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今夜、CL決勝!リーガとの「2冠」を狙う「アトレティコ」に詳しくなろう!

斉藤健仁スポーツライター

アルゼンチン人の闘将デェエゴ・シメオネ監督に率いられ、今シーズン、リーガ・エスパニョーラで10回目の優勝を飾るなど快進撃を続けているアトレティコ・マドリード。5月24日(日本時間25日)には、欧州王者を決めるチャンピオンズリーグの決勝で、同じマドリードを本拠地とするライバルのレアル・マドリードと対戦する。

◇バスク人の学生が創設したため「アスレチック」に

リーガと国王杯(コパ・デル・レイ)で10回の優勝以外にも1974年にはインターコンチネンタル杯を制覇し、ヨーロッパリーグも2度優勝しているスペインの名門アトレティコ・マドリードは、1903年にマドリードに住んでいた3人のバスク人の学生が作ったアスレティック・クラブ・デ・マドリードを起源とする。彼らはこのチームを自分たちの故郷のチーム、アスレティック(・ビルバオ=正式名称アスレティック・クラブ)の姉妹チームと考えていたという(ビルバオとの提携関係は、今ではなくなっている)。

その後、スペイン内戦を経て、1939年には空軍のチームと合併してアスレティック・アビアション(航空の意)となる。フランコ政権下になった1941年、英語読名からスペイン語名のクラブ・アトレティコ・デ・アビアションに変更。1947年には空軍との関わり合いがなくなったためアビアション(航空)が外され、現在の「クラブ・アトレティコ・デ・マドリード」となった(アビアションというクラブ自体は系列のクラブとして存在する)。

◇赤白ユニフォームは1914年から使用。「マットレス職人」の愛称も

実はクラブ名だけでなく、赤白ストライプのユニフォームやエンブレムのデザインもアスレティック・ビルバオに由来している。

アスレティック・ビルバオは、1898年の設立時は青白のユニフォームだったが1910年には赤白ストライプのユニフォームに変更した。自ら系列クラブだとみなしていたアトレティコ・マドリードも設立当初は青白のユニフォームを採用していたが、1914年には赤白ストライプのユニフォームに変更して、現在に至る。

それではアスレティック・ビルバオがなぜ赤と白のユニフォームを採用していたのか。ビルバオは鉄鉱石で有名な都市であり、炭坑で知られるサンダーランドやサウサンプトン出身のイギリス人労働者が多く働いていて、それらの赤と白のユニフォームの色を真似たという説がある。他にも、当時のベッドのマットレスは赤白が多く、ユニフォームに転用し易かった説もあり。そのため、アトレティコ・マドリードには「赤白軍団」を意味する「ロス・ロヒブランコ(Los Rojiblancos)」以外に、「マットレス職人」を意味する「ロス・コルチョネロ(Los Colchoneros)」という愛称も持つ。

◇エンブレムは1947年から60年以上使用続けている

1947年に現在のクラブ名となったアトレティコ・マドリードは、エンブレムもその時にデザインされた。実に60年以上使用し続けていることになる。

アスレティック・ビルバオ同様、エンブレムは左上と右上のパートからなっている。右下のパートの赤白のストライプはもちろんクラブカラーだ。左上は、ほとんど市の紋章そのものである「マドロニョ(和名ヤマモモ)の実を取ろうとしている熊」。マドリードの市章に由来し、プエルタ・デ・ソルという有名な広場にも銅像が立ち、パトカーやマンホールにも見られる。また、この熊モチーフからマスコットの「インディー」君も熊である。

この「熊とマドロニョ」は13世紀頃にマドリー近郊には熊が多く生息しており、マドロニョがマドリーの名前に似ていたためという説や、この2つのモチーフが聖職者と農民の権利をあらわしたものではないかという説などもある。

左上のパートの周りにある7つの星は、おおくま座の一部となっている「北斗七星」を意味しているという。中世においてマドリードが初めて征服されたときに、北の地にいる「王」を北極星に、その周りを回るおおくま座は王を守る「政府や市民」に喩えて、盾の周りに配置したとされている。星をよく見ると7つの星は五芒星(角が5つある星)となっており、マドリードにある5つの街、セゴビア、アビーリャ、グアダラハラ、クエンカ、トレドを表している。 

ホームは、スタンドの下に国道が通るビセンテ・カルデロン

アトレティコ・マドリードのホーム「エスタディオ・ビセンテ・カルデロン(Estadio Vicente Calderon)」は、サッカーを見るには適正な大きさで、ヨーロッパでも有数の美しいスタジアムと言われている。

1965-66シーズン、リーグ優勝したため、かつて使用していたエスタディオ・メトロボリタノは小さすぎてファンを収容しきれなくなった。そこでクラブは1966年、6万2千人収容の新スタジアムをマドリード市の南、マンサナーレス川沿いに設立した。そのため、スタジアムは、エスタディオ・マンサーレスという名称になったが、1972年、スタジアムの建設に尽力した当時の会長の故ビセンテ・カルデロンに敬意を払うため、エスタディオ・ビセンテ・カルデロンへと変更。

1987年に会長がヘスス・ヒルへと代わり、全席座席と改修され、収容人数は5万5千人ほどとなった。スタジアムの外側は大理石とスモーク・クリスタルで作られ、赤、白、青に塗り分けられたナンバー入りの椅子は、どこの座席からでも非常に見やすく、レストランやショップなどの施設も充実した。

スタジアムの最も特徴的な一面は、マンサナーレス川岸のメインスタンドの下にM-30という国道が走っていることだ。設立当初はなかったのだが、マドリード市が、スタンドの下にトンネルを通して国道を作った。そのため、他のスタジアムよりメインスタンドが小さくチケットを取るのが難しくなっている。クラブ側は、何度もトンネルを閉鎖し、メインスタンドを他のスタンドと結合しようと試みていたが、市は決して許さなかったとされる。

そのためホームスタジアム移転が検討されており、2007年7月、クラブはスタジアムの土地を売却し、取り壊しすることでマドリー市と合意。2016年から、現在改修工事中であるマドリード市所有の「ラ・ペイネタ」ことエスタディオ・オリンピコ・デ・マドリードをホームスタジアムとする予定だ。ただし、現在のスタジアムから離れた場所にありアトレティコファンには、スタジアム移転に反対するものも多いという。

「マドリードダービー」となったCL決勝戦は、ポルトガル・リスボンにある「光のスタジアム」の異名を取るエスタディオ・ダ・ルスで行われる。アトレティコが「2冠」を達成して今シーズンを締めくくるのか。それとも、「白い巨人」レアル・マドリードが意地を見せて10回目の優勝を飾るのか。日本時間の25日のAM3:45にキックオフされる。

スポーツライター

ラグビーとサッカーを中心に新聞、雑誌、Web等で執筆。大学(西洋史学専攻)卒業後、印刷会社を経てスポーツライターに。サッカーは「ピッチ外」、ラグビーは「ピッチ内」を中心に取材(エディージャパン全57試合を現地取材)。「高校生スポーツ」「Rugby Japan 365」の記者も務める。「ラグビー『観戦力』が高まる」「ラグビーは頭脳が9割」「高校ラグビーは頭脳が9割」「日本ラグビーの戦術・システムを教えましょう」(4冊とも東邦出版)「世界のサッカー愛称のひみつ」(光文社)「世界最強のGK論」(出版芸術社)など著書多数。学生時代に水泳、サッカー、テニス、ラグビー、スカッシュを経験。1975年生まれ。

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