本庶劇場には第一幕があった

ストックホルムで会見する本庶佑さん(2018年12月6日)(写真:Shutterstock/アフロ)

 免疫学者本庶佑さんのノーベル医学生理学賞受賞をめぐるドラマは、昨年暮れの授賞式をもってひと区切りがついた。10月の発表に端を発したメディアの盛りあがりも急速に収まっていくことだろう。この数カ月の報道ラッシュをみていて、私のように一線を退いた科学記者には一つだけ気になることがある。今回は本庶さんの1990年代以降の業績に焦点が当たったが、それは本庶劇場の第二幕に過ぎないということだ。本庶さんの研究半生を遡れば、もっと華々しい第一幕があった。本稿では、その記憶を書きとどめておこうと思う。

 今回、本庶ノーベル賞が世間に訴えかけているのは基礎科学の底力だ。メディアの論調も、おおむねその辺りに集約される。そこにはわかりやすい構図がある。

 本庶グループは90年代初め、細胞レベルの研究でPD-1という謎のたんぱく質分子を見つけた。90年代末までには、その分子が免疫細胞の表面に現れて免疫のブレーキ役として働くことを突きとめる。がん細胞は、このしくみを利用して免疫細胞の攻撃をかわしているらしい。グループはそう見抜いて、創薬開発に乗りだす。これが実って2014年には日本でがんの治療薬として承認され、それが世界に広まった――知的探究が実用生産に結びつく流れを十数年で完結させたことになる。

 ただここで申し添えたいのは、基礎が応用につながるまでの道程は「十数年」に収まらないということだ。免疫学ががんの治療薬に結びつくには、それに先だって基礎科学として盛りあがる助走期があった。それこそが本庶劇場の第一幕である。

 このことを象徴するのは、1981年度の「朝日賞」だ。学術や芸術などで「傑出した業績」をあげた人やグループをたたえる賞で、功成り名を遂げた人に贈られることが多い。ところが、この年は受賞者6人のうち半数の3人をバリバリ第一線の30~40代の免疫学者が占めたのだ。年齢は30~40代で、もっとも若いのが本庶さん。発表時点で39歳だった。

 では残る2人は誰か。1人は利根川進さん。いち早く1987年にノーベル医学生理学賞を受けた人だ。もう1人は故・多田富雄さん。専門の免疫研究の一方で詩や能楽にも造詣が深く、文理をまたぐ知識人だった。この顔ぶれを見ただけでも、当時、免疫学が知の最前線にあったことがわかる。

 興味深いのは、このときの授賞理由だ。3人の業績は「免疫遺伝学への貢献」という言葉で括られ、利根川さんは「抗体遺伝子の情報発現と制御の研究」、本庶さんは「免疫グロブリン遺伝子の研究」、多田さんは「免疫抑制T細胞と抑制因子の解明」がそれぞれ評価された。字面だけでも、免疫のしくみが遺伝子レベルで解き明かされつつあったことが一目瞭然だ。

 これは、20世紀後半の生命科学史からみると必然と言える。1953年に遺伝子本体のDNAが核酸の二重らせん構造であるとわかり、そこに並ぶ塩基が遺伝情報の暗号文字として働いていることが明らかになった。生命現象は、この情報によって支配されている。ならば、免疫作用もそれをつかさどる物質群の遺伝子にさかのぼって研究しよう、という流れになっていた。

 人体は、インフルエンザウイルスなどの外敵に襲われると、抗体を押し立てて抵抗する。このときに重要な役割を果たすのが、B細胞、T細胞と呼ばれる2種のリンパ球だ。抗体はBリンパ球が活性化されて増殖・分化することで生産されるが、その活性化、増殖、分化を促す因子はTリンパ球が放出するとみられていた。これらの因子はたんぱく質の分子であり、その構造は遺伝子の塩基配列によって定められている。1980年代は、この配列を突きとめる作業が一気に進んだ時代だった。

 私自身が取材した例を引こう。1986年に札幌市であった日本癌学会のシンポジウムでは、岸本忠三さん(大阪大学)らのグループがヒトのBリンパ球分化因子について、本庶さん(京都大学)らのグループがヒトのBリンパ球増殖因子について、それぞれ遺伝子の塩基配列を解明した。その結果、両因子はアミノ酸の数にして、それぞれ184個、110個余のたんぱく質であることがわかったのである。この記事は翌日朝刊で第1面の記事になった(1986年10月23日付)。扱いが大きくなったのは、遺伝子レベルの免疫学研究で日本の有力研究者が最先端を走っていることが浮き彫りになったからだろう。

 もう一つ、忘れられないのは1983年8月に京都で開かれた第5回国際免疫学会議である。そこには利根川さん、本庶さん、多田さん、岸本さんらの姿があった。私はその月に科学記者になったばかりだったので、先輩記者の後をついて回るだけだったが、新米だからこそ強烈に印象づけられたことがある。それは、免疫学の先端研究と臨床応用との距離感だ。それでも新聞記者が書く記事には「がん」の一語が盛り込まれたものだが、そうしたときは「がん研究に役立つ」「抗がん薬の開発に道を開く」といった趣旨の常套句にとどまるのが常だった。

 この会議が開催されたころは、後天性免疫不全症候群(AIDS)が脅威となり始めていたころで関心はそこにも集まったが、決め手となる治療法が提示されることはなかったと記憶する。

 むしろあのとき、私の脳裏に強く焼きついたのは、多田さんが会場内で配られる印刷物に寄稿していたエッセイ風の論考だ。「自己」と「非自己」について論じたもので、理系研究者とは思えない筆致だった。たしかに免疫作用は生体が異物と闘う働きだから、「他者とは何か」という問いがかかわってくる。免疫学は哲学でもあるのだな、と思ったものだ。

 本庶劇場第一幕――1980年代の免疫学は、生体の免疫作用にかかわる細胞群がどんな役割分担をして、どんなネットワークでつながり、どんな制御機構で働いているかの全体像を描きだした。その構図がわかっていたからこそ、PD-1という分子の働きを的確に見極められたとは言えるだろう。

 がん治療の創薬は一朝一夕には成らない。応用をはるか先に見通した知的探究の時代があったからこそ、そこに到達できたのである。