火のないところに煙を立ててニュースを作っている~金子議員への報道について~

「魔の2回生」として豊田議員などとシリーズで取りあげた記事だ

金子議員の「公用車私用疑惑」ではなく週刊新潮の「誤報疑惑」

今週発売の週刊新潮で、金子恵美議員が公用車を保育園の送り迎えに使った、つまり私用に使ったことが報じられた。「自民党魔の2回生」というシリーズタイトルがつけられ他の問題と並べられた記事なので思わず「それはけしからん!」と反応したくなる。“美人代議士”とおやじ週刊誌らしい肩書きがついた金子議員についての記事を読むと、ある日の保育園送迎を克明にレポートしていた。確かに議員宿舎から公用車に子どもを乗せて議員会館にある保育施設に預けたあと、霞が関に向かったとある。さらに“国会関係者“が声を潜めながら「バレたらまずいと噂になっている」と言ったそうだ。

だがあのあたりの地理を思い浮かべて「そんなに悪いことかなあ」と素朴に感じた。赤坂の議員宿舎から霞が関に行く際に、ちょっとだけ寄り道すれば議員会館に行けるのだ。それに議員会館の保育所は勤務先の施設と言えるので言わば企業内保育所だ。もともと出勤時に預ける前提で作られた施設のはず。

しかし記事は終始「バレたらよくないことをやっている!」前提で書かれて途中に識者のコメントも挟みながら、最後のトドメに総務省の「公用車に関する窓口」の担当者の言葉として「途中の保育園で子どもを降ろす?ないです。家族を乗せること自体ダメでしょう」との証言を掲載している。“総務省がやってはならないことだと認めた!”というエンディングだ。

つまりこの記事は、国会関係者の間でもバレたらまずいと言われていた公用車での保育園送迎の様子をレポートし、最終的には総務省もやっちゃいけないと認めた、という構成になっている。総務省のルールに背いているとはっきりしたからニュースにしたのだと思う。最後の担当者のコメントがなければニュースとして成立しなかっただろう。

ところが木曜日の朝のフジテレビ「とくダネ!」でも、新潮の報道を受ける形でこの件を取りあげたのだが、番組として確認したところ、総務省としてルール内と認めている使い方だったと伝えた。「自宅→私用→公務」もしくは「公務→私用→自宅」という使い方ならありだと。そうやって詳しく説明するからにはきちんと確認したことを伝えているのだろう。ちなみに私なりの情報源からも、総務省のルール内だとわかった。

こうなると、ニュースだと思ったことが、ニュースではなかったことになる。ルールに則ってやっていたのなら金子議員には何の罪も科もないはずだ。庶民感情に照らして不平不満を言ってもいいとは思うが、金子議員にはどこにも悪いところはないのだ。政務官が公用車で保育園送迎をするのが不満なら、総務省のルールに文句を言うべきところだ。

そして、だとすると週刊新潮が「バレたらまずい」とか「総務省がやってはならないと認めた」前提自体がまったく失われてしまうことになる。そしてなぜ週刊新潮が大ニュースであるかのように伝えたのかと大きな疑問を感じてしまう。この件は、金子議員の「私用疑惑」のはずだったのがいまや週刊新潮の「誤報疑惑」に転じたのではないだろうか。

あるジャーナリストの信頼を失った週刊新潮

週刊新潮への疑問をさらにふくらませたくなる話がある。保育・教育をメインに活躍するジャーナリスト猪熊弘子氏は、当該記事に専門家としてコメントをしている。保育をする側のために発言する猪熊氏のコメントとしてはずいぶん金子氏にきついなあと気になっていたのだが、彼女がこんなツイートをしていたのだ。

つまり猪熊氏は、最初は「企業内保育所なので問題ないと思う」とコメントしたのだが、「総務省がダメだと言っている」からと再び電話してきたのでいくつかの事例を言ったのだ。

記事が掲載されたあと、総務省の見解を知ったので、新潮に電話して前提がちがってるじゃないですかと文句を言ったがあとの祭りだった。

猪熊氏はFacebookでもお友達限定で投稿している。転載していいとの許諾をいただいたので、部分的に紹介しよう。

新潮の記者に電話しました。だって「問題だ!」という前提で話せ、と言われたんですからね。前提が違うので、話しにならないじゃないですか。

そうしたら「総務省には私とは別の記者が取材したが、そのときは<ダメだ>と言われた。<金子議員が公用車を使っている>と伝えたら絶句した。それがなぜか今日になったら<問題ない>になっている」という答え。

(中略)

「大前提が違ったら、答えが違う。そんな話しじゃなかったでしょう?」と問い詰めたところ、「でも、猪熊さんのコメントは全く問題ないです」と言うのです。

マジ切れしました。

「問題があるかないかは、あなたが決めることではない。私が決めることです!」と言って電話を切りました。

さらに猪熊氏はこんなツイートもしている。

猪熊氏は、もちろん保育にまつわる不条理にはよく怒るが、ふだんは柔らかで温和な女性だ。そんな彼女がtwitterでここまで言うのはよほど怒っているのだろう。週刊新潮はジャーナリストという“仲間“の信頼を裏切ってしまったのだ。

他メディアの情報を鵜呑みにしているマスメディア

さて私が言いたいのはここからだ。週刊新潮の誤報疑惑に輪をかけて問題ではないかと思うのが、それを受けての他のメディアの伝え方だ。

まず「とくダネ!」は自ら総務省に確認して、週刊新潮が伝えた“ルール違反”は実は総務省がルール内と認めていることだと明らかにした。そうすると、金子議員の“私用疑惑”は疑惑でも何でもなくなったわけで、その追及や議論はそこで終わるはずだ。むしろ「週刊新潮が誤った事実を伝えた」ことを突き止めたのだから、そこをさらに追及するべきではなかったか。

ところが「とくダネ!」ではその後も「それにしても・・・」と金子議員の行動の是非を議論し続けた。ゲストの国際政治学者・三浦瑠麗氏と社会学者・古市憲寿氏が揃って「金子議員には責められるべき点はない」と強く主張したのでよかったのだが、残りのキャスターやアナウンサーたちは引き続き金子氏の科を問い続けようとしていた。

週刊新潮の指摘はルール違反ではなかったことを自ら示した「とくダネ!」がなぜかそこを離れ、何が問題か曖昧な話に流れていった。新潮の報じ方を誤報ではないかという問題提起ができたのに。あのニュースは、実はニュースではなかったのだと言えたのに。まるで、週刊新潮が問題として記事にしたのだから問題なのだと、そんな前提から離れられないように見えた。

他のメディアも似たりよったり。「公用車私用疑惑」のタイトルで金子議員の顔を映す。いや、私用疑惑ではなかったのだ。疑惑はそもそも存在しなかったのに、見出しに使い続ける。

火のないところに煙は立たない。だが今回、実際には火は存在しないのに、自分で煙を立てて「ほらそこに火がある」ことにしてしまった。火がないことがわかったのに、新潮が立てた煙だけを見てニュースとして伝え続けているのだ。

最近これに似たことが多くないだろうか。何が燃えているのか、よくよく見ると火は存在しないかもしれないのに、煙だけが強引に存在するかのように書き立てる。

最近のとくにテレビは、週刊誌にニュースを”もらって”いる。何がニュースかを週刊誌が決めている。音声素材まで週刊誌から分けてもらっているのだ。何がニュースかを自分で決められないメディアは、メディアと言えるのか。私が問いたいのは、そこだ。

ふつうの視聴者たちは意外に冷静に見ていた

私は昨日一日、twitterで「金子議員」などと検索してちょくちょく見ていたのだが、不思議と当初から「金子議員のどこが悪いのかわからない」という論調が多かった。「金子議員の私用疑惑、ネットで炎上」などと見出しにするメディアもあったが、実際には炎上というほどにはなってなかった。一部にはもちろん「庶民感情に照らすと・・・」と批判的なツイートもあったが大半は「どこが問題なのだ」というものだった。メディアが新潮に踊らされても、一般の人びとは踊らなかった。

昨日私は別の記事で、人びとのメディアに対する意識が「インターネットの情報は鵜呑みにできない」し「気になる情報は複数の情報源で確かめる」という、慎重にメディアに接する方向に変化していることを書いた。(→飽和するスマホ、押し寄せる情報~メディア総接触時間、減少へ~)

スマートフォンの普及で情報量が格段に増えたことにたじろぎつつも、リテラシーが高まっていこうとしているのだ。リテラシーというと、ネットに強く相当頭の良い人の能力に思われがちだが、これだけ情報量が増えると誰しも敏感になるのだと思う。もはや情報の受け手はあなどれない。読者・視聴者は情報を選別し、あやしいメディアのニュースは疑ってかかる時代だ。きちんとした情報を伝えていかないと、読者から見離されてしまう。

裏どりの甘い週刊誌の記事をテレビが安易にとりあげていると、そのうち誰も見てくれなくなるかもしれない。そんな時代はすでにはじまっている。