御用学者騒動論考:社会にとっての専門性の意味

英国は専門性を大変に重要視する国である:分業(Division of labour)が社会の効率性を高め、これが諸外国との競争における勝利につながり大英帝国の基礎を築いたという歴史への強烈な自覚を持つ国である (1)。つまり、免疫学者の私が、免疫学以外のことで何をしようが何ができようが、評価には全くつながらない。英国においては、社会が求める免疫学者の役割ー免疫学における研究・教育における使命ーを果たしているか、その地位を占めるに相応しい専門性と将来への展望があるかどうかだけが評価の対象である。英国社会からみれば、これは英国の科学技術レベルをさらに向上させ、それにより社会をより豊かにするための投資でもある。

昨年に連載記事「放射能恐怖という民主政治の毒」を書き出して以来、私がポスト・研究費のために記事執筆をしているという根拠のない中傷を何度か受けた (2)。実に馬鹿げているが、一部の人々はいまだにそうした煽りに騙されてやすいようにみえる。そしてこれ自体が、われわれの社会の未熟な点、さらにはひとつの病理を照らし出しているように感じる。

基本事項を確認するが、日本も含めて、科学の世界はブログ記事やツイッターの呟きを書いて職や研究費がもらえるような甘い世界では全くない。こんな自明なことを言わなければならないのは、やはり2011年に起きた「御用学者追放運動(パージ)」という異常な事態の余韻だろう。

学者パージ

2011年福島第一原発事故後に、行政の不透明さ・無能さに人々が不信を抱き、批判したのは当然だったと思う。しかしなぜか「御用学者」というレッテルを貼る動きが科学者・専門家全体に拡大し、本来的検証の動きを阻害した。御用学者騒動は人々の怒りを盗んだのである。

この「御用学者」叩きは、以前の記事で詳説したように、1)クリス・バスビー氏関連と思われる団体が「御用学者発言撤回訴訟」を準備、2)専門家を吊るし上げる「御用wiki」サイトの出現、3)匿名あらら氏らが「エア御用」という言葉で全ての科学者に対する不信を煽ったこと等に始まる。

もっともこの御用学者パージに関わった人々のあいだでは、自分たちが科学者・専門家全体を攻撃している意識はなかったことだろう。ごく一部の「専門家」は、「市民の側に立った人々」という、これまた根拠のない思い込みに基づいて喝采・歓迎される一方で、本来的な専門家や社会へ科学を可能な限り正確に伝える仕事をする科学の翻訳家とでもいうべき科学者たちは言論空間から排除されていった。そうして生まれた言論に真空空間に、クリス・バスビー氏やヘレン・カルディコット氏らに象徴されるようなきわめて政治的な人々が入り込み、そこに科学の衣をまとった似非科学を据えた。

この似非科学運動が結実したのが、震災地からの瓦礫の持ち込み・焼却に反対する瓦礫忌避運動である(放射能恐怖という民主政治の毒5:「真実を語る人」 とチェルノブイリの亡霊を参照)。そしてこの瓦礫忌避運動は、もともとが似非科学に依存していただけあり、科学的ではない放射線への恐れ=すなわち穢れとしての排除=そのものであった(3)。この運動は狭い日本を「穢れた被災地」と「穢れていないその他の地域」の二つに分け、そうして日本社会を分断した。

いまなおこのような幻影を標準と考え、誤った知識を科学と信じている人がいることは、実に大きな社会問題である (4)。

今から考えるとこれら学者叩きの動きは、まるで初めから社会の分断とデマの固定化を意識的に目指していたかのようである。放射線問題で、科学者・専門家が萎縮してしまうと、社会はその問題に対応する専門的能力を失う。全ての専門家に敵意と不信をもつことは、人々が自らの右腕をもぐ作業に等しかったのである。

社会における科学者

それでは本来、社会にとって科学者に存在はどういう意味をもつのだろうか。科学者にとって社会で生きていることにはどんな意味があるのだろうか。

そもそも社会からみれば科学者とは、我々の社会が科学的問題に対応する能力を持つために投資して育成した人材である。すなわち科学者は、科学的問題に対する社会の分業機能であり、社会の専門能力を体現する。そうした専門家全般への不信を煽ることは、社会の問題解決能力を麻痺させ、文明を退行させる行為なのである。長い歴史の中でようやく築かれ、社会が多大な投資をして日々維持している機能をみずからゴミ箱に捨てる行為なのである。

科学者からみれば我々は社会に恩義がある。自己の人生を科学の探求に費やす機会を社会からもらっている。我々科学者が権威主義にあぐらをかき努力を忘れてしまったら、科学者としての内実を腐らせ、自らの堕落によって社会の専門機能を低下させる。だから権威主義による怠慢は、社会に対する背信なのである。科学者は、それぞれの持分で科学者としての使命を果たさなければならない。

「博士」という言葉はまるで到達点のように思われることがあるが、実のところ科学者の一生にとって博士課程における修練ははじまりに過ぎない。科学者として大成するためには、独自の研究分野を見つけ作り出し、研究成果を出し科学の発展に寄与し続けることで世界の同業者内での評判(reputation)を積み、やがて学会内のリーダーとして研究を牽引する立場になっていかなければならない。これが科学者として地に足がついた進むべき道だろう。そしてこれは数十年かけてたどる道のりなのである。

原発事故で旧来の権威主義は死んだ。だがこれでよかった。我々が科学者として研鑽を積み道を極めるために権威主義は邪魔だ。今後の科学者は、科学の世界で自らの立場を確保するのと同じようにして、社会において自らの使命をまっとうする努力によって社会からの信頼と尊敬を勝ち取るべきなのだろう(5)。

こうした専門家と社会のあいだの健全な関係のためには、相互の信頼関係が必須である。社会にとっては、科学者を活用することで科学の力を使って問題解決に当たらなければならない。それができる社会になるために、科学の専門家を養成して、自らの右腕としていかなければならない。科学者にとっては、社会における自らの役割を自覚して、自分の持分においてプロの仕事をしなければならない。こうしてこそ社会は専門分化した機能を獲得し、より効率的に問題に対処できることになるはずだ。だから相互の信頼関係を崩そうとするものに対しては=それが専門家の側であれ、社会の側であれ=毅然とした態度で臨み、一線をひくべきところは迷いなく一線を引く必要がある。だからこそ私は「御用学者」というレッテルをはることで正統な学者を追放する誤った運動を、未開への退行として強く批判するのである。

註釈

1)たとえば英国20ポンド札の絵柄はアダム・スミス(Adam Smith)であり、そこにはThe division of labour in pin manufacturing: (and the great increase in the quantity of work that results) と書かれている。

2)たとえば、次のようなツイートを参照されたい:@jun_makinoおよびjun_makino氏への筆者の答え@onodekita,@cavu311

こうした動きは残念ながら予想されるものであった。それゆえ連載開始後まもない2015年1月8日に、筆者はツイッター上で次のように宣言している。「放射線問題の連載に関して利益相反事項で私が報告すべきものはありません。また、この連載執筆は誰からの依頼を受けたものでもなく、いま科学者として語るべきと考えることについて書いています。ブログはヤフーのサイトですがヤフー社もまたこの連載の内容について一切関与していません(@masahirono)」

蛇足ながら、これは今なお同じことである。

3)すなわち被災地のスティグマ化である。

4)この幻影は、連載記事「放射能恐怖という民主政治の毒」において「放射能おばけ」という言葉で記述した、放射能恐怖を煽る言説のことである。

5)ここで実際上重要になるのは、科学をどうやって社会に伝えるかという課題だが、これついては次回の記事で詳説したい。