小保方氏の疑問に答えるー問題の発端はどこにあったのか(前)

STAP事件の中心人物、小保方晴子氏の手記についての批評はいくつか出ているが、そもそも内容に触れていなかったり、小保方氏の主張をかいつまむ解説に終わっているものがほとんどのようだ。これでは、同事件の結末・社会的影響および社会による小保方氏への処遇の経緯という3つの観点からは十分とはいえない。

小保方氏手記の一面は、彼女の立場から見たSTAP事件の歴史である。この側面において同書は、関係する他の人々・機関との係争点について彼女の主張を伝えるものである。しかしその多くは部外者にとってはそれが真か偽かを判断することは不可能であり、私自身このような点に興味もないし、またこの側面が同書の重要性でもないと考えている。

私の目から見て小保方氏の手記が重要である部分は、それが彼女の科学者としての一生について語っているところである。事実、同書は、次の一文から始まる:「あの日に戻れるよ、と神様に言われたら、私はこれまでの人生のどの日を選ぶだろうか。一体、いつからやり直せば、この一連の騒動を起こすことがなかったのかと考えると、自分が生まれた日さえも、呪われた日のように思えます(1)」 そして、「あの日」は書名でもあり、これが根幹になっていることは間違いがない。

ここにおいて、小保方氏が同書を書くにあたったもう一つの動機 ー 自身の科学者人生の総括 ー を見ることができる。つまり小保方氏は、彼女が足を踏み外すことになった最初のそもそもの発端はどこにあったのか、と問うているのである。

問題の発端をどこに求めるべきかという問いは、科学者を目指していた同氏が持つ問いとしては妥当なものであると思うし、事件の大きさと帰結を考えると、科学・高等教育を生業とする誰かが、彼女の問いに真正面から忌憚なく答えるべきであろうと思う。さらに、STAP事件が大学院教育や研究運営における構造問題の落とし子であるならば、「小保方氏が足を踏み外すことになった」最初の契機について考えることは、今後の日本の科学にとってきっと有用なことであろう。こう考えて、筆をとることにした。

幻の対立

小保方氏は大学院生当時にアメリカ合衆国、ハーバード大学のバカンティ教授の教室に留学した。そして、彼女はバカンティ教授が体細胞に物理的ストレスを加えた細胞である胞子様幹細胞(スポアライクステムセル)について研究した。小保方氏のストーリーの流れの中では、この時の研究は、のちに溶液を酸性に一定時間傾けることで酸化ストレスにより体細胞に幹細胞の特徴(Oct4発現を誘導すること)を持つようになるという「STAP現象の発見」につながっている。

別の言葉で言えば、ここにおいて小保方氏は、バカンティ研究室での研究から一貫した姿勢で研究しており、それがSTAP現象であることを主張している。

一方で小保方氏は、STAP細胞が個体発生に関与できた証拠であるキメラマウス作成実験およびデータについては、不確かなのに不本意ながら自分の力を超えて入ってしまったことを繰り返し匂わせる。

つまり小保方氏は同書において、この「STAP現象」の部分はSTAP研究の正しい部分と定義づけ、一方で、キメラマウス作成実験に誤りがあると位置付けようとしている。同書におけるこの二つの研究ストーリーは奇妙なほど分離していて、役者が分かれている。そしてこの2つはまるで善悪の対立であるかのように描かれている。

しかしここで確認しておくべき事実がある。多くの読者にとってはことさら説明するまでもないことであると思うが、2014年に科学誌Natureに掲載された2つのSTAP論文は完全に否定された。ストレス刺激によって誘導できると主張していたSTAP現象は存在しないことが科学的真理である。2つのSTAP論文は2015年に同誌が掲載した2研究グループによる小論文(2、3)によって完膚なきまで否定されており、論争の余地はない。当然否定されたのはキメラマウス作成能(より正確にはキメラマウス作成に使用された細胞が論文で主張するようなSTAP細胞由来ではなく、ES細胞であったこと)だけではない。小保方氏らの実験手法(プロトコール)によるSTAP現象も、大学院生に噛み砕いて教えるかのように丁寧にかつデータをもって明瞭に否定された。

つまり、STAP現象とキメラマウス実験のあいだに対立も何も存在しない。対立が存在するように書くのは誤りである。もし対立があると見えていたのだとしたら、それは幻である。STAP現象もSTAP細胞由来のキメラマウスもどちらも間違いであったことには変わりがない。どれをどう論文に報告しようがどちらも間違いだった。それだけのことである。

それゆえに、仮に小保方氏が「あの日」ー彼女が足を踏み外すことになった最初のそもそもの発端ーとして「キメラマウスのデータが入ることになった日」のようなものを想定しているのだとしたら、それは大きく間違っている。

STAP現象そのものが間違っているのが科学的真実なのである。キメラマウスの実験は小保方氏の誤誘導がなければ存在しなかった。だから小保方氏の「あの日」がいつにあるかを探るうえで最も重要な手掛かりは、小保方氏がバカンティ研究室でSTAP現象をめぐる研究の道を開いていったところ ー そこでいかにして彼女が「成功」したか ー の中にあることになる。

後編につづく)

文献

1)小保方晴子「あの日」(2015)講談社、東京

2)De Los Angeles A et al. Failure to replicate the STAP cell phenomenon. Nature. 2015 Sep 24;525(7570):E6-9.

3)Konno D et al. STAP cells are derived from ES cells. Nature. 2015 Sep 24;525(7570):E4-5.