●99年の年末の出来ごと

今年も東京ゲームショウが開催された。サイバー空間での開催である。その理由としてコロナ禍ばかりに目が行ってしまいがちだが、それだけではない。そもそもゲーム業界は変化が激しいところだ。

SEGAが、家庭用ゲームハードから撤退して20年と少し、そしてゲームセンター市場から撤退して1年となる今だが、21年前にSEGA社で起きたことを紹介しようと思う。

当時の市場勢力図は、ソニーのPlayStationが大きくシェアを取り、任天堂のニンテンドー64は次いで2位、SEGAのドリームキャストは熱狂的なフアン層を擁しつつ、シェアとしては大きく水をあけられての3位だった。

さてこの写真は 同年の12月下旬、シアトルのMicrosoft本社で撮った一枚だ。

右手に写っているのは中央のビルゲイツ氏を筆頭とするMicrosoft社の首脳陣で、一方、左手は日本のSEGAの経営陣だ。中央が大川功SEGA会長、その奥には、入交昭一郎同社社長、手前は西和彦同社顧問である。(表記はいずれも当時のもの)。写真には写っていないが、SEGAからはバーチャファイターの鈴木裕氏やソニックの中裕司氏らトップクリエーター陣も同席していた。

セガ経営陣が揃って訪米した目的、それは、これからゲーム市場という激戦区に参入するという噂で持ちきりのMS社に対する、セガ社との共同戦線の打診だ。もうすこし具体的に言うならば、「SEGAのドリームキャストと、Microsoft社の新ゲーム機を、双方に互換性の高い環境にして、共同戦線を張りませんか?」というというものだ。両社のトップ同士による会合は無論初めてのことで、Microsoft本社創業時の主要メンバー、西和彦SEGA顧問の導きによる。

●3枚しかないゲームプラットフォームのチケット

PCEngine, 3DO、Pippin,と、これまで家庭用ゲーム機の新規参入は何度となくあったが、歴史が示してきたのは、その存在は常に3つにのみ絞られてくる、と言う事実だった。理由は競争原理の賜物なのか、人間の認知特性のせいか、あるいは別の何か、なのかもしれないが、私にはわからない。ただSEGAは間違えなく、そのひとつを持っていた。しかし、最下位にて苦戦していた。

社外の私がなぜこの場にいたのか?について簡単に触れておくと、ドリームキャスト用としてSEGAから発売された「シーマン」が、その奇異で不気味で稀有なキャラと会話などから、一般ユーザーに人気の火がつき、ちょっとした社会現象となったのが同年8月から秋にかけてのこと。 そういった経緯からオーナー会長である大川氏と公私に渡り親しくさせてもらっていた。ときおりSEGAの戦略などについて意見を求められ、自分なりの意見を時々、上申したりした。

大川功会長は、お酒の場では強い口調でよくこう言った。「CSK(氏が創業したシステム会社で当時のSEGAの大株主)なんて社員を倍にしたら売り上げも倍になるだけで、何にもおもしろないねん。昔アトランタでおうた時の若いビルゲイツはんは、当時はうちより小さいベンチャーやったが、今は何十倍にもなられた。これからはネットワークをせなあかん。(私財を出すので)金はいくらかかってもええ。ネットワークの分野で勝ちたいんよ。セガの連中は何度言ってもそこがわからんのよ」と。

結果が全てであるビジネスの世界では「早すぎた」という言い方は褒められた表現ではないかもしれない。しかし、今、この考えは業界の常識となっている・・・。

●ドリームキャストが攻めようとした”最先端”

ドリームキャストは、SEGAの代表役員となった大川会長の指示でモデムを標準搭載するよう、当初の仕様から変更されていった。そのせいで製造原価が4000円ほどアップしたという。ハードのコスト割れを回収するには一台あたり2つのゲームが売れないとならない、いわば今のフリーミアムに近い構造をしていた。つまり、SEGAはさらに時代の先を攻めようとした。ただ、当時のアナログ回線の時代に家庭用ゲーム機がネット接続されるためには、決して少なくない手間とコストがユーザーにかかる。そこに対するSEGA社内の意見は当時賛否両論だった。ゲーセンのアーケードマシンを軸足とするSEGA本来の路線か、ネットワークという新領域か?この写真が撮影された年は、つまり、SEGA社内が大きく揺らいでいた時期だった。

この日のMicrosoft社とSEGAとのお見合い。Microsoft陣営からの回答は、今の歴史が語るとおりだ。プラットフォーマーとして他社との互換路線はできないと明言した。参加したSEGA側のメンバーはその日のうちにチャーター便でカリフォルニア州シルバラードの大川氏の邸宅に戻り、それぞれ個別に帰国の路についた。

Microsoft社は、翌年末に、XBOXという新型ゲーム機を市場に投入した。開発時期のコードネームをそのまま製品名としたことが業界内では話題となった。そしてSEGAは、というと、迷走を経てハード事業からの撤退を決行した。家庭用ゲーム機のチケットは、やはり、3枚しかないことが再び証明されてしまったかのようだった。SEGAが持っていた3枚目のチケットがMicrosoft社へと移っていったかのように、私には見えた。皮肉にもその半年後にYahooBBが廉価なサービスを開始、日本のインターネットは猛烈な勢いで家庭に入ってゆくことになる。大川氏は、生前に語っていた通り、残された私財数百億円をすべてSEGAに生前贈与し、そのままガンとの闘病の末2001年3月に他界した。絶妙なほどのタイミングのズレだった。

●ゲームの玉座は薄氷の上に

それから21年が経過した。21年というのは、とてつもなく長い時間だ。だが、不思議なことに、ここで語られていることが、さほど「むかし話」に聞こえないのは、なぜだろうか? 21年前のこのエピソードに登場する企業は、安定を享受しているわけではない。が、かといって消滅するわけでもない。依然として薄氷の上でのバトルを続けている。

今年の東京ゲームショウを見てもわかる通り、変化し続けるこの市場が「むかし話」となるのは、まだまだ先のことになりそうである。