直木賞作家・白石一文に聞く。小説が映像になること、その本音は? 『火口のふたり』で自著が初の映画化

小説も、映画も、最初から最後まで「ふたり」

作品を小説として完結させる。それが作家の仕事であるが、ドラマや映画として作品が新たな進化をとげることも、小説の運命。そうした映像化に、自身も「こだわる」作家もいる。しかし多くの作家は、新たなクリエイターに委ねたら、あまり口出しはしないとも言われる。しかし、本心はどうなのか。

「ぜひ映像化を」という積極的な思いはない

「ほかならぬ人へ」で直木賞を受賞し、日本を代表する作家である白石一文にとって、8月23日に公開される『火口のふたり』は、意外にも初の映画化作品である。これまでドラマ化された作品(「私という運命について」)はあった。しかし映像化の少なさは、人気作家の中でも珍しいレベル。もしかしたら本人が望んでいないのだろうか。

「じつは若い時代に、何度か断ったことがあるんです。当時は『そう簡単に映像化できるものを書いて、どうするんだ』と変なプライドがあったものですから。『私という運命について』の脚本家、岡田惠和さんからも『映像化NGの作家だと思っていた』と言われたくらい。でも今でも『ぜひ映像化してほしい』という気持ちはあまりないですね」

こう語る白石だが、今回の『火口のふたり』に関しては、自身が大ファンだったという脚本家・映画監督の荒井晴彦からの打診ということで、すぐに映画化を任せたという。

小説の映画化について、率直な思いを語る白石一文氏(撮影:筆者)
小説の映画化について、率直な思いを語る白石一文氏(撮影:筆者)

しかし、この『火口のふたり』は白石一文の「代表作」と言うわけではない。本人も、これが初の映画化作品になったことが「意外ですよね」と笑う。しかし「別にどれでも良かった。そしてどんな映画になっても全然かまわないと思っていました」と、余裕の表情をみせる。

『火口のふたり』は、かつて恋人同士であった賢治と直子の物語。十日後の直子の結婚式のために、帰省した賢治。再会によって彼らの心は再び燃え上がり、直子の婚約者が戻ってくるまでの間、むさぼるように相手の肉体を求め合う。登場人物は、ほぼ主人公の男女のみで、究極の愛のかたちを描くスタイルはいかにも小説的だが、映画版も舞台を博多から秋田に移したとはいえ、原作にかなり忠実で、異彩を放つ作品になっている。

できあがった脚本を、原作者として確認したのかを聞くと「いや……。見たっけ? でも特に何も……。荒井さんに何か言うのもおこがましい」と、一切注文を出さなかったことを認める。

「映画は、僕があれこれ口出しする領域ではないですからね。アプローチが違うわけです。僕の場合、小説で書いているのは『関係性』や『状況』で、『人物』ではありません。そこが具現化される映像作品は、だからお任せするしかないのです。撮影現場にも行きませんでした」

人物の顔はイメージせずに書いている

では、小説を書いている間に、作家の頭の中でどんな情景が広がっているのか。他者によって映像化されたとき、それはイメージどおりなのか。このあたりも、予想外な答えが返ってくる。

「小説を書いているとき、登場人物の目鼻立ちとか容姿とか、ほとんどイメージしていませんね。男A女B、みたいな感じなんですよ。それぞれの顔も『へのへのもへじ』と書かれたような状態。ただ、主人公の男は、もしかしたら自分の顔をイメージしているのかもしれない。自分の視点や経験が入っていたりするわけですからね」

小説のセリフもそのまま映画で使われていたりするが、自身の書いた表現が生身の俳優に語られることは、原作者としてどんな気分なのだろう。

「たとえば映画の中でも『賢ちゃん(賢治)の体は鞭みたい』ってセリフが出てくるけど、別に硬い体がしなって鞭みたいになる……わけじゃなく、書いている僕は単に『鞭』という言葉が浮かんでただけ。それが映像で生身の人間のセリフで語られると、ちょっと、こっ恥ずかしいかも(笑)。たとえば僕の父(やはり直木賞作家の白石一郎)なんかも、時代小説を書くとき、『江戸服飾事典』なんかをめくって、字面の良さで着物の柄を決めたりしていました。そうした『響き』が映像になるのは、とても不思議な感覚です」

言葉で書かれた肉体が、柄本佑、瀧内公美という俳優の「生身」によって見事に表現された。
言葉で書かれた肉体が、柄本佑、瀧内公美という俳優の「生身」によって見事に表現された。

しかし一方で、小説家の立場から、映画やドラマに対しては複雑な感情も抱いてしまうという。

「たとえば犯罪を小説で書く場合でも、作家は犯人が警察に見つからないように何時何分にどうするとか、徹底的にリアリティを追求するわけです。でも映画やドラマでは、役者の演技や音楽、カメラワークで何となく感動へ持っていったりする。小説家としては、悔しい限りですよ(笑)。ただ、その分、映画やドラマって、ステレオタイプになりがちで、複雑さに欠ける気もしますね。加えて、どうしてこの程度のレベルの小説をわざわざ映画にしたんだろう、と疑問に感じる作品も案外ありますし。そういう意味では、今回の『火口のふたり』は、僕が書いた『状況』や『関係性』をかなりしっかり捉えてもらったと感謝しています」

天災が日常化するこの国への思い

『火口のふたり』の「火口」とは富士山の火口であり、その富士山が噴火するかもしれない状況も、物語に盛り込まれている。白石一文は、東日本大震災の直後にこの小説を執筆している。

「この小説を書いたとき、僕は神戸に住んでいました。神戸でいちばん驚いたのは、阪神・淡路大震災の爪痕がほとんど残っていなかったこと。被災した建物が撤去され、ほぼすべて建て替えられている。要するに、『爪痕が残っていない』ことが『爪痕』になっているんです。富士山噴火も、大地震も、今後100%起こることで、また起こったときにそこからの復興という反復運動が繰り返されるわけでしょうが、そういう天災が日常化している国土にいまでも四十基近くの原子炉があるという現実には恐怖を感じますね。日本人はいつからこんなに鈍感になったんだろうと思います」

小説家としての表現が映像になること。そして表現者として、社会への危機感も発信すること。こうした白石一文の思いが、映画『火口のふたり』にもしっかり受け継がれており、その意味でこれは、小説の映画化の美しき見本になっているのだ。

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『火口のふたり』

8/23(金)より、新宿武蔵野館ほか全国公開

配給:ファントム・フィルム

(c) 2019「火口のふたり」製作委員会