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【TPPへの視角その3】TPPで農の現場で何が起こるか

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

TPP大筋合意の「概要」が11月に公表されたとき、農業界は大きながショックを受けた。野菜、果物、水産品、木材製品などが軒並み関税即時撤廃を含む大幅な自由化を飲まされていたことだった。野菜や果実は多くの品目が生鮮だけでなく冷凍、乾燥、果汁などすべてが関税即時撤廃の対象となっている。それまでTPPについて農業界の関心は聖域五品目と言われる「コメ、小麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物」にあった。正直言って、ここまで影響が及ぶとは実は農業関係者は考えていなかった節がある。政府の対応もいい加減で、各地で政府が開催しているTPP大筋合意の説明会に出席した政府担当官はいずれも「TPP合意内容による影響はほとんどないか限定的である」と口をそろえる。

しかし、その根拠の説明があやふやではっきりしないため、参加者は逆に疑心暗鬼をつのらせる。当然の話である。TPP交渉の「大筋合意」として発表された英文の正文は、本文だけで1000ページを超え、付属文書を入れると5000ページを超える。ニュージーランドや米国はこれをそのまま公表している。これに対して、日本政府が公表した「概要」は日本語で100ページに満たない簡単なものだった。日本政府にとって都合のよいことだけを抜き出しているのではないかという疑問がぬぐえない。しかし、政府発表の「概要」を見ただけでも、これらがそのまま通ったらこの先何が起こるか、計り知れないものがある。

◆農業は総合的なものである

ではこの「大筋合意」のレベルで農業分野ではどれほどの影響が出るのか。鈴木宣弘東京大学教授が内閣府と同じGTAPモデルで計算したものがある。それによると、農林水産生産額はマイナス1兆円、食品加工生産額は1・5兆円のマイナスになるという結果が出た。こうした数字は政府の試算も含め、ここの産品ごとの数字を積み上げたものである。農業についてみると、個々の積み上げでは測れないマイナスが発生する。農業経営というのは総合的なものだからである。

例えばコメ。2015年産生産者米価は大幅下落した昨年に比べると下げ止まっている。これは飼料米の制度が価格決定のメカニズムに織り込まれ、需給調整の機能を果たしたことが大きい。しかし、今回の「大筋合意」通りになると、肉牛、養豚、酪農経営は大きな打撃を受け、生産者は経営縮小や経営からに撤退を余儀なくされる可能性が大きい。TPPのひな型といわれる韓米FTA発効1年後の韓国農村を訪ねたことがある。米国からの牛肉輸入増を恐れた肉牛農家は母牛を安値で市場に出し、経営縮小に走っていた。今、韓国の肉牛飼養等数は減少を続け、牛肉価格は上昇を続けている。韓米FTAが発効した2012年の韓国の肉牛飼養頭数は306万頭。それが13年には292万頭になり、その後も減ってきている。もし、日本国内で同じことが起こると、肝心の実需者である畜産経営の減少で飼料米の持っていく先が縮小、制度そのものが成り立たなくなる。その結果は生産者米価の大幅下落となって表れる。

例えば野菜。今、米どころのJAでTPPによるコメの価格下落の防ぐため、野菜生産に切り替えるところが出てきている。全国農協中央会が発行する『月刊JA』などをみていると、そうした方向で新しい地域農業を切り拓こうとしている事例が次々出てくる(例えば同誌2015年11月号には「複合経営で『食農立国』確立へ」というタイトルで、米価下落で畜産・園芸の力を注ぎ、小規模でも複合経営で生き残っていこうと努力している岩手県JAいわて中央農協の事例が出てくる)。ところが野菜は供給量が少し増えても価格は下落する特質がある。「大筋合意」では多くの野菜で現行3%の関税が即時撤廃される。3%安く入ることは低マージンで量で稼ぐ大手量販店にとっては極めて魅力的なので、野菜輸入量は当然増える。そこに国内でリスク分散で生産が増えた野菜が市場に流入したら、相場の下落や乱高下が激しくなることは必至だ。こうしたリスクに耐えられない野菜産地は消えるしかなくなり、JAなどによる地域農業再構築の努力も吹き飛んでしまう。

例えば加工品。「大筋合意」ではリンゴやミカンなど主要品目の果汁にかかる関税は撤廃される。自然条件に左右される農産物の場合、圃場でとれる収穫物は優品もあれば規格外のものもある。それが工業製品との違いなのだ。そして農家は、優品は市場に生で出し、見栄えがよくなかったり小さかったりするものは自家加工するか加工向け原料として出して、全体で所得を上げている。それが農業経営というのものなのである。その加工のところに安い輸入品が入ってくると、農家は加工向け市場を失ってしまう。これは農家が所得を得るための柱が一本なくなることを意味する。

TPPがもたらすこうした将来見通しからわかることは、TPPはこの列島の農業と食料生産を支えてきた農業の形を壊してしまうということである。

◆環境も農村風景も

TPPによって農と食の現場に何が起こるか。地域、環境にまで広げて考えてみる。10月下旬、上越平野で20ヘクタールほどの大規模稲作をしている友人から電話があった。稲刈りがすんだが、作柄が悪く、品質もよくないので来年のくらしが心配だという。彼は昨年の生産者米価下落で規模拡大で投資した借入金が返せなくなり利子だけ入れて返済を農協に待ってもらっている。今年は米価が少し持ち直したので何とかなりそうと思っていた矢先、天候異変が重なって不作になってしまっただ。それにTPPが来るので、地域ではコメ作りから手を引く農家が加速しそうだともいっていた。

政府の方針って大規模化していた大型稲作経営でさえこうした状況にある。安倍政権 はさらに農協法と農業委員会法を変え、こうした農民的大型経営さえ駆逐し、資本の農業進出を誘導して農業の主体を企業にしようという路線を進めている。さらに来年度税制改革で遊休農地に対する固定資産税を1・8倍に引き上げ、農地中間管理機構(農地バンク)に土地を出す農家に対しては税金を半分にするという強権的手法で農家に土地を吐き出させようとしている。農業政策全体が税制をも利用しながらTPP化しているのである。

そのためにはコメの生産費を削減し、米価が下がってもうけが出る農業にしなければならない。生産費の中で一番大きいのは労賃部分である。朝晩の田んぼの見回り、水管理、堆肥作り、草刈り、そんな手作業が農家の労賃の大部分を占める。家族経営の農家はこの労賃で生計を立てる。逆に企業化した大規模稲作経営は、ここをカットして生産費を下げ、米価低落に堪える経営をめざす。例えば堆肥づくりはやめて化学肥料のみに頼る。化学肥料は栄養剤のようものなにで稲は軟弱に育ち、虫や病気に抵抗力のない育ち方をする。必然的に農薬多用のコメづくりとなる。

こうして作られたコメが市場に出回ると、手間をかけて家族の労働で育てたコメは高く売れず、農家はコメ作りから撤退するしかなくなる。村では食べていけないので、働ける世代は村を去らなければならなくなる。農家経済の崩壊は、そのまま農村の崩壊につながる。

問題は農業と農家だけにとどまらない。地域の経済は背後に控える農家の経済活動が基礎にあって成り立っている。例えば群馬県下仁田地方はコンニャクとネギの産地だが、TPPでいずれも関税が下げられる。下仁田にはこの二品目を使った農産加工業、卸や仲買などの流通業、それを運ぶ運輸業が集積している。コンニャクとネギ生産がTPPで打撃を受けると、地域経済そのものに響いてくるのである。

手間をかける百姓仕事は自然環境とも密接につながっている。牛肉自由化が決まった翌年の1994年秋、各地を歩いたことがある。島根県三瓶山麓の草原で和牛の放牧をしているご夫妻から話を聞いた。遺伝子組み換えの穀物を飼料として与えたくないので、放牧を守ってきたご夫妻である。草原の草は牛がたべることで再生します。その中にはスミレやオミナエシと言った草花がある。春になるとその花々に蝶がやってくる。三瓶山麓にはこの地域特有の希少種の蝶がいた。当時、牛肉の自由化で放牧経営は大きな打撃を受け、牛飼いから撤退する人が増えていた。牛がいなくなったら三瓶山麓の草原は荒れ、草原に花の蜜を求めてくる蝶がいなくなるとご夫妻は心配していた。

TPPで牛肉の関税も大きく引き下げられる。TPPの影響は草原のスミレや蝶にまで及ぶ、そんな想像力が、いま私たちには求められているのだと思う。ご夫妻の話でもっとも印象的だったのは、「牛がいることが大事だからといっても限度がある。儲けようと頭数を増やすと草原を荒らし、逆に自然を壊してしまう。草原の草花の命を基準に、経営規模を考えている」という言葉だった。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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