30代半ばに音楽教師から指揮者に転向し、異国で挑戦を続けている日本人がいる。ハンガリー在住の指揮者、原口祥司(41)さん。高校の音楽教師という安定した地位を捨て、なぜ競争の激しい音楽の本場へと飛び込んだのか。彼の熱い思いと奮闘ぶりを取材した。まずは、動画をご覧ください(オーケストラ演奏あり)。

https://creators.yahoo.co.jp/okumuramorito/0200029142

ドナウ川の左岸と右岸に広がるブダペスト市街地。奥に見えるのは世界一美しいといわれるハンガリーの国会議事堂(撮影:奥村盛人)
ドナウ川の左岸と右岸に広がるブダペスト市街地。奥に見えるのは世界一美しいといわれるハンガリーの国会議事堂(撮影:奥村盛人)

東欧の楽都で暮らす

 ドナウ川を中心に広がる美しい街並みが“東欧の真珠”とも形容されるハンガリーの首都、ブダペスト。日本人には馴染みが薄いが、リストやバルトークなど多くの作曲家を生んだ国でもあり、毎日のようにクラシックコンサートが開かれている。ブダペストはいわば東欧の音楽の都だ。原口さんは街の中心にある名門のリスト音楽院へ通い、卒業後もブダペストで暮らしながら一流の指揮者を目指して忙しい日々を送っている。一見、恵まれた環境で育った音楽エリートのように思えるが、不断の努力で道を切り拓いてきた苦労人だ。

父の死で自問自答

 原口さんは1978年、千葉県習志野市出身。中学から吹奏楽のトランペットにのめり込み、高校時代は音楽大学への進学を考えていた。ところが高校2年時に父、誠輝さんが病に倒れ、母の禎子さんが家計を支えることに。看護師だった禎子さんは月曜から金曜まで病院で働き、土日は別の救急病院にも勤務。毎日、息子の弁当まで作っていたという。禎子さんは「お金については私の問題。あんたは好きなことをしんしゃい」と言っていたそうだが、原口さんは何かと費用がかかる音楽大学を諦めて私大の教育学部へ進学し、音楽教師として20代を過ごした。“封印”していた音楽への思いが噴出したのは32歳の頃。長期闘病中だった誠輝さんの容態が悪化し亡くなるまでの約半日間、誠輝さんは原口さんの目をみつめながら手を握り続けたという。最後まで諦めずに生きる父の強い意志を感じた原口さんは自問をはじめる。自分は全力で人生を生きているだろうか-。本当にやりたいことは何なのか-。その答えはすぐに見つかる。

指揮者の下野竜也さんから指導を受ける原口さん(写真:上野学園大学提供)
指揮者の下野竜也さんから指導を受ける原口さん(写真:上野学園大学提供)

君は音楽家になれない

 誠輝さんの死から約1週間後に偶然出掛けた演奏会。指揮者の下野竜也さんが紡ぎ出すクラシック音楽に体が震えた。演奏が終わると楽屋のドアを叩き、下野さんに「先生の下で音楽を勉強させてください」と志願していた。下野さんはあぜんとしつつも「高校教師のままでいた方がいい」と冷静に諭したという。ここで諦めたら同じ事の繰り返しだと考えた原口さんは、その後も下野さんの指揮講習会を受講し、下野さんが当時勤めていた音楽大学も受験した。音大受験2年目で合格した原口さんだったが、下野さんから入学後に言われたのは「君は音楽家にはなれない。それを分かってもらうために入学させた」という言葉だった。

厳しい指導 そしてブダペストへ

 当初、指揮の用語が分からず指揮者のいろはも知らなかった原口さん。入学後も「教師に戻るべき」と繰り返す下野さんの指導は厳しいものだったが、原口さんにとっては音楽を学ぶ充足感から「とにかく毎日が楽しかった」という。彼の熱意は周囲の見方を変え、下野さんも「予想を覆し良くここまでやってきた」と認めるまでになった。そして36歳で単身、ブダペストへ。ヨーロッパでも有数の音楽大学、リスト音楽院の受講生となり、連日の猛勉強、猛練習を経て同音楽院の修士課程(大学院)まで進んだ。

リスト音楽院でピアノを学ぶ川本嵐さんとは数年来の友人。この日は川本さんの卒業コンサートの練習をしていた(撮影:奥村盛人)
リスト音楽院でピアノを学ぶ川本嵐さんとは数年来の友人。この日は川本さんの卒業コンサートの練習をしていた(撮影:奥村盛人)

応援する日本人の輪

 原口さんを知る日本人は「彼の頑張りを応援したくなる」と口を揃える。ブダペストで日本食レストランと日本人向けホステルを経営する峯田慶治さんもその1人。峯田さんは2年前から、ホステルの一室やレストランの余った食材を無償で提供。何と原口さんが通う語学学校の授業料まで立て替えたという。峯田さんは「最初に彼と会った時、金銭的な問題で日本に帰ろうと考えていたようだった。それって悲しいじゃない。自分も日本人の先輩たちに助けられたから同じ事をしただけ」と振り返る。当時、原口さんが教員時代に貯めた貯蓄は底をつきかけていた。もしも峯田さんがいなかったら今、原口さんはブダペストにはいないだろう。多くの日本人の無償の支えが彼の指揮を育んでいるとも言える。

原口さんは日本食レストラン「小町」で週6日働いている(撮影:奥村盛人)
原口さんは日本食レストラン「小町」で週6日働いている(撮影:奥村盛人)

心にあいた穴

 原口さんは2年前、好きだった音楽に向き合えない日々を過ごしていた。きっかけは出場したショルティ国際指揮コンクール。40カ国186人の応募者の中からアジア人として唯一6人のファイナリストに選ばれた(最終順位は5位)。ところがコンクール中に何度もコンプレックスが頭をよぎる。他の出場者は自分よりも音楽や指揮の経験が豊富。経験の浅い自分は彼らと同じ舞台に立つ資格がないのではないか-。不安に駆られ、その不安をかき消すように楽譜を読みあさる日々。準決勝から決勝まで約2ヶ月という長い準備期間がさらに原口さんの体力と精神を蝕んだ。コンクールが終わり「心に穴があいていた」事に気付いた時には、何度も遺書を書いては捨てを繰り返す状態にまで追い込まれていたという。それでも数ヶ月後に出場した別の指揮コンクール(初戦敗退)でリラックスして自由な指揮が出来たのをきっかけに気持ちを立て直し、現在は再び前向きに音楽と向き合う日々を送っている。

リハーサルで指示を出す原口さん。オーケストラの団員から信頼を得るのは簡単ではない(撮影:奥村盛人)
リハーサルで指示を出す原口さん。オーケストラの団員から信頼を得るのは簡単ではない(撮影:奥村盛人)

大事な舞台で力を発揮

 今年5月、原口さんはブダペストでオーケストラの指揮を任された。コンサートではショパンのピアノ協奏曲を2日続けて演奏する。本番に向けたリハーサルはわずか2日間。その期間中に音楽を作り上げなければならない。しかし、リハーサル中、団員達はスマートフォンをいじるなど集中できていないように私からは見えた。団員の一人は「ピアノ協奏曲なのにピアニスト抜きの練習が多すぎた」と解説してくれたのだが、素人の私は一抹の不安を感じながらコンサート当日の撮影に臨んだ。しかし不安は杞憂に終わった。盲目のピアニストが奏でるメロディを受け、オーケストラの演奏を美しく重ねていく原口さんの見事な指揮。コンサート終了後、観客は割れんばかりの拍手を送り、団員達も心から「ブラボー」と原口さんをたたえた。

コンサート後、日本人クラリネット奏者の小森夕理さんが「今日が一番良かった!」と原口さんをハグ(撮影:奥村盛人)
コンサート後、日本人クラリネット奏者の小森夕理さんが「今日が一番良かった!」と原口さんをハグ(撮影:奥村盛人)

夢を追う馬鹿な大人に

 現在41歳の原口さんの目標は「50歳までに指揮の仕事だけで食べられるようになる」こと。逆に言えば現状、峯田さんら日本人による支援がなければブダペストでひとり生きていく事すら難しいということだ。見る人によっては「他人に依存している」と厳しい目を向けるかもしれない。それでも信じた道を突き進む原口さんの努力は彼自身を支え、人生を輝かせているように見える。「40代でも夢を追う馬鹿な大人がいる事を日本の若者に知ってもらいたい」と熱っぽく語る原口さん。そんな彼を師匠のメドヴェツキー・リスト音楽院教授も「指揮者が最も充実するのは60~70代。彼にはまだまだ時間がある」と温かく見守っている。「そのうちビッグバンが起きると思っている」。そう力強く語る原口さんが努力を続けた先には、きっと大きな舞台が待ち構えているはずだ。

指揮者に必要なのは「音楽と他者への真摯さ」と語るリスト音楽院のメドヴェツキー教授(撮影:奥村盛人)
指揮者に必要なのは「音楽と他者への真摯さ」と語るリスト音楽院のメドヴェツキー教授(撮影:奥村盛人)