元新聞記者がフリージャーナリスト、プロデューサーになるまでの奮闘記

人は一人では生きていけない(ペイレスイメージズ/アフロ)

初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載

このところ、第二次、第三次の起業ブームが起きています。個人がサラリーパーソンから独立し、士業やコンサルタント、また個人事業主として食っていくとき、どのような困難が待ち受けているのか。私は一人の独立した人間として、他の先人たちに興味を持ちました。彼らはどのように独立して、食えるにいたったのか。それはきっと起業予備軍にも役立つに違いありません。さきほど、「第三次の起業ブーム」と入力しようとしたら、「大惨事」と変換されました。まさに大惨事にならない起業の秘訣とは。元新聞記者の佐藤修さんにお話を聞きました。

――佐藤さんが会社を辞めた理由について、お聞かせください。

新聞記者だった自分のですが、会社を辞めた理由は、3点に集約できると思います。

一つめは、記者という仕事は大好きだったけれど、会社という組織が大嫌いだったことです。特に、不毛な会議には辟易していました。 

二つめは、組織の中で、自分の居場所がなくなったと感じたことです。経営悪化により、早期退職の募集、つまりリストラが始まり、仲間が続々と退職していく様を見ているうち、いつしか自分自身の気持ちも組織から離れていきました。40代になって記者職に就いた私は、所詮、記者が所属する「編集局」という部署では亜流で、どんなに頑張っても、社会部・警視庁担当や政治部・首相官邸番にはなれないのだと、限界を感じていました。

そして三つめは、自身の中で蓄積されてきた経験や実績、そしてそれらによって作り上げてきた人脈が成熟し、ビジネス展開のベースになるという手ごたえを感じていたことです。組織を離れ、自分の底力がどの程度のものか試してみたかったことです。

退職の理由は、前向きなもので固めたかったところですが、二つめの「組織の中で居場所がなくなった」といったネガティブなものもありました。取締役や社長のイスが約束されていたなら、会社を辞めるという決断はしなかっただろうと思います。

全ての人に当てはまるとは思いませんが、定年退職前に組織を去った人の大半は、なにがしかのマイナス要因を抱えていたのではないでしょうか。プライベートな事情だったり、組織に対する不満だったり、人それぞれでしょうが、この「負」の部分が、会社を辞める大きな要因だったと、正面から受け止めることができるかどうかが、起業して生きていくうえで非常に重要なことだと私は思っています。己の負けは負けと認め、次のステージで勝つための戦略を練ることができない愚か者には、勝利をもぎ取ることなどできないはずだからです。

――起業準備で大変だったことについて、お聞かせください。

一般的には、起業する上での一番の苦労は、資金の調達でしょう。しかし私は、退職金から起業資金をねん出できたため、銀行相手にわずらわしい手続きをすることもありませんでした。今振り返ると、私を苦しませた一番の原因は、「人」でした。世の中にわんさといる、でたらめな人たちだったのです。組織の庇護から外れたことで、私が受けた洗礼でした。

まず挙げたい事例は、いい加減な中小企業診断士によって、えらい目にあわされたことです。千葉市の外郭団体で「創業補助金」の申請サポートサービスを受けたときの出来事です。詳細は省きますが、千葉市の創業補助金を受給するにあたり、その団体は、中小企業診断士の資格を持った職員を私の担当にしました。この職員の凡ミスで、私の創業補助金申請は、申込み締切日に間に合いませんでした。つまり、補助金の需給が受けられなかったのです。損害賠償請求さえ考えたのですが、プロだと安心しきって、その担当者任せにしていた自分が愚かだったと思うようにして矛を収めました。

この件以外にも、営業サポートだったはずの仕事の依頼が、ふたを開けてみれば、私と警察とのパイプを見込んだ、社長の愛人のボディーガード役だったり、個人から依頼された出版プロデュースでは、出版社が決定した途端、依頼者(著者予定者)本人と連絡がつかなくなり、出版社と直接契約されてしまうという哀れなケースもありました。会社を辞めた直後は、とにかく、「でたらめな人」「平気でうそをつく人」たちに翻弄され続け、平静を取り戻すには、それ相応のエネルギーと時間が必要になってしまいました。

――初めての営業と、受注に至るまでの苦労を教えてください。

退職して3か月ほど経ったころでしょうか。私が登録していた千葉市のシェアオフィスにおいて、「広報・PRセミナー」の講師を務めたことがありました。思えばこれが、初の営業行為だったといえます。中小企業経営者や起業家にとって、ハードルが高いと思われるマスメディアは、どのように攻略したらよいのか。どのようにアプローチすれば、商品や経営者本人がニュースとして取り上げられるのか、といった広報・PR戦略のセミナーでした。

効果的なニューリリース(プレスリリース)作成法や配信方法、マスメディアの仕組みや心理など、私が知っている知識を開陳しただけなので、手間暇かけた資料も必要なく、緊張することもなかったのですが、けっこうな反響があり、セミナー終了後には、私の前に名刺交換の列ができたほどでした。「うちの会社の広報・PRをお願いしたい」「売れ残ってしまった商品をさばくためのPRをどうすればよいか」などなど、複数のオファーを受けました。意外にすんなりと、複数のコンサル契約が決まってしまったのです。

とまぁ、こんな風にお話しすると、順風満帆を気取っているようで、嫌味な感想を抱かれる向きもあると思うのですが、どの仕事も高額ギャラというわけではなく、コンサルという肩書で食べていくには程遠い状況でした。ギャラの減額を要求してくる人もいたし、「無料でどうか」という、「それは仕事とは言わないですよね」と突っ込みを返したくなるような話さえありました。また、起業家の中には、アポの時間に平気で遅刻してくる人、アドバイスを伝えても言うことを聞かない人など、とにかく意識の低い人たちが多く閉口したものでした。「コンサルタント」といえば響きはいいかもしれないけれど、とにかく、かっこ悪かったのです。

――起業前の想像と、起業後の現実で違ったことはありますか?

私は当初、次の3点で生計を立てようと考えていました。一つめは、フリージャーナリストとして、取材活動と執筆を続けること、そして、著作を世に出すことです。二つめは、取材で知り合った特殊なスキルの持ち主、魅力的な人たちを、文化人タレントとしてプロデュースすることです。つまり、文化人タレントのプロデューサーになることです。最後の三つめは、自身の住まいでもある、昭和30―40年代建築の平屋住宅(賃貸住宅)をリノベーションし、飲食店(カフェ)や宿(ゲストハウス)、ギャラリーとして再生させ、商業目的だけでなく、自身の書斎&取材スタジオとしても活用することです。

フリージャーナリストとして華々しく活躍し、TVのコメンテーターなどを務める自分の姿を夢想し、自身がプロデュースした文化人タレントが「バカあたり」して売れっ子になり、ザクザクと高収入が転がり込んでくるという、わが世の春を謳歌している自分を夢見ていました。

しかし、約25年間、新聞社という組織に守られてきた私は、無意識のうちに「安定」という二文字を求め、迷路に迷い込んでいたようです。「うちの会社を手伝ってくれませんか」「うちの顧問になってください」などといった誘いに乗っかってしまい、少額のギャラで利用されるという愚を繰り返しました。フリージャーナリストとして胸を張ることのできる取材や原稿執筆もほとんどなく、タウン誌の広告企画で、企業の提灯記事を書くのがせいぜいでした。

文化人タレントの発掘・プロデュース作業も同様でした。商品は「人」なわけで、ましてやいい歳の大人だからプライドも高いのです。扱いにくいことこの上ない人ばかりで、思うに任せない状況が続きました。とにかくいうことを聞いてくれず、「オレはこう思う」などと切り返される始末です。もともと、メディアに出てスポットライトを浴び、一旗あげたいという思考の人たちなのだから、アクが強いのは当たり前なのですが、そういった人たちと付き合わねばならない状況を想定できていなかったため、辟易する場面の連続でした。

ビジネスだけでなく、人生全般に言えることなのでしょうが、人は一人では生きていけないわけで、公私ともに、自分が付き合わねばならないであろう厄介な相手をイメージすることが、起業の際には重要なのだと思い知りました。

起業準備を進められている方々に強くお伝えしたいのは、資金対策よりも何よりも、世の中にあふれている「厄介な人たち」の対策が重要ということです。そういった人たちと上手に付き合うことが、無駄な遠回りを避け、成功への近道につながると思うのです。

――いくつかの試練を乗り越えて思うことはありますか。

はい、会社を辞めた後、私の前に立ちはだかった試練はいくつかあったのですが、そこから学んだことは、夢(ビジネスプラン)の数は幾つあってもいいのですが、優先順位を決めて、一つ一つ丁寧につぶしていくことが大切だということです。例えば私は、退職後しばらく、目標へのルートを見失ってさまよっていたのですが、休日を活用した平屋リノベーションだけは続けていました。気分転換程度の意識ではありましたが、たまたまこの作業を継続していたことで、今年の1月、カフェをオープンさせることができました。

店舗が出来上がってみると、「これは、間違いなく自分が建てたものだ」という自信が湧き、心のよりどころになりました。また、仕事の拠点ができてみると、様々な「人」と「情報」が集まるようになりました。不思議なもので、新たな仕事のオファーも増えました。

3つあったプランのうち、1つを実現させたことで、他の2つのプランも大きく動き出しました。現在、フリージャーナリストとしての取材&執筆作業、文化人タレントプロデュース、企業や政治家の広報・PRを各2~3本ずつ抱えています。

最近よく思うのは、会社を辞める時に考えていた自分の成功イメージは、自分自身のことだから、ピントはずれていなかったということです。行き詰ったり迷いが生じるのは当たり前の話で、そのような状況に直面した場合、どれだけ冷静に、どれだけ客観的に方向修正できるのかが、ポイントだと思います。複数のプロジェクトを抱える場合は、まず優先順位を決め、まずは一つを形にすることが重要です。

それと、自分自身が描いていた成功イメージと、マーケットが客観的に判断する自分の価値には、けっこうな差異が生じていることが多いとお伝えしておきたい。自分自身の思い込みと、市場の評価は違っているケースが多いのです。「あなたが光り輝く仕事の方向性は、こっちじゃない?」といった、他人の客観的な評価に耳を傾けられる自分であってほしいです。

私は、フリージャーナリストとプロデューサー、飲食店オーナーといった、“三足のわらじ”を履こうと目論んでいたのですが、しばらくの間、収入の柱になっていた仕事は、政治家や経営者の広報・PRサポートで、最もこだわっていたジャーナリストとしての活動は、週刊誌とネットメディアでの執筆程度でした。

ジャーナリストとしての地位を築くこともないまま、想像していなかった切り口のオファーが相次ぎました。今まで見向きもしなかった「政治」「経済」に関わる仕事が増えました。

広報・PRの仕事は、メディア対策、マスコミ対策のスキルが必要とされるため、自分自身も手ごたえを感じながら推し進めることができたのはラッキーだったと言えるでしょうが、「あなたの良さ、あなたが魅力を発揮できる場所は、ここですよ」と、的確な判断を下してくれるのは、案外、他人様(クライアント)だったりするものなのです。

――それでは最後に、今後の目標・夢をお聞かせください。

今の私の優先目標は、空家をリノベーションし、飲食施設や宿泊施設として生まれ変わらせる事業の全国展開です。全国で問題化している「空家対策」に、地元の大学と連携して対応し、飲食施設や宿泊施設などへと再生するプロジェクトを全国展開しようというものです。そのために5月、国立大学の准教授や著名アスリートなどを理事に迎え入れ、一般社団法人を立ち上げる予定でいます。北は北海道から南は沖縄まで、全国で計7拠点を作り上げようと考えています。

各地の拠点を訪ね歩くことは、私にとっては大好きな旅を1年中続けられるという状況になるわけで、拠点から拠点へと渡り歩いているだけで、1か月、1年が過ぎていくという、いわゆる「ノマド生活」が手に入るという計画です。

そして並行して進めたいのが、自身が最もこだわっているジャーナリストとしての活動です。オープンさせた千葉市のカフェをスタジオ代わりに活用し、ここで原稿を打ち、インタビュアーとしてのジャーナリスト活動を本格的に始動させようと考えています。旅と取材&原稿執筆、そして飲食店経営。この3点をそれぞれ成立させ、それ相応の収入を得ることが、私の大いなる目標であり夢です。これがすべて叶ったとき、私は「会社を辞めてみたら、ぼくは幸せになれました」と胸を張って言えるようになるのだろうなと思います。まだもうちょっと、先のことになりそうですが。

<プロフィール>

佐藤修(さとう・おさむ)

元産経新聞、サンケイスポーツ記者

産経新聞社在籍時は、千葉県警から千葉市政、県政を担当し、のちにサンケイスポーツ社会面担当記者。事件事故、永田町、芸能ネタに至るまで、オールラウンドにカバーし、スクープを連発した。

現在は、千葉市中央区で、千葉大教員らと連携し、築40年以上の空家をリノベーションした「AOSORA CAFE」オーナーとして店に立ちつつ、定休日は、ネットメディアや週刊誌の取材のほか、企業や政治家の広報・PRなども務めている。

自動車の国内A級ライセンスや、自然観察指導員といった、個性的な資格も有しており、カー・インプレッションや動植物のネイチャー取材もこなす。昭和38年生まれ。

初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載