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成田空港の足元で何が起きているか 急速に進む移民社会化と自然死するむら 

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

 企業誘致や宅地造成、ダムや道路の建設、リゾート開発、そして原発などなど、地域の大規模な開発で振興を図る――戦後日本で経済成長が始まる1960年代以降、全国各地でくり返されてきたことです。立地する場所は貧しいところ、不便なところが選ばれました。開発によって金が落ち、働けるところができるといううたい文句が、その地域に生きている人たちの心をゆさぶりました。60年代から始まった巨大国際空港建設の場、千葉県三里塚も、その典型的な地域のひとつでした。まず歴史を簡単に追ってみます。

◆国策に蹂躙される百姓たち

 1960年代半ば、政府は世界に広がる日本経済を支えるインフラとして国際空港をつくろうと計画します。紆余曲折しながらも最終的に選ばれたのは千葉県三里塚でした。成田山で有名な宗教都市成田市につながる畑作地帯で、皇室財産の御料牧場(69年に移転)や県有林があり、そこで農業を営む農家の多くは戦後に入植した開拓農民でした。公有の土地が多く、多くは食うや食わずの貧乏百姓、金さえだせばすぐ出ていくだろうと考えたのかどうか、66年7月、政府は地元にはなんの相談もなく、突然、成田空港建設を閣議決定しました。

 “農地死守”を掲げ、村ぐるみのたたかいが始まります。土地買収地域には開拓村だけでなく、古村と呼ばれた代々つづく集落も含まれていました。双方は空港建設反対同盟をつくり、いっしょにたたかいました。これに対し政府は、買収の条件を引き上げながら一戸また一戸と切り崩しを図ります。土地を空港(国)に売って移転する農家が次々とでてきました。また、百姓たちの闘争を物理的につぶすために全国から機動隊が集められ、激しい弾圧が村を襲いました。村人の共同性を基礎に形づくられていた地域が壊れ、人が死に、肉体的精神的に傷つきました。それでも闘争はつづきました。

◆「お国のために」と

 「私の兄貴は中国の中支で、『お国のために』と戦死してるんだ」――戦後、ひと鍬ひと鍬、木の根っ子と格闘し、頑固な笹山を拓き、農地をつくっていった三里塚開拓農民、熱田一(はじめ)さん(故人)のおっかあ(妻)・熱田てるさんの言葉です。一さんは反対同盟(熱田派)代表として死ぬまで同盟の旗を降ろしませんでした。それを支えたのが、てるさんです。この言葉につづけて、「私にとって、そのことと空港反対闘争とは大きく関係してるんだよ」と話します。

 1941(昭和16)年だから、日本が真珠湾攻撃で米国に宣戦布告をした同じ年、てるさんのお兄さんに召集令状が届きます。同じ千葉県の佐倉にあった歩兵部隊に入隊し、1年後には中国・北支に派遣され、中国を転戦したあげく戦死しました。頭部貫通銃創で即死だったようです。戦争が終わって20年たった頃、この土地に空港を建設することが閣議決定されます。

 「その20年間、私も百姓を一生懸命やって、子どももできた。戦争が終わってさ、やれやれと思ったところだった。戦争中はカボチャやイモしか食えなくてたいへんだったけど、やっと人間らしい生活ができてきたのに、いよいよ私らの時代がやってきたと思っていたところにさ、またまた『お国のため』というのが持ち出されてくるのは、どうにも納得いかないと思ったよ」

◆やれやれと思った矢先

 空港反対同盟のリーダーの一人だった三里塚の百姓、石井武(故人)さんは、敗戦と同時に兵隊から帰され、開墾の募集に応じて千葉県印旛郡遠山村駒井野(現在の成田市東峰)に入植しました。敗戦の翌年1946年、21歳でした。武さんは、こう語っています。

 「(入植者に)払い下げられた土地は荒れ地で、開墾は、いまの若い人なら気の遠くなるような重労働だった。これほどの苦労は他にはないだろう」

 それがどれほどの重労働だったか。それがわからないと、政府に空港をつくるから土地を明け渡せといわれた貧乏開拓農民が、なぜあれほど頑強に抵抗したかがわからない。武さんの話をつづけます。

 「“手に豆”っていうがそんなものじゃない。昔の人は煙管で煙草を吸って手の平に火をのせた。煙管の火どころじゃない。まっ赤な炭火をのせてもなんともなかったくらいだ。つぶれた豆が重なって固くなって、手が四角でかちんかちんになっていた」

 食うのもたいへんだった。当時のことを武さんの妻・こうさんは、あるところでこう語っています。

 「なんにも食わないから、腹へって、こわくて(疲れて)仕事にならない。子どもらもみんな腹減らしていて、かわいそうだった」

 成田の開拓農民たちは、こんな状況を、苦労を重ねながら切り抜けました。

 「生活の面で“まあまあ”という気分になれたのが、今度の空港問題が始まったころだった」

 空港建設が閣議決定されたのが66年。20年がたっていました。21歳で開墾をはじめ、そのとき41歳。結婚し、子どももでき、働き盛りでした。その間、食えなくて借金も重ねます。営農資金という名目で政府の公的融資を受けたりもしますが、生活費に消えてしまいました。それでも借金で回している状態からようやく脱し、「やれやれ」と思った矢先、空港問題がふってわいたように起きたのです。

◆移民社会の先取り

 それから53年が経過しました。「農地死守」を掲げた三里塚の農民の抵抗は長くつづき、いまもその流れはつづいています。その一方で、高度経済性成長やバブル経済をへて、グローバル化の流れの中で社会も経済も大きく変貌しました。

 成田空港のほとんどを管内にもつ成田市のこの間の動きを人口の面からみると、地方都市が軒並み人口減少にみまわれている中で一貫して増えつづけています。

 激しい闘争を抑え込んで成田空港が開港したのは1978(昭和53)年でした。直後の国勢調査(80年)で成田市の人口は6万8418人でした。11年に隣の大栄町、下総町と合併して約2万8千人の人口増がありますが、前回(15年)の国勢調査では13万1190人にまでふくらんでいます。合併分の人口増を差し引いても成田市の人口は1・5倍になっています。 ほぼ同規模の地方都市だった埼玉県秩父市が、この10年間で1万人ほどの人口減を記録しているのと比べても、人口の伸びのめざましさがわかります。

 「だが」、と成田市の農村地域に住む樋ケ(ヒノケ)守男 さんは首をひねる。

 樋ケさんは学生時代、三里塚闘争支援でここに住み込み、闘争が一段落した後も養鶏を営みながらさまざまな住民運動にかかわりほぼ50年、地域の変貌と人々のくらしを見つづけてきました。樋ケさんは成田市の人口増の多くは外国人だといいます。成田市の資料によると、外国人住民は5048人(18年)で、市の総人口の3・8%となっています(日本全体で外国人が総人口に占める割合は2・09%)。市内に居住する外国人の多くは空港関連の企業で働いています。

 「空港本体で働いている人は約7万人。まわりの生産性の低い産業分野(賃金が低い)から人が流れると同時に外国人労働者に多くを頼っている。時給1千円以上は日本人、最賃レベルは外国人という棲み分けもある。それに加えて、いわゆる不法就労の外国人が存在する。それらの人たちは人手不足が目立つ周辺の建設や運輸、農業に流れる」

 いま政府がすすめる移民社会化。成田では一足先にすすんでいます。樋ケさんが指摘するもう一つの大きな問題は、地域間の格差の拡大です。市街地や成田ニュータウンの賑わいの一方で、農村部の疲弊は著しく、成田市の隣で空港に隣接する芝山町の高齢化率は33%(18年)。一方、成田市は2020年予測で23・6%。その成田市でも農村部と市街地の格差は大きく、年々拡大しています。

 「農業後継者はおらず、高齢化した農家が無理をして大型機械を動かすため、農作業中の事故が増えている」

◆むらは自然死に向かっている

 樋ケさんは、「空港周辺の農村地帯はいま、自然死に向かっている」とつづけます。現在、成田空港は第3滑走路建設を打ちだしています。それに沿って空港敷地は1千ヘクタールも拡がります。周辺農地が買収されることになるのですが、かつてのような反対の声は聞こえてきません。

 「むしろ、もろ手を挙げて賛成という状態だ。農業に後がないことはみんなわかっているので、これが最後の機会なのですね」

 農業だけではない。空港が存在することによる果実のほとんどは成田市に入ります。

 「中心市街地は人口増と観光で潤っているが、隣の芝山町の旧市街地は完全にシャッター通りになり、三つの小学校が統廃合されて一つになった。多古町でも商店街はなくなり、バイパス通りに沿って新しい店がならんでいる」

◆新しい共同性を

 樋ケさんが指摘する三つ目の問題は、地域の共同性の崩壊です。激しい農民のたたかいの中で集落の共同性は壊れ、むらはバラバラになったが、そこに新しい問題が降りかかります。

 「集落の共同が壊れ、それを補完し、住民の連絡網をつくってきたのは自治会いわゆる町内会なのだが、外国人を含め新しい住民はそこには入らない。個々バラバラで、市の広報も届かない。その人たちが地域でも多数になっている」

 こうした地域をつくるためにあれだけの犠牲を払って空港開発がすすめられたのでしょうか。樋ケさんは経済学者宇沢弘文さんの「社会的共通資本」の考え方を引きながら、もう一度、おおもとから地域の運動をつくり直さなければ、と語ります。

 樋ケさんの構想は、地域に新しい共同性を作り上げたいというものです。むらが壊れ、家族もばらばらになってそこに移民の人たちが加わり、地域社会はこれまでの考え方や価値観ではとらえきれない存在になっています。異質な人たちどうしが、異質を認め合いながらつながりあうゆるやかで多様な関係性をどうつくるか。晩年、空港問題に深くかかわりながら思索を深めた宇沢弘文さんの思想に託しながらの樋ケさんの言葉はとても印象的でした。開発に反対し、たたかった果ての今。過去を繰り返さないためにはどうしたらいいのか。そんな問いをこめての言葉でした。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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