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Netflix「新聞記者」は事実のどこを「改ざん」してしまったか

境治コピーライター/メディアコンサルタント
週刊文春 2月3日号 P22-23 見開きページ(筆者撮影)

今月配信が始まったNetflix「新聞記者」を、筆者は期待と不安を持って視聴した。感想は「とんでもないドラマ」というものだった。かねてから自殺した職員の遺族が協力を拒んだことは知っていたのだが、これでは断るのも道理だ。事実からかけ離れた部分があまりにも多い。このままでは森友事件について誤った認識が広がってしまうし、裁判にまで影響しかねない。

ところがTwitterではドラマへの激賞が並んでいた。元々安倍政権に批判的だったらしい人びとの「これが真実だ!」「よくぞここまでやった!」というツイートが多かった。こういう人々は、政権批判が広まりさえすればよく、事実関係はどうでもいいようだ。一方「こういうことだったのか」とドラマで初めて事件を知った様子の人もかなりいた。

このままでは事件についての認識が無茶苦茶なことになる。そこに遺族の協力がクレジットされた漫画が週刊ビッグコミックスピリッツで24日に始まった。世の中の認識を変えるきっかけになればと筆者はYahoo!ニュースにこんな記事を翌25日に書いた。

Netflix「新聞記者」と週刊スピリッツ新連載、同じ事件から生まれた別々の物語

だが状況はほとんど変わらず、相変わらず激賞ムードが続いた。ところが26日に週刊文春の早出し記事がネットに出て、27日に文春本誌で製作の過程で何があったかが明らかになった。(有料だがその記事だけデジタル版で読める)「新聞記者」をめぐる空気は一変し、激賞はピタリとやんだ。プロデューサーの河村氏と、遺族との交渉に関与した東京新聞・望月記者が批判を浴びた。

彼らが遺族に何をしたかは判明したが、ドラマとして何が良くなかったのかをここで示しておきたい。

事実をもとにしているのに事実とかけ離れすぎ

文春記事によると、プロデューサーの河村氏はこのドラマを何度も「フィクションですから」と遺族に説明している。フィクションだから事実と違っていいと言いたいのだろう。

だが第1話の最初の方で、テレビの国会中継で時の総理大臣のこんな答弁が聞こえてくる。「私が関与したという事実は一切ございません。私や妻が関係していたとなれば、それはもう私は、それは間違いなく、総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきり申し上げておきたい」安倍元首相独特の無駄に言葉の多い話し方を真似て、誰もが知るあの答弁を言わせているのだ。

栄進学園と名を変えているが、誰がどう見ても森友学園事件をもとにしたドラマだと、この場面ではっきりわかる。フィクションには違いないが、「森友事件をもとにしたフィクション」なのだ。

そうであるからこそ、大筋の事実には忠実であるべきだ。ところが、森友事件にとって重要な以下の点が変更されている。

週刊文春 2020年3月26日号 より(撮影も筆者)
週刊文春 2020年3月26日号 より(撮影も筆者)

※本記事を書くにあたり、確認のため筆者がファイリングしている過去の週刊文春・森友関連記事を参照した

ドラマ:総理夫人秘書が値下げ価格(12億円)を記した書面を財務省理財局長に渡し「総理の指示です」と告げる→事実:土地の値下げ(8億円)について安倍元総理の直接的な指示は確認されていない

ドラマ:理財局長が中部財務局にやって来て書類の改ざんを命じる。命じられた中にのちに自殺する鈴木氏もいる→事実:自殺した赤木俊夫氏の手記には、「現場の私たちが直接佐川局長の声を聞くことはできません」とあり佐川氏の指示を受けた幹部が修正箇所を決めたとある。赤木氏が佐川氏と直接会った形跡はない

ドラマ:自殺した鈴木氏の遺書を遺族が新聞記者・松田に渡すが、新聞社では「上からストップが」と記事にできない→事実:自殺した赤木氏の手記が遺族からフリー記者・相澤冬樹氏に託され、文春でスクープ記事となりその号が完売になる

ドラマ:遺族はテレビ局の取材を受ける決心をするが、どの局も上からの圧力で取材しない→事実:TBS「報道特集」や関西局などが遺族を顔が写らない形で次々に取材して肉声が電波に乗った

ドラマ:遺族が記者とともに元理財局長宅を訪ねると偶然本人と話ができ、彼は国会で証言した通りと言いつつも謝罪する→事実:遺族は相澤記者とともに佐川氏宅まで行ったが呼び鈴は押さず会ってはいない

ドラマ:官僚の中で二人が真実を話す気配が描かれ遺族が起こした裁判が始まる→事実:官僚の中で口を開く人は一人も出てこないまま裁判が進む。二つの裁判のうち一つは突然の認諾で終わる

事件の展開上、重要と思える箇所を取り上げてできるだけ整理して書いたつもりだが、細かすぎてわかりにくいかもしれない。

何よりまず最初の「総理の値下げ指示」の部分だが、これを描いていいならなんでもアリだ。フィクションだから事実を改変してもいいと言いたいのだろうが、改変としてあまりにも幼稚だと思う。(そして値下げ価格を増やした意味は何だろう?)

官僚が事実を話すことも含めて、そんなに単純な事件ではない。あまりにもお気楽だ。

テレビや新聞が官邸の圧力で封じられるのもおかしすぎる。そもそも朝日新聞が森友事件をスクープし、テレビは連日安倍昭恵氏の滑稽な学園訪問映像を流したわけで、当初から官邸に抑える力はなかった。マスコミが官邸に支配されているという、陰謀論めいた思い込みに製作陣は侵されているようだ。

とにかく、事実と違いすぎて「めちゃくちゃ」なのだ。事実の重みを軽んじている。ひょっとしたら事件の関連記事や遺族の書籍も読んでいないのかとさえ思えてしまう。

何より改変の意図がよくわからない。それぞれの事実を変えることにどんな意義があったのか?実際には冷たく門を閉ざし続ける元理財局長が謝る場面をなぜ加えたのか。佐川氏をいい人と言いたいのだろうか?

森友事件と遺族の裁判は、事実を並べるだけでも胸が苦しくなるしエキサイティングな展開だ。そのまま描いても十分見ごたえあるドラマになっただろう。また籠池氏の騒動もありわけがわからなくなった森友事件をこの機に整理することにもなったはずだ。わざわざ変える意味がどこにあるのか?

もちろん事実をもとにした映画に、定型的なルールなどない。思い切り翻案した物語だってある。必ず関係者の許諾が必要とも限らない。何をどう描いても自由だ。

でもだからこそ、何にどう留意せねばならないかはケースごとによくよく考える必要がある。自由だからこそ責任が問われる。「新聞記者」で言うと、まだ裁判は続いておりその行方に世間が注目している。事実をもてあそぶように改変することは社会的に許されないと私は思う。むしろ慎重に丁寧に物語化すべきだ。さらにこのケースで、道義的に遺族との話し合いが必須であることは言うまでもないだろう。遺族の側に立つはずの物語を、遺族の了承なく、遺族の気持ちを逆撫でする形で進めるのはどういう了見なのか。

浅い考えで雑な進め方をしたから、大きなしっぺ返しを食らった。文春の記事の通りならほとんど河村氏と望月氏の責任と言っていいと思うが、監督や脚本陣も反省すべき点がないか、考えた方がいい。上に書いた改変をどんな理由で行ったのか、なんらか説明すべきではないだろうか。

逆に役者たちに責任はないと言っておきたい。むしろ、それぞれが今までにない熱演を見せている。ストーリーに呆れながら最後まで飽きずに見られたのは熱演があったからだ。役者陣も社会的意義を感じていたのだろう。遺族の了承がないからと出演を断った俳優もいたらしいと記事にあるが、全員がそれほどこの件に詳しいわけではないのだから。

Netflixと日本アカデミー賞には責任がないか?

河村氏だけでなく、Netflixの責任も問われるところではないだろうか。河村氏は後から遺族に謝罪した。つまり許諾を得ないと道義的によくないと感じていた証だ。

Netflix側はそれを知っていたのだろうか?文春記事を読むと、遺族との交渉を河村氏が慌てて打ち切り、制作発表に至ったようだ。許諾を得てないことをNetflix側も知りながら制作発表をさせたのかどうか。説明すべきだと思う。記事によれば、文春がメールしても「弊社よりお答えできることはございません」との返信だったそうだ。公開済みのドラマを買い付けたのではなく、A Netflix Seriesのクレジットなのだから、なんらか声明を出すべきだと筆者は考える。河村氏が世間から非難を受けて終わるようでは、それこそトカゲの尻尾切りだ。

Netflixは遺族の協力を正式に得たドラマを再製作すべきではないだろうか。同じ役者、同じスタッフで同じくらい予算をかけ、事実に即して作れば、必ず力強いドラマになるはずだ。それくらいの度量もある会社だと思うがどうだろうか。

日本アカデミー賞の責任も問いたい。映画版「新聞記者」を見た時も「とんでもない映画だ」と思った。今回のドラマ版と同じで、明らかにモリカケをもとにしつつ、ある大学の設立認可がおりた背景を追及すると、生物兵器開発が目的だったことがわかる、という荒唐無稽な物語だ。ネットで一部の人たちが信じるおかしな陰謀論をそのまま映画にしたような内容。ドラマ版の「あり得ないほど薄暗い内閣情報調査室」も映画版にすでに出てくる。

ところがドラマ版同様、安倍政権を批判しようとウズウズしてる人たちが絶賛。そこまではいいが、日本アカデミー賞を受賞してしまうとは。「事実をもとにしたトンデモフィクション」に日本の映画界がお墨付きを与えてしまった。筆者は、同賞の審査はどうなっちゃったのかと驚愕した。

河村氏が増長したのは、アカデミー受賞が大きいのではないか。賞の権威も落としてしまった。

ある方が教えてくれたのだが、同賞の審査員は「映画は見てなくても評判がいいから」投票することもままあるそうだ。そして「新聞記者」は公開規模が近年の受賞作の中ではかなり小さい。見ていない人の投票が作用した可能性は高い気がする。

その真偽はわからないが、陰謀論めいた映画に受賞させた日本アカデミー賞の責任も大きいと筆者は思う。作品を見ないと投票できない制度にするなど、改善すべきではないか。

散々批判しておいてこう書くのもなんだが、Netflix「新聞記者」を見なくていいと言うつもりもない。むしろ「事実と違う」ことを知った上で見る意義はあると思う。役者たちの演技は素晴らしいし、自分で調べて事実との違いを確認してもいいと思う。見た後で週刊ビッグコミックスピリッツで始まっている、遺族の協力がクレジットされた漫画を読むと、同じ事件がドラマと全く違う形で描かれているのを比べられる。

「新聞記者」は今回の騒動を経て、結果的に森友事件をあらためて広める効果を発揮したと言えなくもない。そうすると、事実の改変にも意義があったという逆説的な評価もできそうだ。

コピーライター/メディアコンサルタント

1962年福岡市生まれ。東京大学卒業後、広告会社I&Sに入社しコピーライターになり、93年からフリーランスとして活動。その後、映像制作会社ロボット、ビデオプロモーションに勤務したのち、2013年から再びフリーランスとなり、メディアコンサルタントとして活動中。有料マガジン「テレビとネットの横断業界誌 MediaBorder」発行。著書「拡張するテレビ-広告と動画とコンテンツビジネスの未来」宣伝会議社刊 「爆発的ヒットは”想い”から生まれる」大和書房刊 新著「嫌われモノの広告は再生するか」イーストプレス刊 TVメタデータを作成する株式会社エム・データ顧問研究員

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