放射能恐怖という民主政治の毒(9):放射能おばけとは何か(1)

忘れられたこと

かつて日本で医師として働いていた頃、70歳前後の男性が顔に最近でてきた「できもの」を心配して私の外来に来たことがある。

その男性の顔に小さく2、3個できている茶色くて表面の少し硬いその「できもの」は、何のことはない、歳をとれば誰にでも出るような「老人性のいぼ」(1) であった。私はそれが良性のできもので全く心配いらない旨を簡単に説明し、カルテを閉じようとした。

ところが男性は椅子を立とうとはしない。私が少々戸惑って彼のことを見ると、その男性はおもむろに、ひとつひとつ言葉を切りながら、こう言った。

「先生、これは原爆と関係がありますか?実は広島で被曝したんです」

これはもう10年以上前の出来事だが、そのときの男性の真剣で、しかも少し疲れた目が忘れられない。原爆による被曝から半世紀以上の時間が流れてもなお、何の変哲も無いできものができたときでさえ原爆の影に怯えなければならないという人生を、私はいまだに十分に想像しきれない。おそらく彼は、これまで経験した他のすべての病気についても、その都度同じように、病気が原爆のせいで起こった可能性を考えなければならなかっただろう。そこにあるのは 底なしの不安、さらには静かな無制限の恐怖である。

もちろん、原爆から何十年もたって現われた、ごく普通の「老人性のいぼ」が原爆と関係する可能性は医学的にない。この「線引き」は可能だ。だから、私はその外来で「線引き」をした。彼のできものは、原爆とは無関係だという線引きを。 そのときはじめて男性は笑顔を見せてくれた。まるで憑き物が落ちたかのように。

原爆は、当事者ではない者たちには容易には想像できない不安と恐怖を被曝者に与えた。彼らが残してくれた社会への教訓と知見を、我々は決して無駄にしてはいけないと思う。

線引き

広島の男性の話から我々が得られる教訓は、合理的ではない無制限の恐怖を当事者に与え続けてはいけないということだろう。もちろん医学ではまだ不明なこともあるがゆえに、状況によっては危険性があるのか無いのかの「線引き」が容易ではないことがある。しかし、医学は危険を叫ぶためだけに存在するのではない。線引きが可能な時に合理的ではない理由で線引きを躊躇することは、危険性があるのにそれを伝えないのと同じように戒められるべきである。専門家の使命と役割は、こうして両側が断崖であることを知りながら、その真ん中に敢えて立つところにある。

問題は無制限の恐怖である。福島第一原発事故に伴った放射性物質の汚染について最高度の慎重論を持つ者であっても、当事者である福島の住民、ひいては日本のすべての住民に対して無制限の恐怖を与えることは百害あって一利ないことは認めるだろう。恐怖を感じること自体が悪いのではない。恐怖を合理的ではない理由で無制限にすることが問題だ。そして、それは理性的な判断を失わせ、本来重要な問題を逆に覆い隠し、人々の対話を阻害する。こうして民主政治は機能不全となり、問題解決が遠のいていく。だからこそ問題なのだ。

実は外界の脅威に対する恐怖を無制限にさせないためにこそ科学が存在するといっても過言ではない(2)。科学的方法でその脅威を評価すれば、ある一定の領域に恐怖を閉じ込めることができる。閉じ込められた恐怖は感情に訴える力を失い、理性的に扱える「心配」の次元まで消退する。「心配り」をする必要はあるが、「恐れおののく」必要はない。

いま、福島の放射線問題は、無制限の恐怖を人々に与え続けている。そしてその恐怖は非科学的なデマを伝って人々の心に忍び込んでいる。今必要なのは「線引き」であり、そしてこの非合理的な恐怖を与える存在が何者か、その正体を暴くことである。

本当の名前

いまの世の中には放射線問題に対する感情的な反応は強い。漠然とした不安、切迫した危機感、特定の個人・団体・組織への怒り、さらには社会全体への反感など、立場によって様々な異なった感情がある。そうした強い感情を引き出すことを恐れて、放射線問題について語るのを避ける人々も多いようだ。

しかし福島第一原発の原発事故という大きな問題に対応するためには対話が必要だ。立場の異なる人々が、感情的な垣根を越えて理性的な言葉を交わし、自らの立場を正当に主張しあった上で合意をなし、その合意に基づいて社会で協力しあって難題に取り組まなければならない。しかし、この過程を妨げているものがある。それは一体何か。

今の社会に放射線をめぐる混迷がある。その混迷に分け入って中心から社会を眺めると、どちらの方向にも放射線に対する隠れた、あるいは露骨な恐怖が見える。恐怖は絶望を与え、絶望は日本社会の将来に対するあきらめとなり、理性的な思考を麻痺させ、人々の対話を阻害して、民主政治への毒となる。

だからこそ、放射線にまつわる恐怖を人々に与えている「その存在」を言語化し、それにより人間の手の中に捕まえて、その正体をつまびらかに暴く必要がある。そのためには、まずその恐怖を与える存在に適切な名前を与える必要がある。

「その存在」は放射線に対する曖昧かつ不適当な理解による幾多の言葉(デマ)に支えられいる。しかし個々のデマそのものではない。もちろん、「その存在」は科学の営みで常に生まれる誤った仮説(3)とは全く異なる。

「その存在」はデマを介して広域に住む幾人もの人々の感情に取り憑き恐怖を与える。本来デマは正確な知識の伝達により修正されるものだが、常に新しいデマが生まれる中、「その存在」は消えることがない。つまり、「その存在」は偽物でありながら、正確な知識に対抗できる抵抗性を身につけている。そしてその抵抗性の主たる成分は、正確な知識の供給源である専門家および科学者全般に対する不信の言説である。

「その存在」は放射線に関連した存在で、しばしば科学の白衣をまとうが、科学とは無縁の存在である。よって、それに与えるべき名前には、科学的言説では使われなくなった、曖昧な単語である「放射能」を冠することが妥当であろう。

「その存在」は人に無制限の恐怖を与える存在である。しかし科学の言語で一線を引くことができれば、恐怖は狭い領域に押しこめることができる。押し込められ閉じ込められた恐怖はもはや無制限の恐怖ではなく、理性による対応が可能な存在に落ち、やがては普通の心配りで十分対処できるものになる。

つまり、「その存在」は恐怖を与える主体でありながら、正体が暴かれれば消散する存在である。これは古代から日本人が自然の中にある存在を「おばけ」と呼び親しみ、かつ恐れてきた存在にほかならない。

こうして「その存在」が持つべき名称は「放射能おばけ」となる。

民話において多くのおばけが正体を暴かれたり、本名を見つけられてしまったら消散したように(4)、こうして問題を起こしている存在に名前を与えることは、問題解決のための重要な一歩となる。

実際に名前を与える作業は民話の中だけではなく、現代の医学や科学においても極めて重要な作業である。たとえば、ある病気がまだ全くの正体不明だったときには、それに対して多くの人が共同作業で対応することはできない。だが、ある科学的方法で一定の症状をもつものをくくって新しい病名を与えると、医師・研究者の個人の努力だけではなく、離れたところにいる多くの人たちが直接・間接に協力しあって問題に対応できる。これは分業による精密な調査と分析を可能にし、やがてその病気の原因(たとえばウイルス感染)を明らかにして、根本的な対策が立てられるようになる。

別の言葉で言えば、ある存在が曖昧模糊としてとらえどころがなくても、その存在に本質的で最も即した名前を与えれば、その存在をより正確かつ深く同定できるようになり、より緻密な分析を可能にする。

放射能おばけの正体を知ることができれば、白昼堂々社会を闊歩しているこの存在を退散させ、そうした存在に相応しい場所まで後退させられる。そうしてこそ、人々の間の理性的な議論と幅広い社会的合意の可能性を取り戻すことができよう。

文献・注釈

1. 医学用語では脂漏性角化症。

2.放射能恐怖という民主政治の毒(7)科学者の一分(中編)

3.放射能恐怖という民主政治の毒(8)科学者の一分(後編)

4. たとえば、民話において「船幽霊」は、漁師に厄介な存在だが、特殊な道具(縄の輪や穴)で見て、その幽霊の正体を暴いてしまえば害はないという。