Yahoo!ニュース

『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』における幻の「はじめに」

西田亮介社会学者/日本大学危機管理学部教授、東京工業大学特任教授

民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』における幻の「はじめに」を公開します。分量的に収まらなくなってしまい、より平易で、短いものに差し替えましたが、復刻、編集をはじめた当初の問題意識は大きくは変わっていません。先日、重版が決まり、ちょうど2月14日付けで、作家の中島京子氏による書評が毎日新聞で公開されましたので、公開してみることにしました。書籍に収録された「はじめに」とあわせて読んでいただいても、ちょっとおもしろいと思います。

---

これ(引用者注: 民主主義のこと)を思う通りにしたいと思っても、直ぐに効き目のある薬などはない。気長に民衆にデモクラシーの本当の意味を体得させるように教育するより他はない。学校の教育、又、社会的の教育によって、その目的を達するように、政治家も民間の識者も努力しなければならない。(吉田茂,2015,『大磯随筆・世界と日本』中央公論新社.p.11)

このように記したのは、かつての宰相吉田茂である。

吉田が述べた民主主義とその普及、啓発のあり方について、現在でも異論のある人は少ないだろう。実にオーソドックスな民主主義観といえる。

念のため確認しておくと、吉田は、第2次世界大戦前には外交官、その後外務大臣をつとめ、終戦工作にもかかわった大局的な政治観をもった人物である。

戦後は、混乱の最中、3次にわたって総理大臣をつとめ、日本国憲法の誕生と公布、サンフランシスコ講和条約と日本の再独立、(旧)安保条約、自衛隊の誕生にかかわっている。

現在も日本社会が対応に苦悩している政治的社会的問題を思い起こしてみれば、それらの相当部分に吉田が関わっていたことになり、我々は未だ吉田の呪縛から逃れられずにいるのかもしれない。

とはいえ、吉田の選択には、経済に、戦争で荒廃した乏しい資源を集中し、アメリカとの関係のなかで、妥協しながらも戦後の復興期を実現しようという、高度な政治の智慧の痕跡を見出すことができる。

いずれにせよ、なるほど、そうはいっても吉田の先見の明を賞賛することはたやすい。

吉田が民主主義の育成について記したのは、およそ50年前のことだが、現在の日本社会の状況をもってしても、ほぼそのまま通じてしまう。

その一方で、戦後70年の歳月を経た日本の民主主義だが、かつての宰相の至言が、そのまま通用してしまうほどに心許ない。それほどに、日本社会は、民主主義を定着させるために、どのように「政治家も民間の識者も努力」するのかを十分議論してこなかったし、それゆえに具体化することもなかった。

もちろん、吉田がいうように「気長に民衆にデモクラシーの本当の意味を体得させるように教育するより他はない」ことも事実だが、だからといって、ただ悠長に構えているわけにもいくまい。

現在の日本社会と政治の状況に目を向けてみると、安保法制の是非をめぐって、国会が紛糾し(しかし、着々と法整備は進められ)、大規模なデモが発生する一方で、具体的な制度上の欠陥の所在や、実際に戦争を招きうる法律なのか否かは新聞やテレビを見ても判断できないというのが多くの人の同意するところではないか。

二大政党制を求めて小選挙区制度を(部分的に)導入してから20年以上の時間が経過したのに、あいも変わらず自民党一強の政局は変わらないままである。

その自民党と官邸がメディアとのコミュニケーション戦略と手法を変更したことで、メディアに対する世論の風向きも厳しくなり、確かに伝統的なマスメディアは萎縮気味だ。

2015年の、選挙を規定した公職選挙法の改正によって、投票可能年齢も満20歳から18歳に引き下げとなった。それを受けて、総務省と文科省は急ごしらえで、選挙教育用教材を制作し、高等学校に配布、公開した(『私たちが拓く日本の未来』)。

ただ、それらの教材の利用は現場に委ねられており、現代史を中心に学ぶ『歴史総合』や、いわゆる公民に必要な知識や選挙教育を学ぶ『公共』(いずれも仮称)の高校教育での必修化は2022年度が予定されている。

したがって、2016年の参院選を皮切りに、しばらくのあいだは、投票年齢引き下げは実施されたものの全員が十分な水準の政治教育を受けたと見なすことのできない、高校生が多数生まれることになる。

このような日本社会のなかで、若年世代にかぎらず、年長世代をもってしても、民主主義とはなにか、という問いに対して、自分の言葉で説明できる人が、いったいどれほどいるだろうか。

教育基本法は次のように定めている。

(政治教育)

第十四条  良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。

2  法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。(「教育基本法」より引用)

このように、教育基本法は、日本の教育において、政治的教養の涵養について宣言している。教育基本法は、もともとは第1次吉田茂内閣のもとで、1947年3月31日に公布、施行されている。

教育基本法には、戦争への動員に教育が用いられたことの反省や、教育を通して、新しい戦後民主主義の価値観を広げていこうという意図が少なからず込められていた。

しかし、どうだろうか。これまで各自が受けてきた教育過程を振り返ってみて、どれだけ、民主主義について学び、考え、議論した機会をどれほどもってきただろうか。

公立小学校と、中堅の私立進学校を経てきた編者自身の記憶を振り返ってみても、ほとんど思い出すことができない。大学時代はそのような授業を受けた記憶はない。正直なところ、民主主義や選挙、政治について考えるようになったのは、これらを仕事にし始めた時期と重複している。

もちろん、授業で日本国憲法を暗唱したり、大学入試で負担の少ない科目として、現代社会や政治経済を選択した人はいるだろう。前者は定番の授業コンテンツであり、後者は定番化した受験テクニックのひとつだからである。

ただ、それらと私たちの現実の生活や政治が、あまり密接な関係をもって普及しているとはいえないだろう。授業や受験をやり過ごすためのツールであって、教育基本法が宣言したような政治的教養の涵養は相当程度、限定的なものにとどまっている。

たとえば、民主主義の理念を念頭におき、複数の情報源から現在の政局や候補者の主張を調べたうえで、自らの立場をはっきりと決め、確信をもって投票に赴く人々がどれほどいるだろうか。

むろん、選挙や投票は、日本国憲法が定める権利であるから、どのように行使するかは各自の自由裁量に委ねられている。したがって、各自の直感のままに選択しようが、当日の天気次第で棄権しようがそれはそれでよいのだが、仮に前述のように政治選択に参加したいと考えたときに、そのための道具立て――「民主主義を理解するための道具立て」――を社会が用意できていないとすれば、些か問題があるだろう。

「民主主義を理解するための道具立て」ということでいえば、2000年代半ば以後、一部の先駆的な教育者と研究者のグループや、経済産業省の研究会などが、「市民性教育」(Citizenship Education)とその重要性について、折りに触れて言及してきた。それが今、投票年齢の引き下げで改めて注目が集まっている。

日本における「市民性教育」の課題と展望については後述するとして、総務省と文科省が制作、配布した『私たちが拓く日本の未来』も、日本版市民性教育を意図しようとしたものである様子が伺える。

このように、いま、民主主義をどのように理解し、普及、啓発していくのか、という問いが改めて問い直されようとしている。

それだけではない。第二次安倍内閣以後、第二次世界大戦後初めて、衆参両院で自公連立の安定政権が継続している。本稿執筆時点では、野党勢力のなかに、直近で連立与党を脅かしそうな存在は見当たらない。仮に選挙区や政策の調整がうまくいったところで、よほどの政治的社会的インパクトがあるインシデントが発生しないかぎり、現状の政治環境は2020年を十分射程に入れながら、かなり長い期間にわたって継続しそうである。

そのことが意味するのは、いよいよ憲法改正が、現実の政治日程にのぼりうるということである。

占領下で公布、施行されたことから、ときにアメリカによる「押し付け憲法」などと呼ばれる日本国憲法だが、戦後の長きにわたって、日本と日本人を規定し、さまざまな課題は散見されど、そしてある種の歴史的幸運にも恵まれながら、全体としては十分及第点と呼べる水準の反映の基礎となったことは否定しがたい。

日本国憲法は、改正の手続きを、国会議員の総数の三分の二以上の賛成で発議し、国民投票の過半数の賛成を必要とすると定めている。

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

○2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。(「日本国憲法」第九十六条より引用)

吉田はいうに及ばず、第二次世界大戦後の国内のコンセンサスとして、時期が来て、十分な戦後復興を遂げた暁には日本国憲法は改正する必要があると考えられていた。日米安全保障条約や非武装の路線も、安全保障など軍事面での支出を削減し戦後復興に集中するための統治の智慧であったとされる。

だからこそ、1955年の結党以来、現在に至るまで、改憲は自由民主党の悲願であり続けてきた。すでに安倍総理の祖父、岸信介らも改憲を主張していたし、自民党はこれまでにも繰り返し、独自の憲法草案を提案してきた歴史がある。

しかしながら、憲法第96条は、常に改憲の歯止めとなってきた。

「55年体制」と呼ばれるように、自民党と、旧社会党が議席数こそ少ないものの対立し、改憲を狙える議席数を自民党が確保することはなかった。自民党内部でも派閥間の争いが激しいという事情もあった。

「自主憲法期成議員同盟」などはありながらも、実態としては長く棚上げされ続けてきたのである。

事実、改憲の手続きを定める法律も、未整備のままであった。

それが2010年に国民投票法が成立し、その要件が定められた。そこでは将来的に対象を18歳以上とすることとされ、公選法の投票年齢の引き下げの議論に少なからず影響した。

その後、第2次安倍内閣以後、改憲を主張する勢力が議席を伸ばし、同時に護憲を主張する政党が衰退し、野党の民主党や維新の党でさえ、護憲ではなく、改憲(と読める内容)を主張している。

これらが意味するのは、それほど遠くない将来、日本人と日本社会は、憲法のあり方、つまりは日本における民主主義のあり方について、真剣に向き合い議論し、選択する事態に直面しうるということである。そしてその可能性は決して低くはない。

仮に2016年の参議院議員通常選挙が、衆議院議員総選挙と同時に行われるダブル選挙となれば、次の国政選挙は2019年の参院選であり、ダブル選挙でなければ2018年に衆院選がある。どちらの場合でも、選挙のない空白期間があるが、もし改憲を主張する政党の議席数が憲法96条の規定を越えるようであれば、はじめて改憲が発議される可能性は十分あるのではないか。

「護憲か、改憲か」という二項対立の問題設定は容易だが、ここで問題にしたいのは、私たちの社会は、改憲の是非を議論する準備ができているだろうかという点である。

日本社会は、すでに相当長い時間、憲法とはなにか、民主主義とはなにかという、ときに少々青臭くも感じられる問いを、真剣に吟味する作業を怠ってきたように思える。

そもそも日本人にとっての民主主義の独自性や固有の手触り、質感とはいったいどのようなものだろうか。

このように問いを立てると、すぐさま、ある歴史的な時点の姿や立場を選択して継承しようとする人たちが出てくる。だが、それは些か性急かつ恣意的に過ぎ、国民の共通合意を得ることが困難であろう。

しかしながら継承することはできずとも、現在の立場から、民主主義にもっとも真剣に向き合った時代の知恵とそのプロセスを参照することの重要性を否定する人は少ないのではないか。

そのひとつの参照先は、日本社会が、少なくとも生活者からすれば突如もちこまれた民主主義という概念に、どのように向き合い、またどのように消化しようとしたかという軌跡になるだろう。

前置きが長くなったが、『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』の底本、文部省著作教科書『民主主義』は、1948年に上巻が発行された教科書である。未だ敗戦の記憶が新しく、占領下の統制にあり、日本でもっとも多くの人々が、もっとも真剣に民主主義に向き合わざるをえなかった時期に、専門知識を持たない学生向けに執筆された教科書といえる。

『民主主義』の最終的な監修は法哲学者尾高朝雄が務めたが、一読いただければわかるように、逆コースを辿ろうとする政治状況と革新的な論調が主流の論壇の狭間で、高い理想と現実を、格調高い筆致で描いている。

民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』はそのなかからとくに重要と思える章を抜粋し、幾つかの注を追加し、筆者が現代的な展望について解説を付している。ぜひ、なぜ当時、尾高は、そして文部省は、このような筆致と論調で、民主主義を論じようと考えたのか、その狙いや意図を想像し、また可能であれば議論してみて欲しい。そこに我々が改めて、憲法や民主主義を自分たち自身のものとして考えるヒントがあるはずだ。

とはいえ、『民主主義』をそのまま復刻できればそれに越したことはないのだが、幾分分厚過ぎ、また些か古くなった記述があることも否めない。

そのなかで改めて、新書として、多くの現代人の手に届きやすいかたちにまとめるにあたって、紙幅を圧縮する必要に迫られ、乱暴なまでに多くのコンテンツを削ぎ落とさなければならなかった。世論と動員など、編者の関心事項を優先した部分もある。

もし『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』を手にとってみて、『民主主義』に関心を持った人は、径書房版『民主主義──文部省著作教科書』(1995年、径書房)を手にとって見て欲しい。現代仮名遣いに改めたうえ、『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』では割愛したすべての項目を収録している。電子化もされていて、入手も比較的容易なはずである。また『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』執筆時点では、オンライン書店などで、5000〜1万円程度で入手可能である。

『民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』が、かつてもっとも日本社会が民主主義に向き合った/向き合わざるをえなかった時代の叡智とその軌跡を思い起こさせ、他方で、その「磁場」に過剰にとらわれ過ぎることなく、眼下に迫りつつある、日本人が改めて憲法、そして民主主義のあり方を考えなくてはならない時代に、思考のためのひとつの手がかりとなれば、編者として望外の喜びといえる。

社会学者/日本大学危機管理学部教授、東京工業大学特任教授

博士(政策・メディア)。専門は社会学。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科助教(有期・研究奨励Ⅱ)、独立行政法人中小企業基盤整備機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大学大学院特別招聘准教授、東京工業大学准教授等を経て2024年日本大学に着任。『メディアと自民党』『情報武装する政治』『コロナ危機の社会学』『ネット選挙』『無業社会』(工藤啓氏と共著)など著書多数。省庁、地方自治体、業界団体等で広報関係の有識者会議等を構成。偽情報対策や放送政策も詳しい。10年以上各種コメンテーターを務める。

西田亮介の最近の記事