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ジャーナリズムとは何かを再考する(3)「オフレコ破り」の背景と「その先」の議論をしよう

奥村信幸武蔵大教授/ジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

2023年2月3日夜に荒井勝喜首相秘書官(肩書きは当時)が記者団に向かって発した、同性婚についての差別的発言のため更迭された出来事を、政治取材に多用される「匿名の情報源」の問題として振り返ってみます。

伝えられているような、荒井氏の「同性婚は隣に住んでいたら嫌だ、見るのも嫌だ」という発言は、オフレコであっても、政府の中枢を担う人物としては、資質を疑うレベルのもので、更迭は当然だと思われます。

読者の方を向いていた

毎日新聞は、「オフレコ」という荒井氏と記者との約束よりも、岸田首相の側近が、内閣が掲げる多様性尊重の方針に反して、同性婚を「嫌だ」と差別的な感情を露わにするような人物であるという問題を読者に伝える方が大事だと判断したということです。

おまけに首相のスピーチライターでもあるのです。政治とは言うなれば「言葉」です。岸田氏の言葉が、そのような人物の影響を受けて発せられているという恐れがあるという、深刻な事態だったのです。

毎日新聞は、重要な取材対象との関係が一次的に悪化して、他の情報が取れなくなるというリスクを考えても、「読者の方を向いて」判断したということです。大いに評価すべきことだと思います。

報道によると、荒井氏は定期的に記者とオフレコ懇談をしていたようですから、番記者のような担当も決められていたはずです。番記者にとっては、取材先との関係が決定的に悪化する事態は、自らの評価にも直結するためプレッシャーも非常にあったと推測されます。

毎日新聞の検証記事では、担当記者は直接の上司である(首相)官邸キャップから本社政治部に報告し、最終的に本社の編集編成局が判断したと記されています。

もし荒井氏が更迭されなければ、おそらく、しばらくは報復を受け、取材がままならなかった可能性がありました。その記者の負担を軽減するため、編集局全体で支える態勢をとって、ジャーナリズムの重要な役割である「権力の監視」が実践されたということです。

「オフレコ」の本質とは

しかし、毎日新聞の行動を誉め讃えるだけでは、おそらく日本の政治ジャーナリズムは進化しないでしょうし、年に数回あるかないかの報道で、メディアへの信頼が回復できるとも思えません。

はたして、この荒井氏と記者団のやりとりは「オフレコでなければできなかった」でしょうか。(日本の)政治取材の場で、「オフレコのしばり」は多すぎないのでしょうか。

政治の取材でオフレコでのやりとりが完全になくなることは現実的にあり得ないでしょう。進行中の外交交渉などの戦略的な「落とし所」などを、記者に内々に伝えなければ、ミスリードな記事で、交渉じたいが頓挫するような事態も考えられるからです。

しかし、オフレコというのは、ニュースの消費者であり、一般人の私たちが知らないところで、政治家などとメディアだけで、事情を「独占」しているということに他なりません。そして、そのメディアは「記者クラブ」に属した、たかだか十数社程度で、そこから外に漏れることはめったにないのです。

「オフレコ」が「慢性化」していないか

同性婚を求める人たちを「嫌だ」と思う感覚はさておき、それを、「ここだけの話」という約束であっても、仮にも「権力」である内閣を見張る立場にある記者たちの前で、醜悪な感情を無邪気に披露するとは、「どうせニュースにできないのだろう」という「おごり」や慢心は、なかったのでしょうか。

逆に取材する方にも、「ずっとそのようにやってきたから」というだけで、「何のために(どのように伝えるために)その情報を得ようとしているのか」という意識が希薄なまま、ルーチンと化している取材に臨んでしまった、という側面はないでしょうか。

もし、そのような「隙」が少しでもあれば、「馴れ合い」と批判されても仕方ないものです。メディアは権力の「よき理解者」になってはいけないのです。首相秘書官の周辺だけでなく、他の政治取材の現場でも、同じような問題を抱えていないでしょうか。

その場で反応できなかった理由は

以下に述べることは理想論で、非現実的かもしれません。私も政治記者の経験はありますが、当時の30代の自分が現場にいたとして、同じ行動が取れるとは思えません。でも問題提起だけはしておきたいと思います。

荒井秘書官が同性婚について悪口を述べた直後、その場で「おい、ちょっと待て!これは超問題発言だ」と声を上げる記者はいなかったのでしょうか。もし、そのようなやりとりがあれば、「オフレコ」の約束の是非についても(「オフレコ」を解除するかどうか)の議論はできたはずではないのかと思われます。

発言を聞いていたとされる約10人の記者の中で、「秘書官としての資質にもかかわる問題だから、オフレコを破っても報道すべきだ」という問題提起を、本社の中枢まで上げたのは毎日新聞だけだったのでしょうか。取材メモを上げたキャップ、その先にいる本社の政治部デスク、政治部の幹部、さらに先の編集局など中枢幹部、どこかでこの問題提起が停止していた、というような事態は発生していなかったのでしょうか。

もしかすると、記者が「ちょっと待て!」と言い出せなかったのは、年齢の問題もあるかもしれません。荒井氏を取り囲んでいた記者は政治部の中堅よりは少し若手の、30代〜40代前半くらいと思われます。民放テレビ局だと20代の記者もいたかもしれません。

対する荒井氏は55歳、本社の部長や編集幹部と同じくらい、下手をすると20代記者の父親くらいの年齢、それも高級官僚です。対等に渡り合える度胸と能力を持った記者はどのくらいいたのでしょうか。

しかし、これは現場の記者というより、メディアの構造的な問題かもしれません。荒井氏と対等なやりとりができそうな経験やメディア内でのポストがある人は、このような取材の場には直接現れないのが普通です。もちろん、伸び盛りの若手記者に「場数を踏ませる」という、教育機能も無視できませんが。

しかし、当日のオフレコ取材の目的は、毎日新聞によると「首相が1日の衆院予算委員会で同性婚の法制化などについて『社会が変わっていく問題だ』と発言したことの真意を問うものだった」とされています。

岸田首相の側近が(しかも、荒井氏によると何人も)内閣の方針にも反する、同性婚に対する嫌悪感を露わにする人間かもしれないという、人間性を問わねばならない事態で、岸田首相自身がどのくらい影響を受けているのかを問うという重要な局面で、格下に見える記者が、オフレコ「しばり」という条件で取り囲んでいるというのは、効果的な取材戦略には、少なくとも見えません。まあ、その場にいれば何か情報は取れますが・・。

「オフレコ」でよかったのか

そうすると、あの時荒井氏を取り囲んで話を聞く目的、どのような情報を取ろうとしていたのかということを「メディアが組織として明確に意識を共有できていたのか」ということが、問題になるはずです。その情報を取るのに、あの陣容でよかったのか、例えばシニアの記者が、場合によってはサシ(一対一)で追うべき取材なのではないか、というようなことです。

正確な議論を目指すために、「オフレコ」とはどんな取材なのかを、おさらいしておきます。

アメリカなどで使われる分類は以下の3つです。

1)on background

話の内容は紹介してもいいが、発言者を特定する氏名などは伏せ、「政府高官」「自民党の閣僚経験者」など属性、所属の一部のみ明らかにする形でニュースに載せられるもの。

2)on deep background

話の内容は紹介できるが、「ということがわかった」という形で、情報源に関しては全く伝えてはいけないもの。内容によっては情報の出所や関係者が特定できる恐れがある場合は、その情報も制約を受ける場合がある。

3)off the record

ニュースに出来ないもの。取材の機会があった事実も伝えてはいけないもの。

日本で「オフレコ」と呼ばれているのは、1)です。政治取材などで広く行われています。2)は捜査機関(警察や検察)、防衛などの分野で使われることが多いものです。メディアとの接触を許されていない職員らからもメディアは情報を得なければならないこともあるからです。

3)は日本の政治取材の現場では「完オフ」(完全オフレコ)と呼ばれているものです。首相など内閣の要職者が国会運営や政権の見通しなどを報道機関の幹部と共有する機会などとして利用されているものと見られます。(「完オフ」などという言葉があるので、一定の頻度で開かれていると見られます。)

「取材源の秘匿」との本質的な違い

ジャーナリズムに「取材源の秘匿」という用語があります。実名を明かしてメディアに情報を提供した人や組織が、報復やバッシングなどを受けないように、「関係者」などとアイデンティティをあいまいにしたり、上記2)のような言い回しを使うものです。

「オフレコ」も広義には「取材源の秘匿」のひとつの形と考えられます。しかし、例えば警察の裏金づくりを告発した警官や、粉飾決算のやり方を明かした社員などに対する、属性などを明かさない表現とは大きな違いがあります。

警官や社員などは、最悪の場合解雇や、降格、職場での嫌がらせなど多大な報復により、経済的な損害や精神的なダメージを受ける恐れがあります。

政治家なども、まだ内閣や党として決めていない方針などを明かしてしまえば、責任を問われることがあるという点では似ています。しかし、それがいったんオフレコによる「匿名の情報源」でニュースになってしまうと「既成事実」が作られ、社会的に大きな影響を生むことができる、という大きな違いがあります。

検討中だったはずの政策が「補助金○円で決着へ」という見出しで議論が一気に傾いたり、「△△大臣辞任へ」などの「誰かエラい人」の発言で、社会が先に納得してしまうような場合もあるのです。

少しでも権力のある人は、「オフレコね」とメディアに伝えさせることで、影響力を行使するチャンスがあります。メディアが「利用される」恐れがあるということです。

そのような政治家などに対し、「取材源の秘匿」と言っても、メディアが、その政治家が情報提供してくれる機会を確保し続けるため「オフレコ」の条件を尊重しているに過ぎません。自分の生活や地位を賭して情報を提供してくれた人の人権や尊厳を守るのとは大きな違いがあります。

「集団でオフレコ」の力学

アメリカなどでオフレコの議論をするとき、大部分は一対一の取材を想定しています。また、ジャーナリズムスクールでは、たくさんの記者を集めて「オフレコ懇談」に招かれても、「出る必要はない」と教えられます。情報を得てもニュースに書けないからです。「そんな懇談に出ているヒマがあったら、『オンレコ』で情報提供してくれる人を探せ」というわけです。

一対一で「オフレコ」の話を聞く場合は、複数の報道機関相手には語られない、非常に重要な情報を取る場合に限定されると考えるのが一般的です。複数の報道機関が同じ見出しで、議論や進退についての流れをつくるような影響も起きないでしょう。

しかし、日本の政治取材の現場では、番記者を集めての「オフレコ懇談」がかなりの頻度であります。番記者は担当している政治家や政府高官から定期的に話を聞く機会を確保でき(働いている「ふり」もできます)、政治家らも「オフレコ」という安心できる状況で、ある程度自由なことを言えるということです。

不特定多数の記者が出入りするような環境では、この仕組みは効果を上げられません。「オレは聞いてないぞ」とか、「そのこと自体、問題ではないのか」と抗議する人が出てくるからです。「記者クラブ」という外部のジャーナリストを極力排除したシステムが、その効果を増してしまっています。

しかし、ニュースの消費者である私たちからすると、悪用されれば噴飯ものの仕組みです。政治家は自分へのアクセスを盾に記者に思い通りのことをニュースとして取り上げさせることもできるからです。(政治記者の中には、そのシステムに抵抗しすばらしい情報を取っている人も知っています。しかし構造としては、そのようになっているということです。)

「オフレコの前提」を問い直す

日本のニュースメディアは事件報道になると「実名報道が原則」と主張します。政治取材も本質的には変わらないはずです。しかし、「匿名の情報源(オフレコ)」で伝えることでしか、その時点では情報が伝えられない場合があります。国家機密に触れる内容で提供者が氏名などの情報を伏せないと、情報を提供してもらえないとか、継続的に話を聞ける関係を築いたりするために、一時的に妥協しておかなければならないことはあるでしょう。

しかし、それが許されるのは、以下のような条件がある場合です。

① もたらされる情報に情報源が特定されなくてもニュースにしなければならない緊急性と重要性があること。

②ニュースに情報源が明記されない理由を読者に対して合理的に説明できること。

日本のニュースでは特に②について、記事に明記してあることが非常に少ないです。欧米の主だったニュースメディアでは、「身分への影響や解雇の恐れがあるため」とか「機密漏洩に問われる危険性があるため」、「実際にメモを見たのではないため」など、「匿名の理由」が形式的にでも記されるのが常識となっています。

オフレコは通常、取材前に情報源の間で明示的に約束が交わされるものであり、取材の途中で「これはオフレコでは伝えられない」と判断すれば、その都度交渉をしながら情報を選別していくような形で取材が進むのが一般的です。

あの取材は「オフレコ」でよかったのか

総理の「(同性婚は)社会が変わっていく問題だ」発言の「真意」を伝えるのであれば、いくつかの方法が考えられますが、オフレコという「詠み人知らず」の情報では、信頼性が十分ではなくなる恐れがあります。「誰々がこう真意を説明した」という伝え方でないと、納得を得られる内容にならないのではないかと思われます。

「首相側近」や「政府高官」や「官邸関係者」や「秘書官の1人」(「犯人探し」が起きるので可能性としては低いでしょう)よりも、「スピーチライターで、首相の国会答弁の原稿も書いている荒井秘書官が〜」でないと「真意」の説明に説得力がありません。

仮に岸田首相に真意を問い質すチャンスが来たとして、「側近の方が」と質問しても「それは私の考えと違うな」と逃げられてしまうでしょう。「誰が言ったのか」は情報の説得力に直結しています。

1日中追い回す相手に、その都度「オンレコですか、オフレコですか」と確認を取ることも現実的ではないこともわかっています。また、番記者間でのオフレコ懇談の席でも「これはオンレコにしましょう」と臨機応変に対応している場面があることも承知しています。

でも「オンレコ」がデフォルトになれば、何か変わるかもしれません。毎日新聞の「快挙」は、現在の良くないシステムの「裏返し」とも言えるのです。

武蔵大教授/ジャーナリスト

1964年生まれ。上智大院修了。テレビ朝日で「ニュースステーション」ディレクターなどを務める。2002〜3年フルブライト・ジャーナリストプログラムでジョンズホプキンス大研究員としてイラク戦争報道等を研究。05年より立命館大へ。08年ジョージワシントン大研究員、オバマ大統領を生んだ選挙報道取材。13年より現職。2019〜20年にフルブライトでジョージワシントン大研究員。専門はジャーナリズム。ゼミではビデオジャーナリズムを指導し「ニュースの卵」 newstamago.comも運営。民放連研究員、ファクトチェック・イニシアチブ(FIJ)理事としてデジタル映像表現やニュースの信頼向上に取り組んでいる。

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