放射能恐怖という民主政治の毒(終):問題の解決に向けて

一目置く

放射線・原発関連問題を解決するうえで必須の要素は、専門家を専門家として尊重することだと考えている。これは誤解されやすいが、専門家の経験と専門性そのものに対する畏敬であり、階級社会的な上下関係では決してない。そこにある人間関係はいたって平等でありながら、相手の専門性に一目置き、専門性とその背景にあるもの尊重することが、専門家を尊重することの中身である(1)。これは、その人の人格をもてはやすとか、社会的立場から目上と考えるといった上下関係の導入とは異なる。その専門家が社会の中で責務を負っている、社会の専門性を尊重するという意味でもある。

実は科学者自身、専門家に聞けるときには専門家に聞くのがすっかり習慣になっている。ときには小さな問題解決のため遠方まで専門家を探しに行く。それはなぜか。専門性の深さというものを知っているからだ。それは最先端の知識についてだけではない。基本的な考え方についてこそ、その道の専門家の意見を聞きたいと思うものである。それは基本的なものの考え方こそ専門性に基づいた知恵が重要と知っているからだ。

ひるがえって日本社会に住む市民としてのわれわれは、こういう専門性を、自分たちの社会の片腕であると自覚しているだろうか。そうであったとしたら、ここまで問題はこじれなかったのではなかろうか。

連続線

前回の記事で脱被曝を掲げ、過剰な放射線忌避を目的としていた反原発運動の失敗について書いた。「脱被曝系反原発運動を支持するひとのなかに、自分さえ逃げ切ればいいという現在の日本の中流階級に多々見られるエゴイズムが垣間見えたときに、反原発運動はまとめて幅広い支持を失ったのではないか。この反原発運動の失敗がゆえに日本社会は原発再稼働へ、政治的にはより右へと舵を切ることになったのではないか。(STAP事件の悲劇から反原発運動の堕落まで連なる糸)」

ここで強調したいのは、私は脱被曝系反原発運動が全ての失敗の源泉であり、ほかの立場が全て正しいと言うつもりはないことである。むしろ言いたいのは、一部の反原発運動が蒙昧にとらわれていったときに、周囲の反原発運動に携わる人々はどれだけその危険性に自覚的であっただろうか。党派性を優先して、少々のことは見て見ぬ振りをしなかったろうか。あるいは明らかにデマに聞こえるような話であっても、実は心の奥底でそのことに対する一抹の懸念をいだき、否定しきれなかったのではないか。

私はここで脱被曝系を排除できなかったゆえに反原発運動が全ての責任を負い非難されるべきだとも思わない。反原発運動を心よく思わなかった人々、原発推進を強く願っていた者は、脱被曝系反原発運動がデマと蒙昧にとらわれていくのを見て、自分たちの党派性ために小躍りして喜んでいたのではないか。願ってもいない攻撃材料が出来たと。そうした社会の亀裂と堕落が、ゆくゆく日本社会全体を蝕み沈没させていく危険に気がつかずに。あるいは確信犯的に、党派的目的で脱被曝系反原発運動のデマを煽った者もいるのではないか。

あるいは、何かできることがあったかもしれないのに、問題から目を背け、耳を塞いでいたのではないか。私自身は、何もしなくて害にならなかった人よりも、何かをしようとして失敗してしまった人の方に共感を覚える。

つまりこの問題で批判されるべきは決してごく一部の人だけではない。見て見ぬ振りをした人、こっそり加担した人、気がついたのに立ち上がらなかった人は、全て反省すべき点がある。これはちょうど小組織内でのハラスメント・いじめとおなじ構造である。(そして、震災直後から、憎まれ役になっても正論を貫いたごく一部の心ある人々は、もっと評価されるべきだと思う。)

ここで加害者と被害者が入れ乱れる。放射線被曝の被害を恐怖させる言説がネット上を飛び交う。その恐怖の言説が真実と信じ込み、不合理な人生の変更を強いられた者は被害者にほかならぬだろう。確かにそうした人が、その間違った判断において、さらにほかの人の人生を狂わせたかもしれない。しかしこのような状況で(その被害を煽った元凶の幾人かの人以外には)誰かを責める気になれないだろう。元はといえば原発事故がなければ、このような重大な社会問題は生じなかったのだから。

しかしだからといって、これは全員が責任がある、総懺悔しましょうといったような幼稚な問題ではない。経緯と責任は、問題ごとに具体的に明確にされるべきである。

福島原発事故を起こすに至った責任を明らかにする必要があるのは当然だろう。原発廃炉、周囲の放射性物質汚染といった問題は現在進行形である。これは多くの機関・人々が関わった複雑な問題であるゆえ、時間をかけて検証し、将来の事故を防止し、あるいはより効果的に制御するために必要な仕組みをつくっていくよりほかはなかろう。

一方で、相当数の人々が、避難生活の中で自ら死を選択している重い現実がある。こうした震災関連死の責任もまた明らかにしなければ、問題の再発を防げない。ここで御用学者騒動を煽って専門家への不信を焚きつけ反原発運動の頓挫に追い込んだ者たちに責任はないか。科学によらず党派的目的のために被曝被害を叫ぶことに耽り、自らを律せなかった脱被曝系反原発運動が状況を悪化させはしなかったか。

こうした科学技術をめぐる社会的危機にあって、科学者・技術者を代表する組織は十分にその役割を果たしたか。

社会にはびこっている問題を放置し、原発事故という物理的な事故を起こし、社会的な被害を拡大したのは、ほかならぬ我々自身である。何が問題だったのだろう。何が足りなかったのだろうか。

科学について語る

1年前に連載を始めたとき、この状況下で放射線について語るからには、原発問題に関して党派性のない立場ー原発反対派にも、推進派にも組さないーで語る必要があると考えた。それはちょうど、1市民としての党派性はあったとしても、科学論文を書くときに党派には組さないという専門家の矜持と同じである。

そもそも放射線問題について発言する覚悟を決めたのは、科学と社会、政治のはざまにある大きな空隙と、そこに巣食う病理について、誰も語る人がなかったからである。誰か他に語る人がいれば、それに任せたかった。しかしそれがいない以上、自分の専門と経験によってのみ語れるところを語ることを目指した。

私自身は免疫学者である。だから私が科学者を名乗り=専門家という立場で=放射線に関して語ることが許されるのは、科学の諸学問の学問的関連上、科学・医学一般の原理原則だけになる(2)。しかし放射線問題の文脈でこうした原則が語られることはなかったし、それでも意味があることと考えて書き始めた(3)。それだけのことである。

だからここで自信を持って言えることがある。私の一連の記事「放射能恐怖という民主政治の毒」に対して党派性があると感じた者は、自らが放射線と科学に関する虚偽の言説を標準に据えてしまっている=放射能おばけに取り憑かれてしまっている=可能性をよく考えたほうがよい。そして、なぜそう感じたのかを考えて欲しい。あなたがいま当たり前と思っている科学と原発についての世界観を吹き込んだのが誰だったか、思い出して欲しい。元をたどるとどこにその源泉があったのかを調べ直して欲しい。病理はそこに存在する。

科学の営みは中立である。それは、直接携わる科学者という個人的立場をも完全に無視し、努力を注ぐ科学者自身を助けることもしない、ときには破滅にも追い込む、冷酷で厳しい世界なのである。それを知っているから、科学者は、脱被曝系の科学の世界についての陰謀論に冷淡な態度をとる ー 話にならないのである。

科学を超えようとして未開に陥る

連載をはじめて気がついたのは、科学について理解している人が驚くほど少ないことである。大学でも文科系の状況はかなり深刻かもしれない。教養教育が随分昔から失敗していたことが考えられる。科学論・科学哲学は数十年遅れの科学像について語っており、さらに驚くのは、科学について語るのは彼らの特権と考えている人までいる。これでは科学についての理解が歪み、日本社会における科学の受容の質が下がっていくのも無理はない。そしてこれは理科系にも悪影響しているのだろう。科学者を標榜する人の一部にも無理解が広がり、頓珍漢な言葉が発せられる。

評論家は作品を理解するための案内役になりえたとしても、人々が創作した人の声に耳を傾けなくなったら、生きた人間が行う創作の伝統は途絶えよう。科学という営みについて知りたいならば、科学者に話を聞くことを避けて通るべきではない。

おそらくこういう倒錯した社会的状況を背景として、科学的問題において科学を超えようとする志向が生まれてくるのだろう。しかしこうした態度は間違っている。科学の厳密な方法論を適応できなくなることで道に迷う。いまあるような原発・放射線に関する喫緊の課題ほど、(たとえ周囲からは悠長に見えたとしても)厳密な科学的方法をとった調査研究が大事なのである。そしてそれに基づいて政策を論じるべきなのだ。

自分たちの状況は唯一無二の状況であると考えるのは、いわば思い上がったことである。人間のすることなど、往々にして前例がある。福島第一原発事故の前に原発事故は多々あったし、原発労働者の被曝事故もあった。原子爆弾による被害もあった。それゆえの学問的蓄積がある。これらを無視して未踏の領域だと考えるのは道を誤る一歩である(4)。

今の科学者たちが結論を出すよりも早く、「賢く」結論を出さなければ間に合わない、と考えている人もいることだろう。これは「超科学主義」とでも呼ぶべき態度で、これもまた道に迷う一歩である。科学は救急医療ではないのだ。梟が夕方にならないと現れないのと似たような悠長なところがある。しかしだからこそ科学はこれまでの歴史に基づいた蓄積を使えるのであり、科学として確実な答えを出すことができる。そして実はこの悠長な方法が最速最短なのである。

一足飛びに科学を飛び越えようとしても、その先にあるのは未開の落とし穴なのである。ウサギのようにその場の気分で軽やかに飛び上がっても、地道な蓄積を積む亀には勝てない。

終わりに

結局のところ長期的な問題の解決のために一番重要なのは、今の若者によりよい教育を行い人を育てることだと思う。しかしそれだけでは不十分だ。少し上の世代もまた、彼らに少々遅れても、置いてきぼりにならないように努力しなければならない。努力とは、科学と関係のない世界の人にとっては勉強することであり、知識を持っている人にとっては、それを惜しみなく社会に与えるということであろう。

連載をはじめてからちょうど1年の月日が流れた。これを区切りとして、連載形式での放射線問題についての試論は終了したい(5)。ここまで続けて読んでくれた読者の方々には深く感謝したい。

註釈

1)一目置くというのは絶妙な言葉である。囲碁で対局するとき、対戦する二人の力に明瞭な差があるときには、あらかじめ弱いほうが自分の石を対戦前に一つ(以上)置くことに由来する言葉である。その石を置いている限り、二人の対戦は互角とみなすわけである。

2)先端科学を社会に伝えるのも重要だが、今日の状況では大学学部レベルの基礎知識を社会に伝えることがそれ以上に重要なことになっていると思う。放射線関連で原理原則の基礎知識を学ぶための教材一つ勧めるならば、田崎 晴明氏の「やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識」を紹介したい。

人によっては、理科系の教科書そのものに慣れていない人もいるだろう。論説よりも会話形式のほうが読みやすい人ならば、菊池誠氏の「いちから聞きたい放射線のほんとう」もよいかもしれない。放射線についての基本の原則についてカバーしてあるようだ。

3)放射線そのものの先端知識についての疑問は、放射線の専門家に聞けば良いと思う。オンライン教材も、書籍も世にあふれている。それでも満足できず最先端知識を知りたい人は、大学院入学を検討することを勧める。

4)蛇足ながら、新しい問題には常に新しい要素が含まれるものだが、これをもって「未踏の領域」と考えてはいけないという意味である。

5)福島第一原発事故・放射線問題関連についての発言を止めるという意味ではない。放射線問題と他のさまざまな問題との関連が浮上してきているゆえ、同じ形式では書けなくなってきたという意味である。