日本のスクラップ&ビルド、東宝映画のスクラップ&ビルド『シン・ゴジラ』

パンフレットには「ネタバレ注意」の帯。もちろんこの記事もネタバレしない

ゴジラは何度も生まれ変わろうとして再生できずにいた

60年代生まれの私にとって、生まれて初めて映画館で観た劇映画は『ゴジラ対ヘドラ』だった。幼い私は大興奮したが、連れていってくれた昭和一桁生まれの父は、少し不満だったようだ。父は1954年の第一作から劇場で見ており、その後テレビで初期の頃のゴジラ映画が放送されると、いろいろ解説してくれた。最初から数作のゴジラ映画は大人向けだったのだ。ところが私が物心ついた頃から子どもっぽくなり、『ヘドラ』の翌年の『ゴジラ対ガイガン』ではゴジラとアンギラスが吹き出しで会話して、子ども心にもがっかりした。

ゴジラシリーズは昭和のシリーズ製作を75年でやめてしまい、84年からまたシリーズを再開したが95年で中断し、99年からまた製作をはじめて2004年で途絶えていた。そのたんびに、第一作へ回帰するのだと大人っぽく生まれ変わろうとして結局興行的には子ども向けにならざるをえず、それでも動員が伸びなかったようだ。自分たちの資産としてゴジラにこだわる東宝の姿は、黄金期をよみがえらせたいと苦闘する日本映画の象徴でもあったと思う。

98年にはハリウッド製作のゴジラが登場しさすがの迫力だったが、カンジンのゴジラが”巨大化したトカゲ”で、日本のファンは大ブーイングだった。2014年には新たなハリウッド版ができて、監督がゴジラをリスペクトしていたとのことで、ようやく日本のファンも満足した。

だから東宝はもう、自分たちでゴジラを作るのは諦めたのかなと私は思っていた。戦後の青年だった父を興奮させたゴジラは過去のものでしかないのだろうと。

庵野秀明がゴジラを撮る、と聞いた時、その意図がわからなかった。アニメ作品『エヴァンゲリオン』の”作家”であり、実写の映画は何本かあるとは言え、かなりクセのある作り手だ。独特の解釈をしてゴジラが台なしになっちゃうんじゃないかと危惧した。でもそれは”心配した”わけではなく、私からすると”終わった”ゴジラをまた別の味付けで見せてくれるのかな、それもいいかもな、と要するに期待しない期待だった。

公開二日目の7月30日土曜日に映画館で観た『シン・ゴジラ』は、期待しない期待を大きく裏切るものだった。

『シン・ゴジラ』は見たこともないゴジラ映画、我々のよく知るゴジラ映画

どう裏切っていたかを書きすぎると”ネタバレ”になってしまうし、私は映画批評をするつもりはないので、詳しいことは書かないでおく。だがそこで見たのは、原点回帰を果たしているのに、まったく見たこともないゴジラだった。だからタイトルは『ゴジラ』ではなく『シン・ゴジラ』でなければならなかったのだろう。

例えばその造形だ。これまでのゴジラとまったくちがい、フルCGなのだそうだ。ところが、どこか”着ぐるみ”っぽいのだ。人が入っていそうにも見えるし、ハリウッド映画の恐竜のように爬虫類っぽい動きはまったくしない。一方これまでのゴジラはどこか愛嬌もあり人間と仲よくできそうにも見える存在だったが、シン・ゴジラは人との交流は絶対してくれそうにない。温かい心など微塵もないのは、目を見ればわかる。

98年のハリウッド版のゴジラがあまりにただの巨大なトカゲであることにイラついた日本のファンは、「ゴジラは恐竜じゃなくて神なんだけどなあ」などと言ったものだが、シン・ゴジラはちゃんと神だ。荒ぶる神、人知を超越した存在として描かれている。

「現実対虚構」のキャッチコピーに「ニッポン対ゴジラ」のコピーも添えられている
「現実対虚構」のキャッチコピーに「ニッポン対ゴジラ」のコピーも添えられている

シン・ゴジラには自衛隊が対峙する。我々のよく知るゴジラ同様、居並ぶ戦車隊から一斉砲火を受け、戦闘機にミサイルを撃ち込まれる。もちろんびくともしない。ただその描き方がすさまじい。戦車や航空機の動きが細かく作り込まれこれまでのような”作り物”感がまったくない。自衛隊の人びとの場面も細かく描かれているので、これまでにないリアリティ、迫真性がある。我々のよく知る街が空撮で映し出される。よくニュース映像で見るのと同じトーンだ。だがそこにはゴジラがいて、我々のよく知るビルをなぎ倒していく。

明らかに阪神と東日本の震災を意識している。思い出させる。その時に逃げ惑う人びとになす術もなかったのと同じように、劇中の人びとはうろたえるだけだ。我々のよく知っている現実と、我々が経験した災害の風景の中に、ゴジラという荒ぶる神が押し入ってきて現実と虚構をかき乱す。我々観客はスクリーンの前で映画を楽しむより、ぼう然としてしまうのだ。

東宝のスクラップ&ビルドへの決死の覚悟を受けとめた

映画の中身をついつい語ってしまった。それはこの文章の意図ではない。私が語りたいのは、この映画が持つ、東宝という映画会社にとっての意義であり、日本映画にとってのメッセージだ。

東宝は、ついにゴジラをほんとうの意味で復活させることができた。1954年以来のシリーズは一度途絶え、その後2回も再起動させたものの、いつも第一作を超えられずにここまできた。その歴史をくつがえしたのだと私は思う。

映画を観てもらうとわかるのだが、この物語はゴジラという荒ぶる神に破壊し尽くされた日本が再起しようとする、スクラップ&ビルドのストーリーだ。ぶち壊されても、もう一度作り直せばいい。壊れることで、新しく作り直すことができる。そんなメッセージを誰しも受けとめるだろう。

それはゴジラシリーズについても重なるメッセージだ。ゴジラを一度ぶっ壊して、ゴジラへの愛とリスペクトを忘れないで作り直せば、そこには新しいゴジラが出現する。だから、『シン・ゴジラ』なのだ。

そのスクラップ&ビルドは、東宝という映画会社自身の再生でもあるのだろう。三度シリーズが潰えてハリウッドに渡してしまった状態でも、なぜ東宝自身でゴジラを復活させるのか。自らの再生を込めているのだ。

90年代半ば、日本映画は最低の状態に陥っていた。ハリウッド映画に押され、若者からは日本映画=ダサいとのレッテルを貼られあがいていた。それが2000年代に入ると浮上したのだが、その内実はテレビ局に頼り切っていた。企画も製作もイニシアチブはテレビ局が握り、東宝はじめ映画会社は、配給と宣伝を担当している調整役だった。テレビ局は製作費のいちばんの担い手だったし、そのプロモーション力がなければ映画はヒットしない状況だった。企画を映画会社に持っていくと、「テレビ局はどこがついてますか?」と言われるのが常だった。

ところがここ数年、テレビ局が一時の勢いを失い、出資金額でもプロモーションでもひところより腰が引けてきている。映画会社側が本来のイニシアチブを取り戻す時なのだと思う。実際、このところ東宝が単独で製作する作品が増えてきている。そのフラッグシップがゴジラなのだ。

終了後売店にパンフレットを求める列が。なかなかない光景だ
終了後売店にパンフレットを求める列が。なかなかない光景だ

庵野秀明の手になるゴジラが進行する間、きっと東宝の社内でも議論があったのではないか。あれをゴジラとしていいのか?ゴジラはあんなことするはずない!その議論を制し、庵野秀明の世界観に託したのは大いなる勇気であり、大きな賭けだっただろう。

その賭けは成功したと私は思う。ゴジラが本来持つ、大人も楽しめるエンターテイメント性の高さ、社会的なメッセージの強さ、いずれも第一作を裏切らず、シリーズを超えている。

亡くなった父に見せたかったと思う。どんな感想を持っただろう。年寄りには情報量が多すぎだが、面白がったんじゃないだろうか。もちろん、もう確かめようはないのだが。