10月31日「とんところ大地震」発災日―50年ごとの供養碑が日向灘地震(1662年)を伝承する

外所大地震追悼供養碑(2015年10月撮影)

■宮崎を襲った「とんところ大地震」とは

2015年現在から遡ること350余年前の1662年10月31日(寛文2年9月20日)の深夜、宮崎県日向灘沖でM7.5の巨大地震が発生した。押し寄せた巨大津波は、沿岸の7つの村をことごとく飲み込み水没させ、その中央には島ができたと伝えられている。死者は200人。全壊家屋3800戸。記録のある限りでは日向灘で最大の地震、「外所地震」である(「外所」は「とんところ」又は「とんどころ」と読む)。

10月20日、災害対策と個人情報の取扱いに関する説明会に講師として登壇すべく宮崎を訪れた。宮崎の災害史を調べると際立って大きいのが「とんところ大地震」だ。それを伝承する供養碑が今も宮崎市内に残っていることを知る。

宮崎市の沿岸部に広がるプロ野球球団のキャンプ地としても有名な「宮崎県総合運動公園」前のバス停を降りてすぐ。県道沿いの角地にその供養碑はある。350年前、この地の多くの暮らしが津波によって奪われたのだ。供養碑は宗教法人西教寺によって管理されているようだ。沿道に看板があるので比較的発見しやすい。

この供養碑にはきわめて興味深い特徴があった。

■50年に一度供養碑を建立し伝承

一見して明らかであるが、供養碑は1つではない。全部で7つある。過去の供養碑を残したまま、定期的に新しい供養碑が建立されて現在に至っているのだ。その間隔は「50年」。写真の一番右側の崩れてしまっている碑が「50回忌」。同じく崩れている右から二番目の碑が「100回忌」とされている(ただ、西教寺からいただいた資料によれば、1つ目の供養碑は1701年建立と地震から39年目である。従って真実の50回忌供養碑は所在不明ということのようである。)。多少の前後はあれ、50年ごとに新たに供養碑が建立されている。一番左の新しく大きな碑は「350回忌」。2007年(発災から345年目)に建立されたものだ。

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350回忌供養碑にはこう記されている。

寛文2年(1662)9月19日深夜子ノ刻(午前0時)日向灘を震源とした大地震あり、陥つて海に入る家屋246戸、水死者15人、と大災害に見舞われた。ここに外所大地震350回忌追悼供養を通し、諸々の犠牲を忘却することなく、大自然にたいし畏敬の念をもつことと、防災の大切さを後世に伝えたいがため、この供養碑を建立した。

手元にある「日本被害地震総覧(599-2012)」をめくっても、日向那珂郡(現宮城県)の被害状況について「沿岸7ヵ村・周囲7里35町(約32km)田畑8,500石余の地没して海となる。青島付近で3~4尺(0.9~1.2m)沈下」と記述されている。また、「海に入る家屋246戸、水死者15人」というのは当時の飫肥(おび)藩の津波被害状況のようだ。詳しい記録も供養碑による伝承があったからこそだろう。

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■防災の重要性を次の未来へ

生き残ったものたちが、津波災害の恐ろしさと凄惨な被害を未来に伝えるべく、石碑に思いを込めた。その思いは350年以上途切れることなく、50年ごとの供養碑建立という形で伝承されている。子孫の代にあっても実際に追悼供養の機会をつくり、目に見える形で「忘れない」工夫をしていることに敬服した。「震災遺構」が必ずしも永く保存できない場合などにおいて、きわめて有効な災害伝承の手段であると感じた。

宮崎県総合運動公園内、県道沿い、青島に続くビーチ等には、海抜表示や避難場所への誘導看板が所々にある。宮崎市は平地の広がる地形。高台も少ない。南海トラフ地震が発生した場合の浸水被害想定も相当深刻だ。7つの「とんところ大地震追悼供養碑」がある場所も当然ながら海抜は低い。350年前からの警告は決して忘れてはならないのだ。思いは必ずや400回忌、8つめの供養碑へと承継されてくことだろう。次の建立は計算上では2062年となるだろうか。

(ご協力・参考文献)

宗教法人西教寺(宮崎市大字熊野)

高橋和雄編著「災害伝承 命を守る地域の知恵」(第1章:原田隆典『歴史地震資料から学ぶ―1662年日向灘地震―』)(古今書院)

宇佐美竜夫「日本被害地震総覧(599-2012)」(東京大学出版会)