“百姓の海”を取り戻すには

大野和興(農業記者)

◆そして誰もいなくなった

《その1》

 2019年夏、酷暑が続いた8月上旬のある日の朝刊。読売新聞に「熱中症4人死亡」という記事が載っていました。群馬県安中市で農作業中の80歳代男性、茨城県下妻市でビニールハウス内にいた92歳の女性、長野県飯綱町で畑作業をしていた86歳男性、兵庫県丹波市では自宅近くで77歳の男性が倒れていた。

 同じ日の東京新聞では埼玉県熊谷市の畑で80歳女性が倒れており、病院に搬送したが死亡。その3日後には千葉県鴨川市では畑で93歳の女性が倒れていて病院に運んだが死亡したと読売新聞が伝えています。女性は午前8時頃から畑作業をしていたそうです。

 記事で類推するだけですが、いずれも現役の農業者というか百姓というか、大げさに言えば日本農業を支えている人たちなのだなあ、と記事を読みながら思ったものでした。

《その2》

 埼玉県の山間地域、秩父に住んでもう20年以上になります。住まいは秩父と横瀬町の境界の小高い山の上で、もともと農業集落だったのですが、少しでも町場に近いところということで奥秩父から移り住む人が増え、少しずつ家が増えてきました。その人たちも次第に歳を取り、子どもたちはみんな家を出て集落全体が高齢化してきています。山間地域で始まった高齢化と人口減少が次第に里に下りてきて、地方小都市を飲み込んでいるのです。この集落のもともとの住民で、小さなリンゴ園を経営して、ずっと専業百姓として生きてきた諏訪さんが、昨年秋に85歳で亡くなりました。葬儀があった翌日、朝日俳壇でこんな句を見つけました。

冬草や竹馬の友は畑に死す

 今治市の金子敏雄さんの作品とあります。諏訪さんとの付き合いは、ぼくがここに住み始めてからだから20数年程度。諏訪さんの自宅と自宅に隣接するリンゴ園は、ぼくの家から150メートルほど。畑に通う道すがらなので、朝夕顔を合わすたびに声を掛け合っていました。急ぐときはリンゴの話はしないことにしていました。ことリンゴに関する限り、諏訪さんは話し始めたらとまらないからです。

 諏訪さんのリンゴはおいしかった。過去形でいわなければならないのは、なんとも残念なのですが、毎年冬から春にかけて園を深く掘り起こし、落ち葉やワラを積んだ堆肥を埋め込んでいました。「消毒はできるだけ控えているけど、まったくしないわけにはいかないからなぁ」と話していた。あんなに香りがよくておいしいものに虫やカビが来ないわけはないので、北海道のような乾燥した冷涼な気候のところでも、防除カレンダーでは年十数回農薬を播くことになっています。それを諏訪さんは年に2、3回に抑さえていました。生産者として容易なことではありません。

 諏訪さんのリンゴは、おいしいので直売で全部売り切れました。ぼくのところでも友人、知人に送ったのですが、秩父でこんなにおいしいリンゴができるのか、とみんなびっくりしたものでした。

 リンゴの樹150本ほどの小さいリンゴ園ですが、諏訪さんはこの園で家族を養い専業農家として生きてきました。リンゴのほか、干し柿や園の隅に植えたコンニャク玉を摺り下ろして昔ながらの手法で作ったコンニャクなども売ったりしていました。農学者の津野幸人が中国地方の中山間地を舞台に描いた「小さい農業」そのままの農業の姿が、秩父という中山間地の、それもぼくのご近所にも生きていたのです。

 諏訪さんを送る日、遺族はお棺に木の枝を二本入れました。一本は、まさに今咲こうとしている桜。向こうについたら先に行っているお連れ合いと花見をしてくださいという思いを込めました。もう一本は、諏訪さん自慢のリンゴ「群馬名月」の枝。群馬名月はその名の通り群馬で育成された品種で、香りと水気がたっぷりあり、甘さもほどよく、黄緑色の実をつけます。諏訪さんの群馬明月の収穫をみんな待っていました。諏訪さんは自他ともに認める接ぎ木の名手でした。向こうでお連れ合いとまたリンゴ園のはじめてくださいという思いを、その枝に託したのです。

 お連れ合いが亡くなってしばらくして、園の中でぼんやり立っている諏訪さんに会ったことがあります。「百姓というのはひとりではできないもんだな、大野さん。ふたりでやっていたのもがひとりになると、5人分くらいの手間がかかる」と、ぼそぼそと話しました。

 諏訪さんが亡くなってまもなく2年になります。ひとりの手練れの百姓がいなくなり、手入れが行き届いて、あんなにきれいだったリンゴ園は、いま夏草が生い茂り、その中で剪定をしないから形が崩れてしまったリンゴの樹に、野球の玉のほぼ半分ほどの実が、鈴なりに成っています。摘果をしないとこんなになってしまうんだと、リンゴ園の前を通るたびに思います。リンゴ園の後を継ぐ人はいません。

《その3》

 群馬県の山間地のある集落。ピーク時には38戸いたのですが、今は3戸だけになってしまいました。残されたおやじたちは70歳代終わりから80歳代終わりまで、みんな幼馴染で、毎週のように集まり酒飲みをしています。「毎度、『最後のひとりになるまでこうやって集まろう』、ってお開きになるのですが、誰も自分が最後のひとりになるとは思っていない」、とこの話をしてくれた人は言っていました。

 こんなことを書いていたら、島根県石見地方の中山間地の空っぽになった実家に、お盆で帰っていたという友人がいきなり現れました。

「村は空き家と放棄地だらけ、かつて25戸あった出身集落はこのままでは5年後に5戸になる、親戚や友達に会うと、『この村はどうなるのだろう』という話ばっかりだった」と開口一番言います。

「それでどうなるの」

「どうなるもこうなるもないでしょう。消えるだけですよ」

◆“百姓の海”をつぶせ

 日本の村のこんな状況に出会うたびに思い出す言葉があります。「低強度戦争」、反政府軍あるいは解放軍のゲリラ活動に手を焼いた米軍が中南米で行った軍事行動です。ゲリラを根絶できないのは、彼らを支える民衆がおり、もぐりこめる村落、“人民の海”があるからだという理由で、米軍事顧問に指揮された政府軍は村落を焼き払い、森や畑を破壊し、村人を殺戮しました。

 同じことを日本帝国陸軍は中国戦線でやったし、ベトナムで米軍が行った枯葉作戦も同じ軍事思想によるものです。ぼくは80年代末から90年代にかけ村々をうろついていたフィリピン・ネグロス島で、自国軍隊の爆撃を受け焼き払われた村に立ったことがあります。フィリピンでも反政府活動鎮圧に、政府軍は米軍事顧問団の指導を受けていたのでした。

 なぜ日本で有機農業のシェアが伸びないのだろうか。そのことを考えるたびに、この「低強度戦争」をいう言葉を思い出します。有機農業もまた、いくらそれが先鋭的で優れていようと、小さい農民が集う“百姓の海”がなければ生きていけない。いうより、そもそも有機農業は小さい農民の日常の営為のなかから生み出されたものです。いま、その海が枯れようとしているのです。枯れるには枯れるなりの理由と背景があります。そこには“百姓の海”という存在そのものを、ほかのものにとってかえようという強い政策的意図が働いているとみてよい。いま有機農業を考える場合の本質的問題は、そこのあるのだと思っています。

 有機農業だけではありません。上越地域で数十ヘクタールの大型稲作を営む友人は、つねづね、同じ地区でコメを作っている兼業の人がいなければ自分の営農は続かないと言っています。それは単に水利用といった営農に直接関係することだけではないようです。日頃の声のかけ合い、村の行事などすべてがくらしを支え、その延長線上にある営農を支えているのだというのです。大型経営ですらそうなのだから、小さい農業どうしの有機農業なら、その関係性はもっと深いものがあるという気がします。有機農業を含め小さい農業は、人と自然、人と人との関係性の中ではじめて確かで長続きする営みができるからです。

 関係性こそが、確かで長続きするくらしと営農を支えるカギとなる。その関係性を取り結ぶ人と人の関係性が、いま消えかけているところに問題の深刻さがあります

◆多重多層の協同組織を

 どうするか。抽象的に言えば、有機農業を含む小さい農業を支えてきた関係性を再構成する、ということになるのですが、関係性といえば共同性という言葉が浮かんできます。とても親和性がある 、その共同性が地域ではすでに壊れかけ、最後の共同体といわれる「家族」も崩壊過程にあります。

 最近、国連のおかげで家族農業という言葉が農業関係者の間で盛んですが、この国限定で言えば、ぼくは、農業に家族という言葉をかぶせることに、なんとなく違和感があります。

この国では「家族」が一種のイデオロギー装置となっていることは、自民党の改憲草案を見るまでもなく明らかです。その上に、グローバル化の中で吹き出し、積もり積もったさまざまの矛盾の吹き溜まりが家族になってしまっているという現実が重なります。

 80歳の父親が、引きこもりの50歳の息子の面倒を見る、いわゆる「5080問題」はその典型です。毎日の新聞を見ていると、いまや殺人事件は家族内が一番多いのではないか、という気さえします。家族が最後の共同体であるとするならば、それは“憎しみの共同体”にほかなりません。こんな現実の中で「家族農業」をいうことは、農業問題の矛盾を家族に押し付けることを意味します。

 例えば、今の農産物価格のもとで家族を単位とする経営体をもちあげることは、そこで働く「妻」や「後継者」、一線を退いた高齢者、さらには外国人技能実習生を犠牲的な低賃金で働かせることを認めることになります。

 関係性の壊れは、地域内だけの話ではありません。山形県置賜地域で、平飼い養鶏を営む友人はある日突然、これまで雛を入れていた業者から「1000羽以下のところとは取引しない」と通告されました。昨年のことです。採算が合わないからだというのです。なんとかつてをたどって県外の業者から入れる算段は付いたが、ここがダメだといわれたら、その先は見通しがききません。

有機農業にふさわしい小規模畜産に取り組む人は、屠殺・解体でも同じような状況にあります。これまで小規模な耕種と畜産を組み合わせた有畜複合農業や有機畜産を支えてきた小さい者同士の仕事のネットワークが、生産性重視のビジネス環境の中で崩れていく現実があるのです。小規模な畜産を取り入れ、循環型の農業を作ろうと思っても、それを支える条件が亡くなっているのです。

 こうした事例をあげればきりがありません。結論を急ぎます。

これまでの地縁、血縁に代わる関係性・共同性を再構成するには、自立した個が手を結び、規模も種類もさまざまな協同組織を多重多層に、お互いが入れ子状態になるよう作り上げていくしかないのではないか、と考えているところです。

 そのためには、現場に立ち戻って百姓が生きてきた歴史を踏まえながら、その存立を支えてきた土地利用のあり方を含む技術的農法的基礎、市場的基礎、さらには政策的条件を考え抜くことだと思うのです。