放射能恐怖という民主政治の毒(8)科学者の一分(後編)

科学の発見の現場では幻=間違った仮説=はいつも生じ続けている。昨年STAPという幻に大騒ぎした人々の心性には何か問題があったし、その問題は無くなっていない。だからこそ放射能おばけが未だに闊歩している。

大学院の意義・科学の発展の現場

科学は知識だけで置いておくと死んでしまう存在で、絶え間ない発展が必要不可欠なものだ。だから、科学教育の最後の段階、大学院博士課程においては、すべての学生にこの「科学の発展」を実践させる。

小中高から大学の学部までは、科学の学習は完全に安全な領域で行われる。この段階での科学の風景は、平坦で揺らぎのない、円板状のようなものに見えるであろう。ある領域から先はわからないかもしれないが、その内側の円盤内のことは全て分かっている世界である。そしてこの最も確からしい科学の知について、学生は「学ぶ」。ここまでは、科学という訳語は実に適切に見える。物理・化学・生物・地学といったいろいろな科目を学ぶ過程なのだから。

しかし大学院博士課程に入ったとき、すべての学生は、これまでとは全く異なった科学の世界にいきなり放り込まれることになる。揺らぎない平板に見えた科学の世界が、実は比較的硬い地盤から蜘蛛の糸のような柔らかく脆い場所までまだらになった、真っ暗な真空空間に浮かぶ白い網目状の構造物であることに気がつく。ここでいう硬さは、科学的確からしさに相当する。ある理論は多くの証拠に支えられてより確からしいし、別のものは単なる作業仮説でしかなく、いつくつがえってもおかしくないものである。

大学院で学ぶことは、そのやっと歩ける足場から、不確かな場所に向けて半歩だけ足を踏み出してみることである。そのためには、自分の踏み出した足の下を研究して証拠で補強していかなければならない。方向によっては見当違いで補強しようがないのだから、試行錯誤が必要になる。また、一見硬い地盤を掘り下げて、本当に揺らぎない場所なのか検討しなおす必要がある。つまり、既存の知識や了解事項を疑わなければならない。

この作業の中では、毎日のように幻(間違った仮説を正しいと思い込むこと)が出現する。大学院の教官は、その幻が、ほとんどの場合、実験の比較の間違いや、測定のミス、データ解析の間違いに起因することを知っている。教官は日々、こうした幻を払って歩かなければならない。これは大事な日課で、幻は放っておけば放って置くほど退治が難しくなる。

大学院を無事終えると博士になる。この次は、職業的科学者の段階である。ここで科学者は自分の人生を賭けて、その真っ暗闇の自然の現実に向き合う。そして毎日、自分自身でつくりだした幻を自分で退治しながら、道を少しずつ作っていく。この作業は気が遠くなるほど長く、根気のいるものである。

科学者として新しい発見をしていくためには、大御所の意見であれ、学会の多勢の常識であれ、教科書に書いてあることまでも、鵜呑みにせずに、その学説・理論と科学的証拠(実験データ)の間の関係について丹念に検討する必要がある。また、現在の知に潜む欠陥を見通すためには、既知の科学知の構造についての豊富な知見を兼ね備える必要がある。こうしてはじめて問題は発見されて、そしてその後に解決されうる。つまり、科学の発展は、現実そのものについての知でも、学説の集合体でもなく、その間の関係性をとりもつところに存在する。

幻を社会に放流する:STAP騒動の原因

科学雑誌に幻が誤って発表されると、この幻を取り除くために他の科学者が相応の無駄ともいえる努力をしなければならなくなる。だから、すべてのまともな科学雑誌は査読(1)という過程を経る。論文を雑誌に掲載するかを、同じ分野の別の研究者が批判的に読んだうえで決定するという過程である。ここで疑念のある点は、具体的に指摘されて、著者はその指摘に真摯に対応することが求められる。査読システムにも問題はあるが(2)、それはむしろシステムの不完全さによるもので、現在のところ科学論文の品質管理をして、無用に幻を流通させて分野を混乱させないためには必須の過程である。

査読を行うとき、その論文にあることの全てを自分が知っていることはありえない。そのような論文があったとしたら、それは既知のもので、論文報告する必要がないのだから。だから査読者は、いつも少しだけ自分の専門とは違うものを読み、批判する必要がある。そして、自分の持っている学説で批判するのではなく、学会の標準的言説に基づいて論文を批判的に読む。そこで審査するのは、方法に間違いがないか、実験結果の解釈が妥当か、分野の全般的な知識、科学全般の常識に照らし合わせて、その新しい学説に内部的な一体性があるか、といったことを(これらが絶対的な条件ではないが)批判的に検討することになる。

それでも幻を取り除き切ることはできない。しかし学会内に放流されてしまった幻は、数年のあいだに淘汰されて消滅するものなのだから、科学界の中に幻がとどまっている限りは科学者はそれほど心配はしていない。

しかし、こうした科学の営みと切り離して、産物である知識の部分だけを科学の外の社会に送り出すときには、相当な注意が必要なのである。それにもかかわらず、最近の科学の成果主義は、科学者にこの本来的に困難である難題を押し付ける。

ここまで書くと、STAP騒動がなぜ起こってしまったのか、一つの避けがたい構造が見えてこよう。科学の営みの中で幻は生じ得る。それを退治しなかったのはミスであろうが、もともと完全に避けることは不可能である。その幻を膨らませて社会に放流してしまった。それに対する批判はあってもよいだろうが、科学の発展の現場がどういうものであるか知っていれば、科学の精神とは何であるかを理解していれば、この問題は大騒ぎするほどのものではない。

結局、幻に大騒ぎした人々の心性には何か問題があった。そしてその問題は無くなっていない。だからこそ、放射能おばけが闊歩できるのだと私は考える。

私が放射能おばけをおばけと呼ぶ理由は、これが科学の発展過程で必然的に生じてくる幻ではなく、この科学と幻との関係を悪用して、意識的に生み育てられたと見るからである。ただの幻=間違った仮説=ではない、初めから人を恐怖させるために生み出された思念は、おばけ以外の何物でもない。

次回は、「放射能おばけ」の特徴を分析し、それが人工的な産物と考えられる理由と、おばけ退治に必要なものは何かについて考えたい。

文献・注釈

1.ピア・レビュー(Peer review)ともいう。Peerとは業界の同業者のこと。

2.小野昌弘.STAP問題で明らかになった科学評価システムの制度疲労 (中)形骸化してきているNatureら有名雑誌の論文査読システム. ハッフィントンポスト、2014年04月22日