全斗煥(チョン・ドファン)元大統領が亡くなった。御年90歳である。

 全元大統領が1か月前に亡くなった陸軍士官学校の同期でもある盧泰愚(ノ・テウ)元大統領らと共に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺事件(1979年10月)後に軍事クーデターを引き起こし、実権を掌握し、政権の座に就いたのはソ連のアフガン侵攻→米国のモスクワ五輪ボイコットによる「米ソ冷戦」真っただ中の1980年9月。以後、全斗煥氏は1988年2月に退任するまで約8年間にわたって大統領の座にあった。

 この頃、米国の大統領はドナルド・レーガン氏だった。全大統領就任から2か月後の1980年11月に実施された大統領選挙でカーター大統領の再選を阻止し、1981年1月に発足したレーガン政権も1989年の1月まで8年間政権の座にあった。

 一方、日本では全政権発足時は鈴木善幸首相だったが、レーガン大統領当選から1年後の1982年11月に中曽根康弘氏が首相に選出され、中曽根政権は87年11月まで5年間続いた。

 人権外交の看板を掲げていたカーター政権は全氏がクーデターで政権を不当に奪取し、米国の友人である野党指導者の金大中(キム・デジュン)氏を逮捕する一方、光州市で起きた民衆のデモを武力で鎮圧したこともあって「認知」を渋っていたが、ソ連を「悪の帝国」と批判し、「打倒共産主義」を打ち出していたレーガン氏は大統領就任後最初の外国の元首として全大統領をワシントンに迎え入れるほど全政権を全面的にバックアップした。全氏もまたレーガン大統領に応えた。そのことはナショナルプレスでの次の発言からも明らかだ。

 「朝鮮半島の平和と安定は北東アジアの平和と不可分である。韓国は特に太平洋における日本と米国の防衛の砦である。協力してソ連の脅威に対抗したい」と、「韓国砦論」を披露したのである。

 当時、全斗煥政権は安全保障面では米国に、経済分野では日本に支えられていたことからメディアでは「レーガンー中曽根ー全斗煥三角同盟関係」と称されるほど日米韓は蜜月関係にあった。

 日本は当時レーガン政権に対して軍事面での協力はできないが、韓国には経済・技術の面で協力することを約束していた。こうしたことから全氏は時事通信社訪韓団との会見で①日本は経済大国だから技術、資本の面で協力してほしい。それも運命共同体としての高い次元での経済協力を望む②日本が北朝鮮の脅威を感じないでいられるのは韓国軍と駐韓米軍がこれを防止しているという心理的安堵感のためであると強調していた。

 日本から経済支援を受けるのは当然とばかり、全政権は1981年8月と9月にソウルで開催された日韓外相会談と日韓定期閣僚会議で安保経済協力として100億ドル(政府借款60億ドル、民間借款40億ドル)を要請した。

 「安保経済協力」との名目について全氏は政府間交渉の1か月前に訪韓した春日一幸民社党最高顧問に「安全保障の面からみると、日本は韓国と同じ領土にあると考えて欲しい」と言っていたことからも明らかなように「釜山に赤旗が立てば、日本も赤化する」との韓国特有の理屈だった。

 日本は中曽根政権時代に最終的に40億ドルの支援を行うことになったが、国際的に評判の悪かった全政権が日本から多額の支援を得ることができたのは「史上最悪の関係」と称されている今日の日韓関係の現状からはとても想像できないことだが、日韓の間に様々な人脈網が張り巡らされていたことに尽きる。

 経済界では日本商工会議所のコンビ、五島昇副会頭(東急グループ会長=当時)と瀬島龍三(元伊藤忠商事会長)の両氏の名前が真っ先に挙げられる。両人は全氏が大統領就任後最初に接見した財界人であった。当時、パイプ役を担ったのは朴泰俊(パク・テジュン)浦項製鉄会長だった。

 朴会長は全大統領の陸士士官学校時代の教官であり、瀬島氏とは旧制麻布中学の同窓生の関係にあった。また、当時駐日大使だった崔慶禄(チェ・ギョンノク)氏は朴会長が教官だった時の校長であり、瀬島氏とは日本の陸軍士官学校で先輩、後輩の関係にあった。瀬島氏は全氏が権力を奪取した直後に訪韓した折、駐ソウル特派員とのオフレコ懇談で「全将軍とは以前から面識がある」と語っていた。

 政界では「親韓派」と称されていた福田赳夫元首相や日韓議員連盟の会長代行だった春日一幸民社党最高顧問らが訪韓するなど日韓関係パイプ再構築のため動いていたが、裏で動いていたのは1965年の日韓国交正常化以来、韓国と最も太いパイプを持ち続けた岸信介元首相と「国策研究会」の創立者である矢次一夫氏のコンビであった。

 当時、岸氏は政界から身を引いていたが、日韓協力委員会会長のポストにあったし、また矢次氏も同委員会の専務理事として影響力を行使していた。両氏は全氏の大統領就任式(80年9月)に出席し、全氏と1時間半にわたって話し合っている。

 韓国の新政権発足に伴い日本では日韓議員連盟の改編が1981年6月に行われたが、当時の名簿をみると、会長には福田派の安井健元参議院議長が、顧問には福田赳夫元首相が、そして会長代行には春日一幸民社党最高顧問の3人が名前を連ねているが、副会長には中曽根派の3人、福田派の2人に加え、新たに田中派から金丸信と竹下登の両氏が加わっていた。また1980年8月5日にまだ国軍保安司令官だった全氏に日本の政治家として真っ先に面会した田中派の戸塚信也氏も副幹事長の一人に選ばれていた。

 戸塚議員から全氏の印象を聞いた金丸氏は1週間後には田中派の箕輪昇郵政相を連れてソウルを訪問し、全氏と会見している。

 戸塚氏は全氏の印象を「風貌といい、当たりの柔軟さといい、鳩山威一郎(元外相)にそっくりだ」と述べ、また金丸氏も「(全斗煥は)外科医のようなもので思い切った手術をして後は知らないというわけはいかないだろう。最後まで(韓国の政治を)見届けるべきだ」と述べ、全氏のイメージアップに努めたと言われていた。

 全氏とパイプを持った田中派の訪韓ラッシュは続き、山下元利元防衛庁長官が当時若手議員だった林義郎、戸井田三郎氏らを引き連れ、1981年7月21日に訪韓したが、全氏は山下氏に対して「自分は政治の経験が浅いので豊富な政治経験を持つ田中角栄元首相にできたらお目にかかりたい」と田中元首相の訪韓を要請したが、田中元首相の訪韓は実現せず、代わりに1か月後に竹下氏が日韓議連副会長として訪韓していた。

 「親韓派」の本家を自任していた福田派からも同派のプリンスだった安倍晋太郎氏が自民党政調会代表団を連れて1981年6月に初めて訪韓し、全氏と対座していた。

 全氏は現在、日韓の火種となっている「過去」の問題について最初(1981年8月15日)の光復節記念式典での演説で「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と述べ、翌年の演説でも「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と「克日」を強調していた。

 なお、全氏は1984年9月に来日しているが、韓国の大統領(国家元首)としては初の訪日となった。