甲子園を夢見た台湾人 ~国境を越えた日本への想い~

1931年 嘉義農林学校 野球部一同(国立嘉義大学 所蔵)

 2018年、記念すべき100回目の全国高等学校野球選手権大会(以下、「甲子園大会」)が行われ、秋田県代表の金足農業高校の快進撃に甲子園球場と全国の高校野球ファンが沸いた。

 今から遡ること87年前の1931年、同じ農業学校で甲子園大会初出場ながら決勝まで勝ち進み、甲子園を沸かせたチームがあったことをご存知だろうか。

 嘉義農林学校。

 当時、日本が統治していた台湾の代表校だ。

 日本人の近藤兵太郎監督の厳しい指導のもと、日本人と漢民族と原住民(注1)の3民族混成の選手たちがはつらつとしたプレーで観客を魅了し、高校野球ファンの間では伝説のチーム“KANO”として知られている。その人気ぶりは文藝春秋創設者で小説家の菊池寛が当時の新聞に「実際甲子園に来て見るとファンの大部分は嘉義びいき」と記しているほどだ。

 今回取材した蔡清輝(さい・せいき)さんは甲子園に出場した先輩たちに憧れ、甲子園を夢見た球児の一人。近藤兵太郎監督の台湾での最後の教え子だ。

蔡清輝さん 嘉義農林野球部では捕手として活躍
蔡清輝さん 嘉義農林野球部では捕手として活躍

 今年90歳になった蔡さんの日常は、青春時代に慣れ親しんだ日本語で溢れている。

 日本語の本に囲まれながら日本語の手紙をしたため、NHKの番組を見ることが毎日の日課。中でも一番好きなのが『新BS日本のうた』。番組で流れた曲名をノートに記録し、音はカセットテープに録音して食事や散歩の合間に流して日本の古い歌謡曲を楽しんでいる。

 そんな蔡さんの青春時代、勉学とともに打ち込んだのが野球だった。1年生の頃から必死に練習し、近藤監督と先輩たちと共に甲子園を目指した。

 しかし、その努力は太平洋戦争の開戦とともに水の泡となる。

 野球は敵国アメリカの国技であることから、2年生の時に野球部の練習が禁止。3年生からは飛行場の整備などの奉仕活動に駆り出されることが多くなり、野球はおろか勉学さえままならない状態となった。1944年から嘉義でも空襲がはじまり、大規模な空襲で市街も多大な被害を受けた。1945年3月に学徒動員として召集され、アメリカ軍の上陸に備えた陣地構築などを行った。そして1945年8月15日、マラリアを患い治療中だった蔡さんは陸軍病院のベッドの上で玉音放送を聞き、終戦を迎えた。

 その後、台湾は国民党が率いる中華民国の統治となり、甲子園への夢は蔡さんの力の及ばぬところで断ち切られてしまうこととなる。

 終戦から73年後の今年、蔡さんは第100回甲子園大会の節目の年に嘉義大学・嘉義農林学校のOBたちと来日した。

 目的は二つ。

 ひとつは“KANO”の復刻版ユニホームを着て、初めて訪問する甲子園大会の開幕式に参加すること。そしてもうひとつは、近藤監督の故郷で戦後に引き揚げた地でもある愛媛県松山市を訪問し、墓前で手を合わせることだった。

 奥さんや4人の娘さんは、高齢のため健康を心配して訪日に大反対したそうだが、蔡さんは「どうしても日本へ行く」と、家族の反対を押し切っての旅だった。

 映像には入れ込むことができなかったが、日本で蔡さんは他にも嬉しい出会いがあった。

 嘉義農林学校の恩師で野球部部長を務めた濱田先生の息子さんとは当時の台湾の思い出話で盛り上がり、日本に引き揚げてからの濱田先生の暮らしぶりを知ることができた。嘉義で生まれ、終戦後に日本へ引き揚げた伊藤さんも宿泊先のホテルに車イスで駆けつけ、以前から交流がある蔡さんや嘉義農林OBのみなさんとの再会を喜んだ。

恩師・濱田先生の息子 洋光さん
恩師・濱田先生の息子 洋光さん
嘉義生まれで戦後日本に引き揚げた伊藤さん
嘉義生まれで戦後日本に引き揚げた伊藤さん

 印象的だったのは、体力の続く限り歩き続ける蔡さんの姿だった。

 観光地も含めいろいろな場所を訪れたが、今年の異常気象とも言える猛暑のなか、蔡さんは歩き続けた。同行していた嘉義農林のOBたちに支えられ、何度も「無理しないように」と声をかけられたが、ただ「大丈夫」とだけ返ってくる(旅の途中には皆の説得で車イスに座らされる場面もあった)。

 最後になるかもしれない日本の旅。“KANO”の文字が入ったユニホームを着た蔡さんは、まるで甲子園球場と近藤監督に「見られている」かのように、そして自分の歩く姿を見せつけるかのように、ゆっくりではあるが少しずつ歩を進めていた。

(注1)現地の呼称や少数民族の意見を尊重して「原住民」と表記しています

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】