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なぜ日本のスポーツ界は80歳超の高齢者に依存するリーダー不足なのか?

大島和人スポーツライター
(写真:アフロスポーツ)

組織委の会長人事が紛糾

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長人事が揉めている。最初に森喜朗・前会長が後任として指名したのは川淵三郎氏。サッカー、バスケットボールと2つのプロスポーツの立ち上げを主導し、両競技で協会のトップも務めた人物だ。

ただし「83歳から84歳への継承」には批判的な反応が多く、菅義偉首相の周辺も“密室人事”に反発したようだ。可視化されずとも自由民主党には根深い内部抗争があり、大物同士の不仲や下剋上も稀ではない。森氏は元首相で大先輩だが、総理にとっては自らの足を引っ張る政敵なのだろう。

政府による組織委、競技団体への介入は明確なタブーだ。東京五輪が開催へ漕ぎ着けるにしても、撤退戦が必要となるにしても、政府と組織委の間には利益相反が起こる。さらにいえば国務大臣と財団法人の会長は兼務が認められていないため、橋本聖子・内閣府特命担当大臣(東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当)の格下げ人事も難しい。

会長人事については日本政府、IOC、組織委によるややこしい「綱引き」があるはずだ。形式的にはまず会長候補選考委員会を設置し、その人物を理事会が承認するプロセスで新会長が決まるようだ。とはいえ誰を候補にするのか、然るべき人物が引き受けるのかという問題がまずある。

高齢者に依存してきた組織委

IOCや政府に顔が利き、さらに日本のスポーツに関する土地勘を持っている大物は少ない。そもそも相応の能力を持つ人材は、急に8月までのスケジュールを空けられない。今回は森前会長の女性蔑視発言による日本スポーツのイメージ低下回避という要請もあり、女性会長の就任を模索する流れは理解できる。

しかし男女を問わず、現役のリーダーを引っ張ってくることはなかなか難しい。象徴として神輿に乗れる通常の大会はともかく、今回のような修羅場で先頭に立てる手腕の持ち主は皆無と言っていい。

2019年のラグビーワールドカップは当時84歳の御手洗冨士夫氏(キヤノン)、2002年のサッカーワールドカップでは当時77歳の那須翔氏(東京電力)が組織委員会の会長を務めた。森前会長も含めて大物には違いないが現役とは言い難い。

このような国際大会では、実務のトップとなる事務総長に官庁の事務次官経験者が就く。東京五輪は財務省の初代次官や、日本銀行の副総裁を務めた武藤敏郎氏が組織委の事務総長を担っている。キャリア官僚は60歳定年で、セカンドキャリアが政治家や経営者に比べて長い。といっても武藤事務総長は77歳の高齢だ。

新会長の候補に上がった橋本大臣、鈴木大地・前スポーツ庁長官、小谷実可子・組織委スポーツディレクターはいずれも50代。オリンピアンで若さも武器になる世代だが、IOCや世界のメディア、広告代理店が入り乱れるシビアなバトルで手腕を発揮するリーダーか疑問だ。

「世界」に打って出たスポーツ人の系譜

ただし日本はオリンピックムーブメントが盛んな社会で、過去にはIOCの委員や幹部として活躍した人材を何人も輩出している。例えば猪谷千春氏はコルティナ・ダンペッツォ冬季五輪の銀メダリストで、IOC副会長を務めた。故人だが岡野俊一郎・元日本サッカー協会会長もIOC委員を務め、スポーツ外交で活躍した人物だ。

猪谷氏は世界的な保険会社の経営者から援助を受けてダートマス大で学び、経営者としても活躍した。岡野氏は東京大の卒業生で、実家は和菓子屋の老舗だった。キャリア的経済的に自立したインテリで、語学も堪能だった。スポーツ外交は貴族的なサロンだが、そのような場に食い込める紳士だった。

川淵氏も大阪府立三国丘高校を卒業後、20歳になってから早大OBから声をかけられて「二浪」して進学した変わり種だ。東京五輪に出場したサッカー選手だが、古河電工時代は社業でも活躍していた。50代前半で会社を離れてサッカー界に転じ、Jリーグの立ち上げを主導した。サラリーマン経験者ではあるが、会社の枠からはみ出た異端児だ。

バレーボールの故・松平康隆氏も名指導者であり、なおかつメディアや企業を巻き込むプロデュース力を持ち、国際バレーボール連盟を主導する外交力も持った人物だった。

30年代生まれに多い野人タイプ

ここに名を挙げた4名はいずれも1930年代生まれ。多感な時期に戦争と急激な社会転換を経験した世代は、いい意味でアグレッシブな個性派が多い。トリッキーな表現を使うなら、ダイナミックな動きに臆せずついていく「若い感性」の持ち主が目立つ。総じて摩擦を恐れず、言うべきことを言う野人タイプでもある。そして自己主張の強い海外のスポーツ人と渡り合う覇気も持っていた。

筆者はバスケットボール界の改革を取材する中で、記者会見の出席やインタビューで川淵氏と接点があった。当時のコメントを読み返せば分かるのだが、この手のリーダーとしては異例なほど正直に、自らの思考や事実関係をさらけ出すオープンマインドの持ち主だった。日本に厳しい制裁処分を下した国際バスケットボール連盟(FIBA)に対して臆せず主張をぶつけ、程よい着地点に改革を誘導した。

しかし野人は、国内でつまずきやすい。平成以後の日本はインターネットを通した拡散力もあり、大衆の圧が強い。川淵氏についていえば自らの会長就任を前提にコメントを出し、森前会長のアドバイザー就任に言及したことが世論や官邸の反発を呼んだ。慎重に外堀を埋め、既成事実化を進めてからメディアに出す――。それが令和日本の作法かもしれない。

無難な人材が増えた背景

もっとも川淵氏は単なる野人ではない。広く目配りをして、大企業や行政・地方自治体の顔も立てる「ソツのなさ」を高レベルで持つリーダーだ。豪腕と「細心さ」を併せ持つハイブリッドだからこそ、今もスポーツ界において頼られる存在となっている。ただそんな彼も今回は失敗を犯した。令和の日本はソツがなく、無難なタイプでないと生き残れない。改革者は得てして強引でクセが強いものだが、そのような個性派は減っている。

なぜリスクテイカーがスポーツ界から消えたのか?背景には日本社会の変化があった。

日本社会が1945年の終戦から復興する中で、1964年に東京オリンピック開催と前後して、スポーツ界は「レール」が敷かれた。スポーツで進学・就職する流れが一般化し、キャリアがムラ社会で完結するようになった。勤務先、日本社会から飛び出すスケールを持った人間が途絶えた。

「第二の敗戦」が生んだ次世代

一方で1990年代のバブル崩壊以後、日本社会は「第二の敗戦」を迎えた。集団競技、個人競技のいずれを見てもアスリートは会社に依存せず、プロとして自立した活動をしている。海外に打って出た経験を持つ元選手も、一気に増えている。

橋本議員のように早い時期から政界へ打って出て台頭した人もいる。鈴木前スポーツ庁長官、室伏広治現スポーツ庁長官は企業に入らず研究者として大学へ残った。逆に日本バスケットボール協会の三屋裕子会長は引退後に企業のトップも務めた複線キャリアを持つ。フェンシング協会の太田雄貴会長は、30代半ばの若きリーダーだ。

会社からの出向で要職に入れば、どうしても会社に縛られる。言いたいことを言えず、権力と対峙もできない。スポーツ界に限らずリーダーは経済的、身分的に自立をしていなければ務まらない。そういう人材は50歳台より下を見ると増えているが、60〜70歳台を見ると少ない。

日本社会から安定が消えたことはネガティブな現象だ。一方で組織へ依存せず、能動的にキャリアを築き、アクションを起こせるスポーツ人は増えている。2021年には間に合わなかったが、組織運営や外交で後輩を支えるスポーツパーソンは増えていくだろう。高齢者依存は、おそらく一時的な現象だ。

スポーツライター

Kazuto Oshima 1976年11月生まれ。出身地は神奈川、三重、和歌山、埼玉と諸説あり。大学在学中はテレビ局のリサーチャーとして世界中のスポーツを観察。早稲田大学を卒業後は外資系損保、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を始めた。サッカー、バスケット、野球、ラグビーなどの現場にも半ば中毒的に足を運んでいる。未知の選手との遭遇、新たな才能の発見を無上の喜びとし、育成年代の試合は大好物。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることを一生の夢にしている。21年1月14日には『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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