイルの商売が繁盛していた。そばうどんは食産業として大きな一角を占めつつあった。

 明治大正時代はもちろん、食文化が大きく華開いた時代でもある。洋食屋やすきやき店、とんかつ店などが誕生したが、値段は高く庶民にはまだまだ手が出ない存在だった。また、ラーメン屋、中華料理屋などが庶民に人気となりつつあった。そういった時代背景で、そば屋も大きく発展していった。そして大衆化と高級化が徐々に進み始めた時期でもあった。

国産そばの収穫量は大正時代にピークをつけていた

 明治39年には北海道などで駅そばが登場。暖簾会系も明治後期に創業した。そばの産地から上京した人達が、東京でそば屋を始めたのもこの頃である。埼玉県北埼玉郡(今の加須市あたり)出身の片倉康雄が新宿駅東口駅前の食堂横丁に一茶庵を創業したのは大正15年である。その頃の東京の人口は470万人。江戸時代末期で100万人弱なので5倍以上にも膨れ上がっている。国内産そばの収穫量も大正3年頃15.4万トンのピークをつけている。

そば食文化発達の歴史
そば食文化発達の歴史

そばの収穫量の推移(農水省作物統計より作図)
そばの収穫量の推移(農水省作物統計より作図)

煉獄杏寿郎が食べた大正時代のかき揚げは?

 明治後期、そば屋にはカレー南蛮そば、カレー丼、カレーライス、かつ丼、天丼なども登場し、メニューが賑やかになってきた。江戸前の天ぷらが流行して、才巻エビ、青柳の貝柱などがそば屋の天ぷらにも登場した。

 しかし、一方で質素な大衆そば屋では、冷蔵庫もなく魚介の生ものを扱うのは厳しい状況で、天ぷらといえば野菜中心だったとみられる。そのため煉獄杏寿郎が食べていたゴツゴツした感じのかき揚げは、サツマイモのサイコロ切り、長ネギ、人参、玉ねぎあたりの野菜かき揚げのように推察する。サービスがよければ干しエビが少し入ったり、サキイカが少し入ったりする程度だと思う。野菜の天ぷらは当時の家庭料理の定番で、おやつとしても食べられていた。北関東あたりいや全国で今も変わらない人気の天ぷら種といってよい。

野菜かき揚げもいろいろある

 東京・銀座にある「そば処かめや」のかき揚げは揚げ色が浅く、野菜が跳ねるような揚げ姿が美しい。じっくり揚げているようだ。

銀座にある「そば処かめや」の天玉そば(筆者撮影)
銀座にある「そば処かめや」の天玉そば(筆者撮影)

 一方、横浜駅南口前の人気店「鈴一」の天ぷらはややコロモが厚いタイプ。食べ応えがあって腹持ちもよい。厚いもたっとしたコロモの天ぷらもたまには食べてみたくなる。店によっては重曹を少し入れたり、片栗粉を加えたり塩を少々ってところもある。いろいろ工夫されているようだ。関西に行くと、円盤状でペラペラなかき揚げを出すところもある。作り方は多様であるし、どれもうまい。

横浜の超人気店である「鈴一」のかき揚げはコロモ多め(筆者撮影)
横浜の超人気店である「鈴一」のかき揚げはコロモ多め(筆者撮影)

札幌「ながら」の野菜かき揚げをうまく作る方法「低めの温度でからっとじっくり揚げる」

 札幌大通公園近くのオフィスビル地下にある「ながら」は、いなりもカレーそばもうまい人気の立ち食いそば屋である。創業は昭和52年。野菜かき揚げ天は定番メニュー。玉ねぎや人参を細目に切り、やや立体的にカラッと揚げている。出汁の十分利いたつゆにほぐして食べるとまたそれが絶品だという。店主の石野裕司さんにうまく揚げるコツを伺うと「野菜天のコツは気持ち低めの温度でゆっくりめに揚げてカラッとさせること。高温でカラッと揚げると時間とともにくにゃっとなるので…じっくりカラッと」だという。

大通公園近くのオフィスビル地下にある「ながら」(撮影:石野裕司)
大通公園近くのオフィスビル地下にある「ながら」(撮影:石野裕司)

カラッと揚がった「野菜かき揚げ」は傑作的出来栄えである(撮影:石野裕司)
カラッと揚がった「野菜かき揚げ」は傑作的出来栄えである(撮影:石野裕司)

出汁が香るつゆにほぐれていく野菜かき揚げがたまらない(撮影:石野裕司)
出汁が香るつゆにほぐれていく野菜かき揚げがたまらない(撮影:石野裕司)

小伝馬町「そば処おか田」の野菜かき揚げをうまく作る方法「空気を抜く」

 東京・小伝馬町にある「そば処おか田」は人気の大衆そば屋である。天ぷらは開店11時の前に揚げる揚げ置きだが、カラッと揚がっておりいつ食べてもなかなかうまい。かき揚げに冷たいそばと温かいつけ汁の「つけ天そば」はおすすめである。店主の岡田一利さんにうまく揚げるコツを聞いてみたところ、「天水(どろ)の中に入れた野菜の天種をまとまるように油に入れたら、ヘラのようなもので、少しずつたたいて、中の空気を逃がすように揚げると中心までよく火が通る」という。水分が蒸発してカラッと揚がった天ぷらは揚げ置きしてもうまいとか。

閉店間際で少々売り切れているが、それでもうまそうな天ぷらが並ぶ「そば処おか田」(筆者撮影)
閉店間際で少々売り切れているが、それでもうまそうな天ぷらが並ぶ「そば処おか田」(筆者撮影)

「つけ天そば」はかき揚げで注文することが多い(筆者撮影)
「つけ天そば」はかき揚げで注文することが多い(筆者撮影)

煉獄杏寿郎が今の野菜かき揚げを食べていたら…

 野菜かき揚げをうまく揚げるコツは他にもいくつかあるようだ。基本は揚げる温度をできるだけ一定に維持させることだそうである。温度が下がったり上がったりするのはよくない。コロモは薄すぎず厚すぎず。今はステンレスの丸い道具セルクルリング(パンチングかき揚げリング)を使い作るところも多い。天水(どろ)を作るときは、小麦粉と水はあまりかき回さない方がよい。

 今は立体的なかき揚げが人気になっている。東京・初台の「加賀」のようなタイプである。かき揚げは立ち食いそばの人気種として、その時々の世相を反映して変化しているのだろう。煉獄杏寿郎が今の時代のかき揚げを食べていたら、「うまいっ!」を連発して、日本中のかき揚げを食べ歩いていることだろう。

大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト

1959年生。東京理科大学薬学部卒。中学の頃から立ち食いそばに目覚める。広告代理店時代や独立後も各地の大衆そばを実食。その誕生の歴史に興味を持ち調べるようになる。すると蕎麦製法の伝来や産業としての麺文化の発達、明治以降の対国家戦略の中で翻弄される蕎麦粉や小麦粉の動向など、大衆に寄り添う麺文化を知ることになる。現在は立ち食いそばを含む広義の大衆そばの記憶や文化を追う。また派生した麺文化についても鋭意研究中。著作「ちょっとそばでも」(廣済堂出版、2013)、「うまい!大衆そばの本」(スタンダーズ出版、2018)。「文春オンライン」連載中。心に残る大衆そばの味を記していきたい。

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