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「青臭く愚にもつかない滅茶苦茶な思索を巡らせ!」 名門校・武蔵で目の当たりにした鳥肌ものの答辞全文

おおたとしまさ育児・教育ジャーナリスト
現在の武蔵高等学校中学校。拙著執筆後に校舎の建て替えが行われた(筆者撮影)

BSテレビ東京の「THE名門校」という番組(毎週日曜夜9-10時)に解説役として出演している。11月15日の放送は、男子御三家の一角「武蔵高等学校中学校」についてだった。放送のなかで、拙著『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社新書)から、武蔵の卒業式で私が目の当たりにした鳥肌ものの答辞の一部が朗読された。

●THE名門校オリジナル記事

https://www.bs-tvtokyo.co.jp/meimonkou/article/

放送では角谷暁子アナウンサーがプロの朗読を聞かせてくれたが、実際には厳かな雰囲気が漂う武蔵の講堂でまさにそこを巣立たんとする高校生が、木訥と読み上げたものだ。武蔵という学校の雰囲気を直感的に伝えるのにあの答辞以上のものはないと思い、答辞の全文を書籍に転載させてもらった。もちろん本人の許可を得て。

書籍発売当初、書籍の内容をそして武蔵という学校を知ってもらうために、あの答辞をネットに転載したかった。しかし高校を卒業したばかりの未成年者の文章をネット空間に置くことには慎重にならなければいけないとの観点から、見送った。

THE名門校の放送では、答辞の一部が朗読されただけでなく、答辞の主・長尾柾輝さん本人がスタッフからの電話取材に応じる様子も放映された。書籍が発売されたのが2017年9月のこと。もう3年の月日が経つ。私は改めて長尾さんに連絡をとってみた。いまさらながら、答辞の全文をネットに転載する許諾を得るために。

ついでに、いま自分の答辞を振り返ってみて、どう感じるか、尋ねてみた。「武蔵の友人たちと極論をかわせという部分はいまも変わらないのですが、大学生って当時の自分が思ってたほど大人じゃないんだなということが、大学生になってみてわかりました」と笑って答えてくれた。

武蔵を卒業後現役で東大文3に進学した長尾さんは、文学部倫理学専修課程の4年生になっていた。いわゆる哲学を学ぶ学科である。東大弓術部にも所属しているとのこと。来春からは大学院に進む予定。専門は古代ギリシャの倫理思想だ。数十年後には、武蔵の卒業生を代表するような人物になっているのではないかと私は思う。

さて、長尾さんの答辞の全文を、拙著『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』から、導入本文を含めて転載する。私にとっても3年越しの願いがかなったことになる。

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なぜか演説調の卒業生答辞

 武蔵の卒業式は、大学の大講堂で執り行われる。中三の卒業式も兼ねており、高校生は全員参加する。卒業生は一応スーツ姿だが、在校生はいつも通りの「ムサカジ(武蔵カジュアル)」だ。

 校長が卒業生全員に一人一人卒業証書を授与する。卒業生が壇上に上がる際、会場の後輩たちが茶々を入れるのがお約束だ。

「○○先輩! 成績は伸びたけど、身長はどうにもなりませんでしたね!」

「部活頑張ってる姿、かっこよかったです! 次は受験も頑張ってください!」

「来年は受験じゃなくて、スキーでうまく滑れるように頑張ってください!」

 卒業生も壇上でそれにリアクションする。この日のために用意したラップを一曲歌い上げる卒業生もいた。

 讃歌(武蔵では校歌とはいわない)を歌い、学園長式辞、校長式辞、在校生送辞、そして、先ほどの座談会の中でも話題になった卒業生答辞と続く。これぞ武蔵六年間の賜物とでもいうべき見事な答辞であったので、全文を掲載する。

〈答辞〉

 皆さんこんにちは。ご紹介にあずかりました、卒業生代表の長尾と申します。ご来賓、教職員、保護者の皆さまにおかれましては、本日お忙しい所ご列席いただき、誠にありがとうございます。そして、中学三年生の諸君は、とりあえず三年間お疲れさまでした。高一・高二の諸君も、貴重な春休みを削ってのご出席、ありがとう。

 さて、何といっても我々高校三年生は、今日この日を以て、武蔵高校からの門出を迎える訳であります。この「門出」という言葉は、「門出を祝う」というコロケーションの存在からも明らかなように、極めてポジティブな語感を伴うもので、さきの送辞でも、在校生代表の今井君が、「ご卒業おめでとうございます」というような祝辞をかけてくださいました。それで、我々の方も、何だか卒業できてめでたいなあという気にさせられた訳ですけれども、本当にこの「卒業」、「門出」という節目がめでたいものなのか、喜ばしいものなのか、改めて自問してみますと、何やら覚束ない心持がします。

 私はこのたび武蔵高校を卒業するに及んで、幾らか嫌な思いも感じている。そこには、愛すべき母校から旅立つことへの寂寥だとか慕情だとか、その手のセンチメンタリズムが理由としてない訳ではないですけども、それより遥かに大きい素因は、個人的感情として、「大学生になるのが躊躇われる」、これであります。

 ここ武蔵で、高校を卒業したものがその後どうするかといえば、当然大学へ進むわけで、……というと、一寸と語弊がありますので「当然」という所は訂正致しますが、何にせよ、多少の、一年二年の紆余曲折はあるかもしれないながら、最後はきっと大学へ進む訳であります。

 時に、「大学生」とは一体何か。

 大学生を「社会人」と見なす人はあまりいないと思います。大学生は、生産活動への従事によって、社会を構成するということがないからです。

 しかし、他面、大学生を「大人」だと見なす人は少なくない。いや、むしろ過半数を占めるものともいい得ましょう。法定の成人年齢は我が国におきましては無論二十歳ですけれども、大学生と言ったら十八や十九の小僧も「大人」と考えられなくない。事実、先だっては選挙権年齢の下限が十八歳に引き下げられ、大学生は社会的に権利者としての性格を獲得しました。国家のレベルでさえ、大学生が「大人」と認められるようになった一つの現れです。無論、大人は一挙手一投足に責任が伴いますから、大学生も「大人」として、自身の言動にきちんと責任を負わねばならない。そして、来る就職のことを考えましても、企業の方が志望者の大学在学時における動態を査定の重要な因子に据えている以上、大学生は矢鱈に不用意な振舞はできない宿命です。自分の本心から来る切実な思いでも、それがもし世間一般でいう「過激思想」であれば、表現は控えるべきです。本音をすっかり胸の裡にしまって、いわく「精神健全」の人間像を演じねばなりません。むろん、現実にはこれと相違して、いささかの責任感もなく、幼稚園児もかくやと思わせる程にはしゃぎ回っている大学生も沢山いらっしゃいますが、皆さん在校生諸君はおそらくこの先一流大学へ進み、エリートコースを歩まれる身で、周りは将来の政敵・競合者だらけの環境となるはずですから、振舞方には充分気を遣った方がよい。

 してみると、まったく自由に打算なく、自らのまっさらな思想をありのまま曝け出せる最後の環境が、在校生諸君にとってはこの武蔵だということになる。私の同級には無政府主義者も君主制信奉者もいますけれども、そういった無茶な思想を爽やかに振り回して、かつ滅びることもない最後の聖域が、武蔵高校なのです。無責任なガキだから無責任なことを言える。この絶好の立場を活用しない手はありません。

 この答辞の場で、私が在校生諸君に申し上げたいことは、畢竟するにこの一点、「今のうちに極端な思想を持て」ということであります。そして、そのためには、受験勉強など高三の二学期から狂ったようにやれば十分間に合いますので、それまでの所、「勉強」ならぬ「学習」に労力を注ぎ込んで欲しい。要するに、「勉め強いる」というやり方でなく、「学び習う」という姿勢をとっていただきたいのです。たとえば、歴史に興味を持つのであれば、『実況中継』やら何やらのいかがわしい書籍は皆売ってしまって、もっとふくよかで貫流した主張のある一般書をお読みになるとよい。そうして、能動的なインプットを続けておりますと、若い頭には、かならず思想の芽生えとでもいったものが訪れます。往々にして、そうした一次的な思想は極論であり、反面、当人の中では揺るがし難い絶対的な説得力を持っています。だから、それを直ちに誰かへ伝えたくなってくる。その際、皆さんには絶好の捌け口があります。すぐ隣にいる、武蔵の友人がたです。皆さんは、彼らを極論の捌け口にすれば宜しい。友人同士、持論の過激さや特異さを却って誇る勢いで、遠慮せず、自己を表現し合えばよいのです。

 私個人の例を挙げますと、たとえばわが国の選挙制度のあり方などを友人と議論する。もっとも、議論というのは形式上そのように見えるというだけで、実際は持論の一方的なぶつけ合いにすぎませんが、とにかく、複数人で、心の奥底から溢れ出す思想を応酬するのです。

 ある人は、少子高齢化社会では現今の選挙制度は成り立たない、老人が数を恃んで結託し、若者のための政策を潰すという事態が横行してしまう、それを防ぐためにも、選挙権年齢には上限が設けられて然るべきだ、なぜなら、年金暮らしの老人は権利の対価として果たすべき義務、すなわち生産活動に従事していないからであり、同様の理由で大学生が選挙権を持つのもおかしい、などと論じる。

 社会の実情を知らない、現実離れした極論です。

 また他方ある人は、今時定年後も働いている人などザラであり、年齢による安直な輪切りでは不公平が生ずる、そのため、老人を選挙制度の枠外へ追放しようと考えるのではなくて、ひとつの選挙制度のもとで老人と若者とを住み分けさせようと考えるべきだ、一案としては、現行の国会を対等な立法能力をもつ老人院と若者院とに分割することが挙げられる、六十五歳以上の者は老人院議員の選挙資格、それ以下の者は若者院議員の選挙資格のみをもつ、とたとえばこんな風に排他的に分割してしまえば、老人が若者の改革を妨げる、ということも少なくなろう、などと論じる。

 これも極論です。しかし、極論でよいのです。これが大人だと、「もっと現実的な議論をしろ」という風に、もっともな、いや、もっともすぎる批判をされるに違いありません。高校生だからこそ、こんな戯言を吐いて平気でいられるのです。

 在校生諸君は、いま私が言ったような無茶な主張を手本に、皆が皆の、腹に決めた極論を、譲り合うことなく、本気で表出し合ってください。そうして、「大人」以前の最後の段階で極論に浸り、知的顕示欲を出し尽くしておけば、それらの御し方も段々に分かってくるものですので、大学進学時にセーブをするということも可能になる。そうした過程を経ないで、大人になってから下手に思想を身につけてしまいますと、人と素直な議論がしたい、しかし自分には社会的責任があるので安心できる相手が見つからない、という板挟みの状態に陥り、しかしそうした欲求不満を無限に溜めつづけられるほど人間の器は大きくありませんので、自らの身元を隠蔽したうえ、誰とも分からぬ匿名者と、倹しく意見の発散をし合う他なくなる羽目になるのです。いい年をした大人が、2ちゃんねるなどで空論をこねくり回し、政治談議らしき何物かに徒花を咲かせているのも、結局はそうした事情によるものと私は考えています。そういう意味でも、高校生の時分に極論と親しみ、親しみ切るのは、きわめて有意義なことと思う。

 最後に、長くなりましたので、私の主張をもう一度しつこく確認しておきますと、在校生諸君は今のうちに極端な思想を持ち、友人とそれを交換し合ってほしい。そのためには「勉強」するより「学習」せよ、ということです。行き着く先は、アナキズムでもよく、モナキズムでもよい。ファシズムでもよく、コミュニズムでもよい。法律に抵触せず、他人の人権を侵害しない範囲で、青臭く愚にもつかない滅茶苦茶な思索を巡らしてください。私自身、武蔵での六年間の日々を通じ、そうしたことに時間を捧げた今思えば赤面ものの経験が、人間形成上、非常に有意なものであったと確信しています。

 武蔵が男子校である以上、青春を彩る花として、甘酸っぱい恋愛はありえない。ならばせめて、甘酸っぱい理想論などを交わし合うことで、残り限られた青春を華やかに演出なさってはいかがでしょう。

 以上をもって、私の答辞とさせていただきます。

平成二十九年三月十八日

卒業生代表 長尾柾輝 

育児・教育ジャーナリスト

1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。男性の育児、夫婦関係、学校や塾の現状などに関し、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演多数。中高教員免許をもつほか、小学校での教員経験、心理カウンセラーとしての活動経験あり。著書は『ルポ名門校』『ルポ塾歴社会』『ルポ教育虐待』『受験と進学の新常識』『中学受験「必笑法」』『なぜ中学受験するのか?』『ルポ父親たちの葛藤』『<喧嘩とセックス>夫婦のお作法』など70冊以上。

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