STAP事件の悲劇から反原発運動の堕落まで連なる糸

原発・放射線問題の混乱とSTAP事件に関連があるというと荒唐無稽に聞こえるだろうか。しかし私はこの1年余り、二つの関連について考え続けている。

2つの事件をつくったもの

STAP論文がNatureに出版されたのはちょうど1年前、2014年初頭のことだった。STAP論文は、すでに原発事故によって自信を喪失し科学技術と科学者に対する不信がくすぶりつづけていた日本社会に、ほんの短い間のことであったが、大きな勇気を与えた。だからこそ、STAP論文は当時熱烈に社会に迎え入れられ、それがゆえに論文が瑕疵だらけのものであったことがあきらかになった時の落胆と混乱はあれだけ大きなものになったのだろう。

しかしいま私が書きたいのは、原発・放射線問題の混乱とSTAP事件の二つがたまたま時期が重なったというレベルの話ではない。

原発・放射線をめぐる問題で、反原発運動のために科学から程遠い流言・デマを基に頼ることを許すようなだらしない日本社会であったからこそ、STAPという馬鹿げた瑕疵だらけの論文騒動が笹井芳樹先生の自殺に結びついてしまったのではないか。私たちが今生きているような日本社会だからこそ、原発・放射線問題はこれまでのような経緯をたどって混乱に至り、STAP事件は悲劇に終わったのではないか。この2つの事件に共通するものはあるはずで、それは現在の日本社会の歪みと至らなさに通じているのではないか。

日本的科学社会の変貌

一方のSTAP論文が間違いだらけの論文であったことは、日本国内においてネット上において匿名アカウントが大きく貢献した調査により明らかになったが、ここでも活用されたのは緻密な調査であった。論文の図や文章の細部を丹念に調べることで、矛盾・盗用・捏造といった瑕疵が次々と明らかになったことは、STAP論文が取り下げになる過程を加速したことは間違いがない。

科学において緻密さはその重要な一つの柱である。日本の科学の伝統的な強さは、日本社会に広く根付いている緻密さと勤勉さだろう。これは特に遺伝子クローニングの時代にはそれは強みとして作用したと思う。

しかし、そうした緻密な研究を行うための障害が大きくなってきている。一番大きな問題は現在の日本的なラボ内での研究分業は、実質的な作業を第一著者に過剰に依存している。そして一流の研究室と呼ばれるところでほど、教授などのシニアによる指導・チェック機能は薄弱である。しかも、STAP論文のように幾つもの研究室が共同研究することで作成された。これは本来はマネージメントが難しい研究体制であり、今から思えば、その研究の一体性を確保する人が実質的に存在せず、第一著者が緻密な作業ができなかったとしたら、論文として体をなさないものになったとしても不思議はなかった。

こうして時代の変化のために、日本の強みであったはずの緻密さだけでは現在の生物学の世界では勝負できなくなってきている。誰もが中途半端な仕事をして、誰も研究全体を見通せず一体性を担保できないという事態は、実はそれほど珍しくないのかもしれない。

STAP論文が破綻した理由

しかしながら、緻密さは科学の全てではない。緻密さは原理原則を理論として理解した専門性の上に構築されてはじめて意味があるものだし、専門性は分野内の他の研究(さらには分野を越えた一般的な科学)との一体性があってはじめて強力な知識となる。

STAP論文は瑕疵だらけの論文であった。その欠陥は論文の内容の緻密な分析により明らかにされた。しかし、単なる矛盾や欠損だけでは論文は崩壊しない。STAP論文が取り下げになったのは、研究論文としての一体性を保てなくなるまで欠陥が見つかったからである。これだけで関係者にとって、研究者としては自分のことを許しがたい、自分の前で自分に対して屈辱的な状況であったと想像する。

研究の一体性は一つ一つの論文の中で保つものでもあり、また研究者の人生を通じて保たなければならないものである。だから研究人生の一体性というものは、研究者にとってかけがえのない蓄積であり、特に先端研究に挑戦する者にとっては、日々それを失う危険に晒されながら必死でようやく確保するものなのである。そして、自分の研究人生の一体性が失われることがあったとしたら、それはすでに研究者としての生命を失う危機ーそれはある種の誠実な人々にとっては肉体的な生命を失う危機と同じーであるといってよい。

論文作成はいうなれば常に新しいチームを編成して、その中で毎度新しい競技をするようなものである。たまたまあるチーム編成で行った競技が欠陥だらけであったからといって、その監督の全人生を否定するような社会の姿勢は正しいものだろうか。

2014年春の笹井教授の記者会見、さらには同夏のNHKによる不当と言える特集番組は、科学者としての笹井教授について幾ばくなりとも敬意を払ったか。否である。また我々科学者は、たまたまのSTAP論文にあった欠陥の原因を謎解きするあいだに、笹井教授ひいては科学者社会全体にしのびよっていた大きな危機に自覚的であったか。否である。そしてSTAP事件をニュースの受け手である日本社会のすべての人々は、科学論文についての報道が科学についてではなく、STAP論文作成チームの人間ドラマ作成に勤しんでいるという堕落して恥ずべき状況を批判したか。否である。この中の誰が、笹井教授の研究人生における経験と専門性について積極的な評価を行ったか。否である。こうして我々が至らないからこそ、STAP事件は悲劇で終わったのではないか。

反原発運動の失敗

原発・放射線は本来は科学的事実に基づいた社会的議論を行うべき問題であることは自明だろう。だというのに、反原発も原発推進運動も、科学よりも立場を重視し、あまりにも為にする言論を多用し過ぎたように見える。この不毛な争いのあとに残ったのは人々の不信とニヒリズムという荒れ地である。

しかしそれにしても脱被曝という放射線被曝の危険性を過剰なまでに唱える一部の反原発運動が流言・デマに頼ったことは目に余った。運動が自分たちの望むことを言ってくれる偽りの「真実を語る人」たちに頼ることで迷走をはじめた。そして本来力になったはずの良心的な科学者を御用学者として排斥する運動まではじめたときに、正しい科学知識による言論の修正の可能性は閉ざされた。

さらに脱被曝系の反原発運動は、反ワクチン運動など非科学的な態度で科学に基づく医学を否定する反近代医学に接近し、偽りの左翼の仮面をかぶりつつも反科学・反近代の姿勢に傾斜していった。

問題はそれだけではなかろう。脱被曝系反原発運動は非科学的根拠で避難を叫んでも現在福島にいる住民を具体的に助ける努力はしなかった。それどころか差別意識を隠さない葬式デモを許した。偽りの「真実を語る人」たちが煽った瓦礫受け入れ反対運動という、科学的根拠がないだけではなく、穢れ意識に基づいた差別を助長する運動に肩入れした。党派をこえた近代的な連帯をする努力もしなければ、困ったときには助けあうという日本の伝統的な形での連帯の意識すらなかった。

そして、脱被曝系反原発運動を支持するひとのなかに、自分さえ逃げ切ればいいという現在の日本の中流階級に多々見られるエゴイズムが垣間見えたときに、反原発運動はまとめて幅広い支持を失ったのではないか。この反原発運動の失敗がゆえに日本社会は原発再稼働へ、政治的にはより右へと舵を切ることになったのではないか。

専門性とは何か

ここで反原発運動にみられた放射線問題における混乱は、緻密さをめぐるSTAP論文検証と表裏の関係にある。

まずは原発事故そのもので科学政策への不信が高まったあと、科学者・専門家を御用学者として切り捨てる運動が盛んになったことで、専門家への信頼が決定的に毀損した。その中で、緻密な作業そのものは全体像を知らなくても可能であるため、枝葉末節の論文の切れ端を覚えてそれで分野全体を理解したような気になった者を多々見かけるようになった。

枝葉末節は断片以上のものではない。どんなに断片で博学になっても、原則から理解して理論と実践を知るものにはかなわない。だから断片的知識から頓珍漢なトンデモ言説を吹聴してまわっても、科学的事実は歴史の上で動かないし、世界は日本語の言論とは無縁で進行していく。そして日本だけが取り残されていく。

実は科学者になるためには、頭の良さよりもむしろ長期間問題意識を継続できるかが重要である。ようするに同じことを10年、20年と続けて毎日必死で考えられるかどうかが大事なのだ。

そうして長年考え続けることではじめて細部の微妙な色合いから分野の鳥瞰図まで見通せるようになり、底辺を流れる原則を会得できるものである。専門性とはそういう密度と時間で築かれている。素人の思いつきとは比ぶべくもない。この基本的なことが今の日本では忘れられているのか、あるいはまだ十分に理解されていないのだろう。

にわか発生生物学者とにわか放射線生物学者が雨のあとのキノコのように現れて、真摯に仕事をしようとする専門家を磔にする。言葉じりの細部にこだわって追放運動や死刑宣告をする。これは正常な近代社会なのだろうか。

ひょっとすると専門家への敬意などというものは最初から存在しなかったのかもしれない。存在したように見えたものは権力を持った上流階級(お上)への敬意だけだったのだろう。専門性に対する本当の敬意は、独立した個人の人格と専門性に奉じる人生の意義を認めてはじめて生まれるものなのだから。

荒れ地に水をやって木を育てるように時間をかけて、専門性への敬意・専門家としての自覚と責任の両輪を社会の中に育てていく必要があるのだろうと最近感じる。

社会のために

こうして流言・デマでも自分の立場のために許容してしまうようなだらしない日本社会だからこそ、STAPという馬鹿げた瑕疵だらけの論文騒動が笹井芳樹先生の自殺に結びついてしまったのではないか。つまり、科学者が科学を社会のものとする努力をしなかった怠慢と、科学を受験勉強で暗記する科目以上のものに捉えなかった人々の未熟さが、今の日本社会のような、科学についての理解が乏しいだけではなく、専門性についても無関心で、最低限の線引きもできないたるんだ社会を生んだのではないか。

日本社会底が抜けてタガが外れたところがあちらこちらに目立つが、こうした基本的なところから社会の中に価値観を育て、草の根から豊かにするための地道な努力が求められているのであろう。

だから、科学知識が人々の生活に深く関わっているこの複雑な世の中に生きる以上、科学者は語り続けなければならない。こうした努力がすっかり荒れ地となったこの社会をもっと豊かで強いものにするのだろうと信じて。そしてこれ以上無駄な犠牲者を出さないために。

終わりに

笹井教授が亡くなってしまって一年後のこの年末にあらためて事件を記憶にとどめるために、当時筆者が書いた追悼文を再度掲載したい。

科学者の死

たった一人の男の死体に ごそごそと群がった人々は

殺したのは誰? と口々に騒いだ。

僕が自分で殺したのだと 死体の君は か細い声で言った

その瞬間、ここぞとばかりに 

息の荒いため息と シャッター音が

やかましく鳴り響いた。

挫折を知らなかったからね、と羨んだ声が言った

最近疲れていたようだから、と物知りぶりな声が付け加えた

我々の行動のせいだったかもしれないね、と神妙な声が反論した

しかし皆がしめしあわせたように 乾いた目で無理に口元だけへの字に結んでいた

必死で笑みを 抑えるかのように

そして彼らはそそくさと 次の獲物を探しに出かけた。

しかし 私は知っている

科学者の君は 殺されたのだ。

君はどこまでも長く真っ暗な科学の回廊を歩き続け

六道を渡り 修羅の世界を生き抜いてきた

いったい世の中の幾人に これだけのことができるか?

だから私は知っている 

君を殺すことができたのは 弱いもの以外にはありえないと。

危険が迫ったとき 皆、逃げ足だけは早かった。

口ごもった無意味な呟きが飛び交い

ある者は 言葉の剣に頼り

また別の者は 責任は無いといいながら雲隠れした

詭弁を弄すことを厭わず、理性が無いことを恥じないものは 見境なく逃げた

皆自分が助かることしか考えなかった。

そして君は陸の孤島に残った。

それはたった一人の科学者としての宿命だったのかもしれない

草一本すら生えない 荒野の中で

全ての人の内なる敵に 君は一人きりで臨んだ。

この狂った社会では

目を見開いてなお正気でいることは あまりに難しい

知性の光は 蒙昧の暗がりに隠れ

科学の力は 迷信の網に絡めとられ

人間の誇りと尊厳は あざ笑いの音にかき消される。

君は死んだ。

優秀な頭脳が 低劣な情念に破れた。

これは 一人の科学者の敗北ではない

科学者そのものの敗北であり 理性の感情に対する敗北だ。

しかしそれでも この戦いは終わらない。

君がこうして殺されたことを 私たちは忘れない。

理性が感情に打ち勝ち

知性が蒙昧を晴らし

科学が迷信を一掃し

人間の誇りと尊厳を取り戻し 下劣な笑いが恥じ入って消えるまで

私たちは 戦いをやめない。

追悼 笹井芳樹先生に捧ぐ

2014年8月7日掲載の筆者記事より転載)