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飽和潜水は知床観光船の船内捜索にどう生かされるか

斎藤秀俊水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授
飽和潜水でチャンバーに導入するヘリウムー酸素混合ガスボンベの表面(筆者撮影)

「飽和潜水」なかなか耳にしない言葉です。今回、知床観光船の船内捜索を語るうえでのキーワードになりました。この手法は、船内捜索を行う上でどう生かされるのでしょうか。

飽和潜水の出番

海保潜水士が潜れない水深、「飽和潜水」で観光船内を捜索へ…今月上旬にも着手

 北海道・知床半島沖で乗客乗員26人が乗った観光船「KAZU I(カズワン)」が沈没した事故で、海上保安庁は、深い水深でも潜水可能な「飽和潜水」の技術を使い、沈没した観光船の船内捜索を実施する方針を固めた。2日、関係者への取材でわかった。船内に行方不明者が取り残されている可能性があるため。既に専門の民間事業者との契約を終えており、早ければ今月上旬に着手する。読売新聞オンライン 5/2(月) 17:46配信

 筆者は、2020年10月に飽和潜水技術を有する企業に出向き、飽和潜水を支援するシステムの実物を見学していて、その詳細について目で見て予め勉強していました。そのため、今回の知床観光船の船内捜索等には飽和潜水の手法が有効であることを、民放番組で4月30日に解説しました。

【参考】知床観光船事故 船はどう引き上げる?「飽和潜水」で救出か?

 海上自衛隊、海上保安庁、北海道警察がここまで水中カメラを使用しながら船内の捜索を行ってきましたが、暗い海底におけるカメラ操作が潮流の影響を受けて難航し、船内にある救命胴衣がなんとか撮影できたことにとどまっています。

 カメラによる捜索は、人的な危険リスクが極めて低く比較的長時間にわたる捜索が可能なため期待されていましたが、やはり現場はたいへん厳しい状況のようです。 

飽和潜水でなにがどうすすむのか?

 図1に今回の観光船(該船)に潜水接近するための飽和潜水システムの概略図を示します。

図1 飽和潜水システムの概略図(筆者作成)
図1 飽和潜水システムの概略図(筆者作成)

 飽和潜水作業を行うダイバーは筆者想定で3人。潜水に備え、チャンバーと呼ばれる完全密閉の小部屋に入ります。

 まずチャンバー①、デッキ・デコンプレッション・チャンバーと呼ばれる部屋に入ります。ここでは1日程度かけてダイバーに加圧していきます。加圧に使うガスは空気(窒素と酸素)とヘリウムの混合ガスです。到達圧力は、作業する深海の水圧にほぼ等しくなります。今回は12気圧前後とみられます。大気圧の12倍ほどに相当します。

 加圧が完了したら、チャンバー②、ダイバー・トランスファ・チャンバーと呼ばれる準備室に移り、さらにチャンバー③、サブマージブル・デコンプレッション・チャンバーに移って船上チャンバーから切り離されて、120 mの深海に下ろされます。

 120 mの深海に到達したら、筆者想定ですが、3人のうち2人がバディーを組みながら潜水、1人がチャンバーに残って後方支援を行います。作業時間はおおよそ30分。その間に該船内の捜索を行うことになるかと考えられます。

 作業が完了したら、チャンバー③に全員が戻り、そのまま船上に浮上。この時のチャンバー内圧力は海底の水圧とほぼ同じ状態です。船上でチャンバー②にドッキングしてチャンバー②で温水シャワーで身体を温めたり、トイレを済ませます。もしかしたらこの作業を何度か繰り返すかもしれません。

 すべての作業が完了したら、チャンバー①に戻り、ここで密閉のまま1週間ほどかけて徐々に気圧を低くしていきます。大気圧と同じ気圧まで減圧して、ダイバーの身体に異常が見られなければ、ダイバーはチャンバーの外に出ることができます。

 その1週間の間には専用の小窓を通して外部から食事などが渡されます。文章で書くと簡単ですが、実際にはダイバーには肉体的、精神的にきわめて厳しい負荷がかかります。この高いリスクから、飽和潜水は水中カメラではなんともならない現場におけるプロフェッショナル中のプロによる最終手段となりうるわけです。

該船の状況

 該船は知床半島カシュニの滝から沖合1 km強の海底に沈んでいます。図2をご覧ください。海上保安庁測量船「天洋」(435トン)により撮影された海底のソナー映像です。

図2 海底のソナー映像。(毎日新聞デジタル版に掲載された第1管区海上保安本部提供の図に筆者が説明のため文字や記号を入れた)
図2 海底のソナー映像。(毎日新聞デジタル版に掲載された第1管区海上保安本部提供の図に筆者が説明のため文字や記号を入れた)

 この図からわかることは、水深110 mから120 mの間、およそ115 m付近に該船がほぼ航行中の姿勢で沈んでいること、図の左から右の距離が150 m程度であり、その間は坂になっていること、画像が生データであれば底質は砂あるいは泥などで、表面に凹凸があまり見られないことです。

 また図の下方の黒い部分はこの場所における断面構造を示しており、①の坂に比べて②の坂はきついことがわかります。①で15 m進んでおよそ1 m下がり、 ②では2 m近く下がるような状況です。自転車なら勢いよく進む坂のイメージです。

なぜ飽和潜水なのか

 空気のほぼ80%は窒素です。この窒素には高圧で水に溶けやすいという性質があり、空気ボンベを背負ったスクーバ潜水では人間は水深30mあたりまでしか潜れません。それを超えると窒素酔い、つまり酒に酔ったようになります。

 窒素は圧力に比例して、水の中に溶けるだけ溶け込みます。これを飽和状態といいます。高圧ほどたくさん溶け込みます。すなわち、潜水中のダイバーが深海でボンベの空気を吸えば、これは高圧下で窒素を体内に取り入れることになります。多くの窒素が体の細胞レベルにまで溶け込みます。

 ダイバーが作業を完了して浮きあがるにつれ窒素は細胞から血液中に移り、呼吸を通じ体外に排出されます。しかし急に浮上すると、呼吸で排出できないほどの窒素が細胞や血液中で気泡をつくり、血液を止めたり組織を圧迫したりします。

 こういった身体の変化を軽減するなら、窒素に置き換えて何か水に溶けにくいガスを呼吸に使えばいいわけです。このガスとしてよく使われるのがヘリウムです。ヘリウムは希ガスとも呼ばれて、化学的におとなしく、安定しているガスです。高圧下で水に溶け込みにくく、人体に与える毒性的な影響はほとんどありません。

 飽和潜水では、酸素、窒素、ヘリウムの混合ガス中で呼吸をします。120 mの深海の高い水圧で身体に取り込んだ窒素は細胞内などに必ず残っているので、それを作業後に減圧室にてゆっくりと対外に呼吸で排出します。窒素が血液中などで泡にならないように、常に飽和状態を保ちながら、排出するのです。ヘリウムが入っている分だけ、減圧にかかる日数が短くなるということです。

まとめ

 今回の海難事故では、いまだに多くの行方不明者がいます。「行方不明者を早く家族の元に帰したい、早く暖かい所に戻してあげたい。」そういった強い信念のもと、飽和潜水のプロフェッショナルダイバーが、まさに命を懸けて今回のミッションに挑みます。

水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授

ういてまて。救助技術がどんなに優れていても、要救助者が浮いて呼吸を確保できなければ水難からの生還は難しい。要救助側の命を守る考え方が「ういてまて」です。浮き輪を使おうが救命胴衣を着装してようが単純な背浮きであろうが、浮いて呼吸を確保し救助を待てた人が水難事故から生還できます。水難学者であると同時に工学者(材料工学)です。水難事故・偽装事件の解析実績多数。風呂から海まで水や雪氷にまつわる事故・事件、津波大雨災害、船舶事故、工学的要素があればなおさらのこのような話題を実験・現場第一主義に徹し提供していきます。オーサー大賞2021受賞。講演会・取材承ります。連絡先 jimu@uitemate.jp

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