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プロ入りを決めた河村勇輝 東海大を2年で“中退”する決断はどういう意味を持つのか?

大島和人スポーツライター
大学中退とプロ入りを発表した河村勇輝選手:筆者撮影

特別指定選手としてプロ3季目

20歳の青年が主役となる記者会見に、オンラインを含めると29社49名のメディアが参加していた。主役の名は河村勇輝――。東海大学体育学部の2年生で、昨季と今季はと横浜ビー・コルセアーズでもプレーしている。

BリーグはJリーグと同様に「特別指定選手」という制度がある。Bリーグは一般の選手登録が10〜13名だが、それと“別枠”で満22歳以下のプレーヤーを2名まで登録できる仕組みが特別指定だ。大きな特徴は大学や高校のバスケットボール部との二重登録が認められること。東海大学、筑波大学のような有力校の主力が、大学の公式戦がない12月から3月にかけて、インターンシップ的にプロでプレーする例が多い。

河村勇輝は172センチのポイントガード(PG)。2020年1月から3月にかけて、三遠ネオフェニックスで“プロ1季目”のキャリアを積んでいる。2019年12月のウインターカップで福岡第一高を2連覇に導いた彼は、直後にセンセーショナルなB1デビューを飾った。1試合平均12.6得点、3.1アシストのスタッツも見事だったが、それ以上に小柄な高校生がプロと伍してダイナミックに仕掛けるインパクトが強烈だった。彼の出場する試合はチケット完売が続き、セールス的にも大きな貢献を見せた。

昨季は不調も今季は月間MVP獲得

一方でプロ2季目の2020-21シーズンは、彼らしさを出せなかった。東海大のキャンパスから近い横浜ビー・コルセアーズでのプレーを選択した彼は1試合平均で21.2分のプレータイムを得たが、平均6.0得点にとどまった。3ポイントシュートの成功率は20.5%に低下し、試合後の会見も沈んだ様子が多かった。

コロナ禍で大学への合流が遅れた影響もあったのだろう。またカイル・ミリングヘッドコーチ(HC)のハーフコートオフェンスを重んじるスタイルと、速攻から思い切って攻めて生きる河村の持ち味にズレがあった。

しかし東海大2年のシーズン終了後に迎えた2021-22シーズン、彼は再び持ち味を取り戻す。引き続いて横浜に合流すると、青木勇人・新HCの戦術にフィット。昨季からの連携が残る外国籍選手との関係も改善し、2022年1月のB1月間MVPも受賞してみせた。ここまで13試合に出場し1試合平均10.5得点、5.9アシストを記録。B1のPGとしてはトップレベルの数字を残し、アジア大会に向けた若手中心の日本代表合宿にも招集されている。

写真=B.LEAGUE
写真=B.LEAGUE

パリ五輪という目標を踏まえた決断

河村は3月3日の会見で大学中退と、プロ入りを発表した。2021-22シーズンを横浜で最後まで全うし、さらに2022-23シーズンの契約も横浜と締結したという説明がされた。

彼は会見で中退、プロ入りの理由をこう説明している。

「日本を代表するPGとなり、2年後のパリ五輪出場が僕の目標です。目標に近づくためにどうするか考えて、この決断に至りました」

横浜に戻った理由はこう述べている。

「昨シーズンはファン・ブースターの皆さんの期待に応える活躍ができず、悔しい思いをさせてしまいました。その借りを返したい気持ちがあったからです」

1月末に監督、両親と相談

彼は東海大の司令塔として2021年12月のインカレ(全日本大学バスケットボール選手権大会)に出場し、準決勝を果たしている。その後に横浜の活動へ参加する中で、プロ入りの意向が強まったという。

「特別指定選手として加入して練習に参加して試合を重ねる中で、パリ五輪に出たい、プロバスケット選手としてやっていきたいという気持ちが出てきました。その気持ちが沸いたのは12月末で、決断を両親や陸川(章)監督に話をしたのは年明けです」

授業がリモート中心というコロナ禍で、大学に籍を残しながらプロでプレーする選択もあっただろう。しかし彼は退学を選択した。彼が持つ時間のすべてをバスケに費やしたいという思いだろう。

「あと2年後という自分の中では短い時間の中で、バスケットに打ち込める環境はプロのチームに加入することだと思いました。プロバスケット選手になるために東海大に入学して、その基礎をこの2年間で学べた。この決断は正しかったと思えるように、これからやっていくしかない」

監督は「あなたの意見を尊重したい」

河村は陸川監督、両親のリアクションについてはこう振り返る。

「陸川監督は最初から『自分の人生だから、あなたの意見を尊重したい』という感じで、背中を押してくれました。両親もこれまで、高校や大学の進学で迷ったとき常にアドバイスしてくれたんですけど、自分の自主性を大切にしてくれています。この話を両親にしたときも覚悟があって、プロの世界に行って自分で責任を取れるなら、行きなさいと。自分の気持ちを一番に思ってくれての言葉で、そこは自分も『やらなくてはいけないな』という気持ちになりました」

既に記録は塗り替えられているが、河村のBリーグ初出場・初得点は当時の史上最年少となる18歳8カ月23日。18歳の時点で既にB1で“普通に”プレーできるレベルにあった。もっとも東海大での2年間が無駄だったかと言われば、それは「ノー」だろう。2シーズン前の河村はアシストと同じくらいターンオーバーを喫していたし、フィジカル的にも子供だった。体重はこの2年で5キロ増えたという。

東海大OBは卒業前からプロで活躍

東海大は“日本人選手のレベル”に限れば、B1と中位チームと差がない。戦術的、身体的に「プロ入り直前の準備」をしたい若者にとっては、日本でベストの環境だろう。西田優大(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)や大倉颯太(千葉ジェッツ)、寺嶋良(広島ドラゴンフライズ)、津屋一球(三遠ネオフェニックス)といった錚々たるメンバーが、大学卒業を待たずにプロの舞台で大活躍を見せてきた。

河村はこう言い切る。

「陸さん(陸川章監督)は自分のバスケットの幅を拡げてくださった恩師です。知らないバスケットを経験できて、有意義な時間でした。プロでやっていく上での基礎を学ぶことができたし、大学生活を通して人間的にもすごく成長できた。(中退に)心残りはありません」

河村が目標に掲げるパリ五輪出場だが、日本代表が2023年のワールドカップでアジア勢最高成績を収めることが前提で、チームとしてかなり高い壁だ。ただしトム・ホーバスHCは“スモール”な女子日本代表を東京五輪銀メダルに導いた指揮官。河村はホーバスHCのスタイルとの好相性について、以前から何度かコメントしている。もちろん彼はまだ完成された選手ではないし、富樫勇樹、齋藤拓実といった持ち味の似た先輩はいる。とはいえ河村の“若さと伸びしろ”は大きな魅力だ。

中退アスリートの成功例は?

過去にも中退プロ入りを選択した日本人バスケ選手は何名かいる。馬場雄大は筑波大4年のシーズンを前にバスケ部を退部し、他の選手より半年早くプロ入りをした。八村塁はゴンザガ大3年のシーズン後に、NBAのドラフトにエントリーしている。

ただし日本は「やりきる」ことを重んじる文化があり、大学の推薦入学には「暗黙の4年契約」という側面もある。中退を決してポジティブな選択として受け止めない傾向は今も残っている。せっかく育てた選手を“これから”のタイミングで抜かれる大学チームにとって、中退が痛手であることは間違いない。

サッカーはJリーグ開幕とともに、選手のプロ入り時期が一気に早まった。大学経由が前提だったキャリアが激変し、開幕翌年の1994年には服部年宏、三浦淳宏(現・淳寛)といった当時の注目選手が次々に大学を中退してプロ入りを選択した。その後も長友佑都が明治大を、武藤嘉紀は慶應義塾大を3年で中途退部して代表まで上り詰めた。

日本バスケに必要な中退文化

アメリカは大半の選手がNCAAを経由してプロに進むが、1年で中退するキャリアが当たり前だ。ヨーロッパは育成年代からプロクラブの傘下でプレーする例が多く、出世も早い。ヨーロッパ育ちのリッキー・ルビオは14歳11ヶ月24日、ルカ・ドンチッチは16歳2ヶ月2日でプロデビューを果たしている。

Bリーグは「選手の平均年齢が世界一高いリーグ」として知られていて、日本バスケは明らかに若手の台頭が遅い。もちろん準備ができていない未熟な若者を無理にプロのコートに立たせることが是ではない。一方で19歳、20歳の時点でプロの準備を終える環境整備、飛び級を後押しする文化の醸成が必要な状況は明らかだった。

河村は彼を取り巻くあらゆる人から歓迎され、20歳10ヶ月というちょうどいいタイミングでプロ入りを決めた。これはきっと日本バスケの未来につながる行動だ。

スポーツライター

Kazuto Oshima 1976年11月生まれ。出身地は神奈川、三重、和歌山、埼玉と諸説あり。大学在学中はテレビ局のリサーチャーとして世界中のスポーツを観察。早稲田大学を卒業後は外資系損保、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を始めた。サッカー、バスケット、野球、ラグビーなどの現場にも半ば中毒的に足を運んでいる。未知の選手との遭遇、新たな才能の発見を無上の喜びとし、育成年代の試合は大好物。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることを一生の夢にしている。21年1月14日には『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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