東レがアップルに作らせたapple2日本語モデルが存在した!!~アップルとパートナー企業"東レ"~

船上パーティーで日本人サラリーマンが目撃した若きカリスマ"スティーブ・ジョブス"

前回にこちらでお伝えした「東レ」と(創業から3年が経過したばかりの)若き「アップル」の提携。だがこの提携は、「東レによるアップルの製造権の獲得」という、表には出ることのない東レ側の隠された思惑もあり、開始直後からボタンの掛け違いが見え隠れする、まさに「薄氷の提携」でもあった・・。

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ボタンの掛け違いの第一波

歪みの第一波は、早くも提携発表の記事が出て8日後の1980年7月11日に、日経新聞上の記事として現れた。それは、アップルが東レとの国内販売権に関する提携発表の直後であるにもかかわらず、自ら日本に直接進出を示唆する内容であった。しかも皮肉なことに、この記事は提携発表の記事よりはるかに大きな扱いだった。

その扱いの大きさに、アップル2の販売網の整備に奔走していた流通関係業者は動揺した。同時に、東レ関係者は面目を潰された格好となる。

現場で進行した「apple2日本語モデル」への改造

すべりだしからギクシャクしていた東レとアップルの関係は翌年になっても収まる気配を見せなかった。というのも1980年末、NASDAQで株式を公開したアップル本社は混乱の中で日本市場に向ける余裕を持っておらず、一方で日本側は、1日もはやく「日本語対応パソコン」の投入を待ちわびていた。アップル本社の極東市場担当者らは東レからの要請になんとか答えようと、ジョブスらの耳に入らぬようひそかにカナ文字対応モデルを作ることを約束し、そして1981年になんとかカタカナ対応版apple2を仕上げた。待ってましとたと言わんばかりに東レは「apple2-JPlus」と名付けられた日本オリジナルモデルを販売開始した。

だがこのカナ対応モデルは、実のところアップル本社に勤務する一人の若手エンジニアが限られた期間で作った即席のものであった。「開発」というよりも「改造」だった。そのせいもあり、ユーザーの期待を、そして東レが寄せる期待を裏切った。さらに、価格は不合理なほど高額に設定された。投資回収のため東レが設定したものだった。この不評極まりない「apple2-JPlus」の品質保証は誰の仕事なのか? それが曖昧なまま、ユーザーからのクレームが増えていった。東レはその受付にてんてこ舞いとなり、やがて担当者らはこの「にわかづくりの製品」を恨めしくすら思うようにすらなった。その間に日本市場では廉価な海外のクローン機や本国からのアップル2の並行輸入が逆に増長してゆく結果を招くことになる。

2年でおわった東レとアップルの蜜月

バソコンを発明した一社であるアップルからすれば、日本の国産メーカーがつくる製品はみな「排除すべきモノマネ品」であった。にもかかわらず日本市場での彼らのシェアはどんどんと上がっていった。それを見るにつれ双方の担当責任者は互いに期待していたものが幻想だったことに気付きはじめる。つまりは、「品質の高い製品を作りたいアップルは、いずれ東レに製造委託するはずだ」という東レ側の期待と、「世界が認める優れた製品なのだからもっとシェアを伸ばしてくれるにちがいない」と思い込むアップル側の期待のズレが徐々に露呈してきたのである。、その結果、わずか2年間で、両社の関係は契約の完全解除という最悪の形で終末を迎える。

アップルの日本への警戒心を強める結果に。

この短期間での提携解消により東レは奔放なベンチャーとの提携の難しさを学び、アップルは日本企業による類似品への警戒心を強めた。皮肉なことにその結果として、アップル本社は日本の現地法人の設立を検討しはじめることになる。

契約解除を受け本件を東レで担当していた計測機器貿易課の課長代理、羽根田孝人氏は、1982年6月の契約解除とともに自らも東レを去る決意をした。そのきっかけは2年前のとある出会いにさかのぼる。総販売契約締結の直後、ハワイで開催されたでアップル社のディーラー研修に東レ代表として参加した羽根田氏は、最終日のクルーザーパーティーでアップルの創業者スティーブ・ジョブス氏に遭遇した。そしてその時に鮮烈に感じた印象こそ、羽根田にサラリーマンを辞させる決定的な理由だった。その印象とは「彼らと対等に商売をするのは、日本企業のサラリーマ ンでは無理だ」という確信めいた衝撃だった。

音楽が鳴り響く船上パーティーで羽根田が目撃したカリスマ
音楽が鳴り響く船上パーティーで羽根田が目撃したカリスマ"スティーブ・ジョブス"氏。左はジーンカーター氏。