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ハクチョウが新潟に大集結 そもそも、「潟」ってナニ?

斎藤秀俊水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授
田んぼのあちらこちらにハクチョウの群れ。車に乗ったまま観察できる(筆者撮影)

 ハクチョウが新潟に大集結しています。近年まれにみるほどの大所帯です。コハクチョウに限れば、わが国に飛来する3分の1が新潟県に集まるという話も聞きます。ハクチョウに愛されるワケは、越後平野に潟がたくさんあるからですが、そもそも地名にもなっている「潟」ってなんでしょうか?

例年と今年のハクチョウの飛来数

 自慢しよう!新潟県魅力発見サイトによれば、わが国に飛来してくるコハクチョウは毎年約4万羽、そのうち1万5千羽くらいが新潟県で冬を過ごします。特に新潟市内においてはそのうちの1万羽くらいを見ることができ、ハクチョウ・スポットを探し当てれば、ハクチョウの宝庫、まるでハクチョウ園にいるような錯覚に陥ります。

 今年のハクチョウは「多いか、少ないか」ですが、県内でも有名なハクチョウ・スポットである瓢湖の飛来数を見ると一目瞭然です。五頭温泉郷 村杉温泉 角屋旅館のホームページによると、今年の初飛来は10月7日。11月27日には6,266羽が瓢湖に来ています。昨年同時期(11月29日)には4,200羽ですから、1.5倍くらいの数を見ることができるということでしょうか。例年、4,000から5,000羽なので、平年に比べても多いようです。今年も11月下旬から12月いっぱいの期間がハクチョウの最盛期になりそうです。

ハクチョウ・スポットの一つ、福島潟

 新潟市北区にある福島潟。筆者の研究室のスタッフで新潟県で生まれ育った人ですら、福島県にあると勘違いします。

 東京から新幹線で2時間の新潟駅からは、車で1時間もかからずに到着します。国の天然記念物の渡り鳥であるオオヒシクイの日本一の越冬地としても知られています。220種以上の野鳥が確認されている野鳥の宝庫です。

 雁晴れ舎(国指定福島潟鳥獣保護区管理棟)という野鳥観察舎があり、ここに上ると図1のように目の前には多くの野鳥たちの姿を見ることができます。写真に写っている鳥のほとんどがコガモ、マガモ、オオバン、カンムリカイツブリ、オオヒシクイです。実は、日中の間は潟でハクチョウの姿を見かけることはあまりありません。

図1 雁晴れ舎から福島潟を見た時の野鳥の様子(筆者撮影)
図1 雁晴れ舎から福島潟を見た時の野鳥の様子(筆者撮影)

 ハクチョウは、日の出からの早朝にねぐらである潟から飛び立ち、餌をとるための田んぼに向かいます。田んぼでは落ち穂や二番穂などを探して食べます。暗くなる前にはねぐらである潟に集団を作って戻ってきます。

 福島潟で観察する場合、早朝は姿をしっかりと見ることができますが、夕方はすぐに暗くなるため、姿を明瞭に見ることができません。その代わりに鳴き声は大合唱的にとてもよく聞こえます。何を語っているのでしょうか。

 日中の明るい時の観察は、福島潟周辺の田んぼで行えます。周辺の県道や国道から広大に広がる田んぼに目をやれば、至るところで餌を食べている様子が見られます。ハクチョウたちが警戒をしない距離を保って、交通の支障にならない安全な場所に停車して、車内から観察しても十分楽しめます。そのようなベストポジションは少し探せば結構あります。それぐらいたくさんの群れに出会うことができます。

 図2のようにハクチョウたちが警戒せずに餌を食べ続けていれば、適切な距離です。様子をもう少ししっかり見たい時には、望遠レンズ付きのカメラや、双眼鏡を使うとよいでしょう。

図2 集団で餌をとっているハクチョウの様子。何羽かは、首をのばして周囲の様子を常に警戒している(筆者撮影)
図2 集団で餌をとっているハクチョウの様子。何羽かは、首をのばして周囲の様子を常に警戒している(筆者撮影)

潟ってナニ?

 新潟の地名になっているほど、新潟県に多く見られる潟。潟とは、海と切り離されてできた場所、または潮の干満によって水面が現れたり消えたりする場所のことです。大昔の越後平野はほとんどが海の下でしたが、日本海沿いの砂丘が次第に発達し、内海に阿賀野川や信濃川によって運ばれた土砂が堆積することで、陸地が形づくられました。

 その様子を図3に示します。江戸時代に作られた越後平野の絵図です。図の上に日本海があります。日本海に接する陸は砂地です。少し高さのある丘陵を形成しています。その丘陵の内側に広がるのが、潟です。福島潟、島見前潟、紫雲寺潟が絵図にて確認できます。それらは、阿賀野川を通じて信濃川河口とつながっています。このあたりは海抜ゼロメートル地帯となり、要するに海の干満により水位に変化があったと考えられます。

 多くの河川の水がこれらの潟に流れ込み、そして阿賀野川経由で信濃川から放流されなければならなかったため、大雨が降るたびに福島潟一帯は洪水に見舞われました。

図3 天保2年(1645)に描かれた福島潟とその周辺の絵図(阿賀野川河川事務所のホームページより抜粋)
図3 天保2年(1645)に描かれた福島潟とその周辺の絵図(阿賀野川河川事務所のホームページより抜粋)

越後平野の歴史は、洪水対策の歴史

 大雨のたびに洪水となる氾濫原。この氾濫原から早く水抜きするための河川の付け替え、つまり瀬替えをあちらこちらで行いました。そして、潟の干拓を目的とした分水路を整備しました。詳しい歴史については、潟の開発の歴史をご覧ください。

 福島潟の干拓の歴史は江戸時代後期にまで遡ります。北区の松浜の池、内沼潟の調査(NPO法人 新潟水辺の会)によれば、広大だった潟が明治以降の干拓が進むにつれ、昭和50年にはわずかな水が残るにまでとなりました。 図4に空から撮影した福島潟の最近の様子を示します。現在の水面の水位は海抜マイナス0.7 mで、ポンプにより水をくみ上げて、写真の中にて中央から右上に直線にのびる福島潟放水路を使って日本海に排水しています。

図4 空から見た福島潟。写真中央の水溜まりから右上に向かってほぼ直線の福島潟放水路が見える。水溜まりから左の田んぼが干拓事業で得られた(筆者撮影)
図4 空から見た福島潟。写真中央の水溜まりから右上に向かってほぼ直線の福島潟放水路が見える。水溜まりから左の田んぼが干拓事業で得られた(筆者撮影)

 そして治水と干拓が進む分だけ、広大な田んぼが潟の周辺に広がることになりました。図4の中央から左にかけての田んぼがそれにあたります。福島潟を取り巻く周辺の田んぼも含めて、ハクチョウにとってみたら、餌場とねぐらが隣接するこの上ない楽園になったことでしょう。

現在は、逆に潟を広げている

 治水と干拓の歴史でしたが、現在、福島潟では水田部分を掘削し、水面を広げ、過去に干拓した場所を再び潟として復元しています。きっかけは平成10年8月4日の水害。福島潟から阿賀野川に向かって流れる新井郷川が氾濫し、下流地域が洪水に見舞われました。そこで新潟県などでは、30年に1回程度の雨水を安全に流下させるために、福島潟周辺の雨水をいったん福島潟に集め、それを福島潟放水路で日本海へと流す、福島潟河川改修事業を令和4年の完成予定で進めています。

さいごに

 治水と干拓により広大な田んぼに恵まれた福島潟周辺。田んぼと潟との共存がハクチョウの楽園を形成しました。現在ではその潟が防災遊水地の役割を果たすべく改修事業が進められています。自然に優しくて、人間生活にも優しい工夫が新潟にあります。

 

水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授

ういてまて。救助技術がどんなに優れていても、要救助者が浮いて呼吸を確保できなければ水難からの生還は難しい。要救助側の命を守る考え方が「ういてまて」です。浮き輪を使おうが救命胴衣を着装してようが単純な背浮きであろうが、浮いて呼吸を確保し救助を待てた人が水難事故から生還できます。水難学者であると同時に工学者(材料工学)です。水難事故・偽装事件の解析実績多数。風呂から海まで水や雪氷にまつわる事故・事件、津波大雨災害、船舶事故、工学的要素があればなおさらのこのような話題を実験・現場第一主義に徹し提供していきます。オーサー大賞2021受賞。講演会・取材承ります。連絡先 jimu@uitemate.jp

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