科学を社会に伝える:「科学の翻訳家」の役割

翻訳という営み

筆者は大学学部生のときに 英文学専門家の米本義孝教授(1)の読書会に数年間参加するという機会に恵まれた。米本教授は当時ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」の翻訳と註釈づけを行なっており、定期的に日曜日に学生を集めて読書会を開いていた。その読書会は、丸一日つぶして進むのが1ページ程度で、一語一文の翻訳について、学生たちと米本教授両方が腑に落ちるまで議論していた。今から思えば、随分ゆったりとした時間が流れていたものである。

翻訳・解釈における米本教授のこだわり方には随分学ぶところがあった。教授はまずジョイスの英文をそれ自体として解釈するために、徹底的に情報を集めた。もちろん当時はグーグルもなければ電子版辞書など存在しない。OEDをはじめ幾種類かの辞書を机の上に広げ、ユリシーズの舞台であるダブリンの詳細な地図を調べ登場人物の足跡を丹念に追い、百科事典や専門の教科書を調べ、ときにはアイルランド人をつかまえて語感について尋ね、ようやく文の解釈を確定していった。

これだけで大変な作業だが、翻訳はこれで終わりなのではない。翻訳するからには、翻訳文は日本語である。会話ならば年代による言葉の使い方の違いだけではなく、田舎出身の登場人物には、日本語のどの方言をあてるのが原作の雰囲気をもっとも正確にあらわすかなどということまで議論したものである。擬態語は何が一番的確か、ジョイスの造語はどのような日本語の造語にすべきか、など検討することに尽きなかった。

つまり米本教授は、作品を理解し、登場人物の背景を知り、一語一語のイメージを十分つかんでから、さらには翻訳文にどのような日本語を当てるのが最も原作からみて適切かを考え出すのである。そこにあるのは、先入見なしで作品そのものを理解する努力である。

米本教授が特に嫌っていたのは、 他の学問からもちこんだ解釈を文章に押し付けることであった。当時の京都では、ジョイスの解釈となるとしばしばラカン派精神分析などが持ち出されるものだったが、米本教授はそうした姿勢を評価しないだけではなく、全く関心すら示さなかった。教授にとっては、 一文一文、さらには一語一語に込められた意味を理解することで、作品そのものをそこにある形で理解することが重要だったのだろう。

これらのことは翻訳に携わる人にとってはごく当たり前のことだろうが、米本教授が行っていたのは、異国の文化の中で異国の言葉で書かれた作品を、作品が持っているものを可能な限り漏らすことなく、もっとも豊かなかたちで日本語話者に届けるための努力であろう。これは決して些細な作業ではない。おそらく米本教授は、原作に照らして正確でありつつ大学生が腑に落ちて自然に読める翻訳文を目指していたのだろう。だから日曜日をつぶしてまで学生を集めて読書会をしていたのだろうと思う。

科学の翻訳家

英文学の翻訳の話を冒頭に語ったのは、科学を社会に伝えるという作業が外国語を翻訳する営みに大変よく似ており、いくつかの必要な要素が共通しているからである。結論から先に書くと、科学の文章は、たとえそれが日本語で書かれていたとしても、それは日常の日本語からみれば外国語といってよいほど隔たりがあるのである。

科学というものは、それぞれ固有の問題・対象(免疫学ならば、免疫にかかわる現象・臓器・細胞・遺伝子など)に特化した学問体系を発展させることで、より精密かつ有効に現実を知り、現実に働きかける術を手に入れてきた。認識と言葉は裏腹の関係にあるから、現実をより精密に認識するためにはそれ相応の特殊な用語を導入し、それにより論理を発展させる必要がある。これが日常用語で科学はできない理由であり、科学の書物が専門用語だらけで一般の人には難解である理由だ。

実際こうした専門用語とその背景にある特有の論理の集積は驚くほどの量であり、分野が少し変わるだけで、科学者同士といえどもお互いの話が理解できなくなるのは普通のことである。それゆえ、科学研究の内容を誰か別の人に伝える(たとえば講演で聴衆に伝える)ときには、可能な限りその聴衆が知らない専門用語(3)を使用しないようにする。これは科学を社会に伝える上で非常に重要な点である。

たとえば筆者が自分の行っている免疫学研究を、同業者の免疫学者に伝えるときには、気兼ねなく専門用語を使える。しかし、相手が大学生だと、免疫学を勉強している大学生だとしても、使える専門用語の幅は大幅に狭まる。そして、相手が生物学以外の研究者や一般公衆となると、専門用語を使えば意味不明になってしまうゆえに、専門用語を使うことは殆どできない。

科学が精密な思考のために専門用語を発展させたことは上に書いた。すなわち、ここで聴衆の知識にあわせて専門用語の使用を減らしていったときに、その講演の中で伝えられる思考の精密性は急速に低下してしまう。これが、専門家というものが一般公衆に向けて専門分野を説明するのが必ずしも上手ではない理由である。

ここに先端研究に特化した専門家と公衆のあいだをつなぐ人の重要性がある。この人たちは、いわば科学の翻訳家である。専門用語がぎっしりと詰まった科学を、日常用語に翻訳する専門家である。これは些細なことではなく、これ自体専門性がある任務である。

科学の翻訳家には、様々な職業的背景がありえる:科学の訓練を受けた科学ジャーナリスト・高等教育機関で科学教育を担当する教官・先端研究を行っている傍らで公衆に科学知識を伝えるボランティア的な努力を行っている研究者(4)といった人びとが、社会における科学の理解を深めるために日々努力しているのである。そのおかげで我々は様々な学問分野の知識を得ることができるのであり、これが社会のもつ科学的素養のレベルを維持するうえで重要な因子になっている。だから、こうした努力の重要性が、もっと社会的に評価されるべきだと筆者は思う(5)。

学会の意義

今日のように科学技術が複雑化しつつ日常生活により密接な関係をもつようになっている中で、科学の翻訳作業を限られた数の個人の努力にのみ依存するのには限界があるのもまた確かなことであろう。たとえば科学ジャーナリズムは、より計画的に大学とマスメディアが協力して育てていくべきものだろう(6)。

さらに今後は社会との関わりにおいて、科学者を代表する学会や、さらには大学・研究機関の役割はますます大きくなるだろう。英国では最先端研究を公衆に伝えること(public engagements)は、大学の基本的役割の一つと定義されている。ちなみに英国で興味深いのは、伝統的に、マスメディアを使った活動よりも、社会に直接入って市井の人々に科学を届けるための講演会やワークショップが評価されることである。そして日本でも学会主催の公衆向けのイベントなどは行われている。科学と現代社会の関係の複雑化が進む中で、科学の理解を広めるためのこうした地道な努力が始まっているのである。

一方で、本来的役割であるというのに日本の多くの学会が十分果たしていない役割は、科学者を代表する組織として社会に声を発し、社会に有効に意見を伝える力をもつことではないか。ここに不足があるとするならば、その学会は社会的な専門性を体現する機関としての役割を果たせていないのであるから、本質的な部分で形骸化していると言ってよいのではないか。

実際のところ今の時点で、科学者の声を集約して社会に伝える力を持っている学会がどれだけあるだろうか。原発事故後に社会にはたらきかけようとした学会もあったが、十分な効果を得られなかったのではないか。それは受け手の問題もあるが、学会が本来の役割を長いこと忘れて怠慢に陥っていた要素もあるのではないか。実際、責任分野で社会的に大きな問題が起きても沈黙し続けたままであった学会も多々見受けられる(7)。

学会の社会における存在意義は、科学者の存在意義と密接に関わる。今後科学的問題をめぐって社会的な危機が生じたときに、どんな社会的集団にも迎合せず、毅然として科学にだけ基づいた科学者の声をとどけ、それにより科学者集団としての使命を果たすためには、いまのままの学会・大学の状態ではやはり心もとない。普段から社会の問題について科学者集団代表として積極的に発言し関わって、問題解決の一助となっていくことで、危機の際に社会の人々がどれだけ耳を傾けてもらえるかが変わってくるのではないか。

註釈

1)米本義孝(1941-2011)。代表的な翻訳著作は、ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』(ちくま文庫、2008年)。本文中のユリシーズの解釈・翻訳作業は、『読解『ユリシーズ』』(小田基編)、研究社出版、1996年および『読解『ユリシーズ』』下、研究社出版、2004年6月16日として世に出された。故米本教授については、筆者が英国に渡った後に急逝してしまい、何ら近況報告すらできなかったことが悔いである。この場を借りて追悼の意を示すとともに、これまでの教えに感謝したい。

2)Oxford English Dictionary. もっとも権威ある標準的な英英辞書。

3)ジャルゴン(jargon)とも呼ばれる。つまり、どの言葉がジャルゴンであるかは、聴衆によって変わる。

4)放射線問題に関連してこうした努力を行い社会に貢献してきた大学人として、田崎晴明氏、菊池誠氏の名前をここであげるとともに両氏に敬意を表したい。

5)確認までに書くと、われわれ科学の研究者は、公衆向けに科学の知識の伝達をしたとしても、なんら学者として何ら公的には評価されない。それゆえに「ボランティア的な努力」と書いたのである。

6)大学側の取り組みとしては、京都大学藤原耕二教授らが数学と社会のコミュニケーションを深める目的で、数学のジャーナリスト・イン・レジデンス (JIR) プログラムという活動を行っており興味深いので、ここで紹介させていただくとともに、この問題について行った議論について藤原教授に感謝したい。

7)個人的には、たとえば耳鼻科学会に、放射線に関する鼻血問題について、毅然とした態度で医学的にありえないことはありえないと線引きをしてほしかった。