山形県の南部の置賜地方に「置賜百姓交流会」をいう農民グループがある。1970年代の初め、減反に反対をしようと当時20歳代の百姓を継いだ若者たちが集まり作ったグループだ。それから40年、すでにメンバーの多くは70代に入った。

 彼らは減反反対ばかりでなく、村でさまざまなことに取り組んできた。そのひとつに、「戦争のために二度と銃をとらない農民の集い」というのがある。当時一部で話題を読んでいたドキュメンタリー映画『侵略』の上映会を地域の村々で開催したのだ。20代の若者たちの無謀ともいえる行動に、村の人たちの反応はどちらかというと冷やかで、参加者もちらほらだった。

 ある日、会場の公民館に評判の飲んだくれのおやじが顔をみせた。若者たちは弱ったなと思った。くどくどとくだをまかれてはかなわないな、と思ったのだ。しかし違っていた。映画が終わり、話し合いに入った。おやじが口を開いた。自分がなぜいつも酒を飲むようになったのか、という話だった。

「戦争に駆り出されて中国戦線に送り込まれた。ひどいところだった。占領した村で、いつ村人に襲われるか不安で、怖くて。スパイ狩りということで上官の命令で村人を集め、銃剣でついて殺した。くにに帰って、百姓に戻って、はざかけをつくるために木のクイを両手で握り、ぐいと力をこめて土に打ち込だ。その感触が銃剣で中国人の胸を突いたときと同じで。そのままクイを放り出し、家に帰って酒を飲んで布団をかぶった。いつもあの感触がよみがえる。酒を飲まずにおれなくなった」

 若者たちは声もなくうなだれるばかりだった。

 岩波新書『戦没農民兵士の手紙』の初版が出たのは1961年7月20日である。ほぼ一ヶ月後の8月30日に二刷が出ている。著者は岩手県農村文化懇談会。同書奥付の紹介によると、「1957年9月、岩手県下の農民・改良普及員・教師・保健婦・農協職員など百余名によってつくられ、農村の文化運動を推進」しているグループだ。

 戦争(アジア太平洋戦争)が終わって16年が経っていたが、戦争の記憶はまだ人々の記憶に色濃く残り、生活の隅々に陰を落としていた。農家を訪ねると、仏壇の上の鴨居に軍服姿のその家の戦死した息子の写真が掲げられていた。上記の懇談会のメンバーにも、兵士として戦場に駆り出され、かろうじて生きて帰ったものも多かった。徴兵制のもとで、招集令状一枚で、例え田植えの最中であっても兵士としてかけつけざるを得なかった時代だ。

 懇談会のメンバーは1959年から手分けして農家を訪ね、仏壇の引き出しに、あるいはタンスの奥深く、再び帰ることのないものの形見として残されていた兵士からの手紙を集める運動に乗りだした。そうして集まられた戦没農民の手紙を編んでこの本は作られた。

 兵士の手紙は、すべて検閲されているので、戦地や兵舎の本当のことは書けない。だが、妻や親や子どもらに宛てた農民兵士の手紙には、一貫して共通の思いが流れていることに気付く。大黒柱の自分がいなくなった後の農作業のこと、肉親のこと、郷里の四季折々の思い出にあふれている。

「牛小屋を建てるらしいですが、モウ君も喜んでいると思います。桃の木はなるたけ老木は切って、整然とリンゴだけにしたら理想と思います。桜の木は駄目ですね。西の方は明るくなり、隣の家迄見通しですね。牛の腹は大きいですね。あれは産近くなると癖が悪いですから用心願います。」

 戦争文学の古典に作家、火野葦平に兵隊三部作がある。『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』と題されている。地元農民のために水と農地の造成に尽くしてアフガニスタンで客死した医師中村哲の伯父にあたる火野は、一兵士として中国大陸の戦場に立った。その体験を綴ったものだ。

 『麦と兵隊』の「麦」は、広大な中国大陸をどこへ行くのか目的地も知らされず、ひたすら歩く兵士、その地で暮らす中国の人々、それらをまるごと包み込んで、どこまでも続く麦畑のすべてをイメージしたものだ。

「後に廻った一人の曹長が軍刀を抜いた。掛け声と共に打ち下ろすと、首は毬のように飛び、血がささらのように噴き出して、次々に三人の支那兵は死んだ。

 私は眼を反らした。私は悪魔になっては居なかった。私はそれを知り、深く安堵した」(『麦と兵隊』より)。