放射能恐怖という民主政治の毒 (1)放射線と政治

今の日本には白昼堂々おばけが歩き回っている。放射能おばけというおばけが。おばけは人々に恐怖を吹き込み、恐怖は毒となって社会の全身を巡り、放射線問題の解決を困難にするばかりか、民主政治を麻痺させている。

1. 放射線という政治問題

最近日本の知人が持ってきてくるおみやげは九州産ばかりだ。こんなものまで九州産があるのだ、と驚いてしまうことも多い。こういう商品がよく売れるということは、実は放射能汚染に不安な人が多いのだろうか。

今日でも、ツイッターやFacebookのタイムラインには、 しばしば事故直後の放射能汚染地図が顔を見せる。緊急時の情報と現況が混同されて伝えられる。おそらく、ときどきは素朴な間違いで、ときどきは意図的な混同なのかもしれない。

昨年には、一漫画が福島での鼻血を描いたというだけのことで、閣僚から地方自治体までうろたえて声明を出す事態にも至った。

一方で「福島は収束した、制御下にある」という安倍首相の言葉や、原発再稼働に向けた大きな動きが日々伝えられる。

いったいどうなっているのだろう。これだけ混乱した言説を見ていると頭が割れるような感覚すら覚える。どれが現実なのだろうか。

ここで確実に言えることは、放射線問題は政治問題であるということだ。つまり社会的立場・考え方によってこの問題に対する解答が異なりえる。これは単純に電力会社との対立や、御用学者云々について述べているのではない。またこれは放射線問題の科学的側面を否定するものでは全くない。私が言いたいのは、現実がこれほど混迷していて、また科学が唯一の解答を与える存在ではない以上、社会で関係する人たちが集まって知恵を絞り、科学者の助けを借りながら議論をして、幅広い合意をつくるという喫緊の必要があるということだ。

福島原発事故の規模は大きく、 多額の国民の税金と多くの労働力を投入して、何十年という時間をかけて解決しなければならない。つまりすべての国民が、直接・間接に福島の放射線問題に関わらざるをえない。放射線問題は科学的な問題でありながら、科学をこえて国政の重大課題である。

2.放射能おばけ

ネット上には放射能おばけがいる。「どんなに少ない放射線でも人体に影響がある」「放射性物質は人体に入ったら内部被曝として二度と出てこずにいつまでも細胞を破壊しつづける」「内部被曝は少ない量でもやがて白血病・がん・先天奇形を引き起こす」「東京の汚染は深刻である」ー誰しもこうした記事や警告を目にしたことがあろう。

科学的知識が十分でないままこの考えに取り憑かれたら、大抵のひとは低線量放射線および内部被曝に対する無限の恐怖を持ってしまうだろう。そしてしばしばこうした危険を煽る文章は、グロテスクな写真とともにばら撒かれる。

しかし少し冷静に考えれば、ほとんどの人に影響を与えないレベルで決められた法的上限値より小さな放射線被曝量で、こうした過酷な障害が多発することはおよそ考えにくい(特に、公衆の被曝量は、原発労働者のものよりも低く設定されていることに注意)。なぜなら、放射線による生体効果は閾値(しきいち)がないとはいっても、物理的作用である以上、基本的にはより少ない量ならば、多い量に比べればより安全であるはずだからだ。年齢や妊娠による感受性の違いは存在するが、それらを考慮しても、現状は過剰なまでに恐怖を煽るような状態ではない (1)。

ここで私は、内部被曝や低線量放射線の影響を否定しているのではない。これらは科学的に調査・検証されるべきものである。ところが一方で、こうして見えないものに対する恐怖を植え付け、ひとの感情に取り憑く力をもったこの思念は、「おばけ」としかいいようがない。しかも、このおばけは人を驚かすだけの良性なものではない。国民が正当に参加するべき政治プロセスから、恐怖の力で人々を追い出し、また人々のあいだの理性的な合意を妨害している。そうして、全く奇妙なことに、このおばけのせいで放射性物質による汚染問題がかえって混乱し、解決が遠のいている。だから私はこの思念を「放射能おばけ」と呼ぶ。

もちろん、外部・内部被曝とも、 十分注意する必要があるものであり、不必要に晒されることのないようすべきだ。そしてこのように薄く広く放射性物質が撒き散らされた以上は、この汚染による影響がないか、注意して観察するべきである。しかしそれは、あらゆる放射線を過剰に恐怖して被曝の無い「完璧に清潔な」世界だけを求めて他を拒否することとは違う。

目の前にある現実を否定することは、一種の心理的な逃避機能であろう。しかし問題が存在する以上、否定しても否定しても、問題はますます大きくなって自分たちの元に帰ってくる。福島原発事故は起きてしまった。 原子炉は破損してしまった。福島第一原発施設内は高度に汚染されてしまった。一部の周辺地域で避難や除染が必要な汚染が必要になるほど、放射性物質は撒き散らされてしまった。これらは、どんな政治的立場であっても、認めざるを得ない、否定することのできない事実である。

この現実を受け入れた時、われわれが考えるべきことは、現在の問題に対する最適解をいかにして見つけるかだということがようやく見えてくる。この大問題を誰も一人で解決できない以上、社会の幅広い人のあいだで合意を形成することが致命的に重要だ。しかも、いくら国中の人が集まって考えたとしても、予算・技術・人的資源にも限りや限界はあるのだから、どういう作業手順で、どのようにして問題を片付けるかを、数字に基づいた政治的交渉で理性的に決めなければならない。総論としては、無茶ではない程度に最善を尽くすということになるだろうが、詰めるべき各論は山のようにある。

この作業をするためには、社会における関係者がなるべく幅広く話し合いに参加して合意事項を作っていかなければならない。ところが実際にはみな自分の仕事があるわけだし、日本は大きな国なので、全員がそういう作業に直接参加することは現実的ではない。しかし幸い日本は民主主義だ。国民が選挙で代表を選んで議員を議会に送り、議員同士の話し合いでこの合意を間接的に行うことができる。また関係団体(企業・学会・NPO)などを通じてその話し合いに間接的に影響することもできよう。あるいは行政が積極的に国民の意見を求めたり、政治参加を求めることもあろう。

3.おばけが吹き込む毒

こうして人々が助け合って新しい公共の仕組みを作り上げるべき時に、おばけが社会に毒を吹き込んでいる。見えないものに対する恐怖をかきたてて、人をこうした政治的なプロセスから脱落する方へと追いやろうとしている。

数は少ないだろうが、「日本は終わった」と国の先行きに大きく悲観している人は、問題解決のための地道な作業には参加する気もおきないだろう。行政・科学者・医師らの言うことを全く信じられなくなった人もまた、話し合いに参加することができない。どちらも底にあるのは、深い絶望である。

また、被曝恐怖は、市井の人々と、 原発の技術者・労働者とのあいだに溝を作る。普通に人々が暮らしている場所での被曝(公衆被曝)に過剰なまでの恐怖を持っている人は、福島原発施設内で働く原発技術者・労働者の被曝問題に目を遣ることはできない。原発で(法定限度内でも公衆と比べて)相当な被曝をしながら働いている人の目には、微々たる公衆被曝に大騒ぎしている人々は自分たちの存在を無視しているように映ろう。原発技術者・労働者こそが、危機の前線で国民を救うべく働いているというのに。今後少なくとも30年かかると言われる原発の後処理のため、原発労働者は相当な延べ人数になることが予想されるというのに、まるでこの問題はなかったかのような静けさである。

逆にこうした恐怖を感じないために、放射線問題がはじめから存在しないことにしてしまった人も多いかもしれない。これは恐怖にさらされた人間の正常な反応であろう。しかし、こうして自己防衛機能で一時的にしのいでも、その発端が理解ではなく恐怖にあったならば、現実の中で実際に放射線問題が解決されない限り、やがて問題は表面化する。また、こうした人々は、目をつむり耳をふさぐことで、やはり正常な政治プロセスから脱落する。

こうして低線量放射線による障害について、科学的証拠に基づかずに、科学的検証不能な方向で危険を叫ぶことは、理性的な合意を妨げる(注:これがおばけの見分け方である)。実のところ、これは目新しいことではない。2001年にイギリスの内部放射線被曝リスク調査委員会は、全く同じ問題で紛糾し、停滞した。次項ではこのイギリスの経験に学んでみたい。

放射能恐怖という民主政治の毒 (2)英国の経験に続く)

文献・注釈

1. 一般向けの放射線知識の入門本としては次の資料を勧めたい。田崎 晴明やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識