もと阪神タイガース投手 安達智次郎さんを偲んで… 

通夜と告別式の会場に展示された思い出の品々。これはタイガース入団当時の写真です。

7日午前1時49分に肝不全のため亡くなった、もと阪神タイガース投手・安達智次郎さん(享年41)の告別式が9日、地元の神戸市長田区で行われました。8日のお通夜、9日の告別式とも行かせていただいたのですが、合わせて700人近い参列だったとのこと。タイガースの関係者やOB、学生時代のチームメイトと同窓生、また長らく監督を務めた少年野球チーム『神戸美蹴館ロケッツ』の卒業生やスクールの教え子たちが詰めかけました。

安達智次郎投手は兵庫県神戸市の村野工業高校から1992年のドラフト1位で指名され、阪神タイガースに入団。同期は竹内昌也投手(NTT東北)、米村和樹投手(熊本商大附属高)、片山大樹捕手(徳山商高)、山本幸正投手(堀越学園高)、塩谷和彦捕手(神港学園高)、山下和輝外野手(プリンスホテル)、豊原哲也外野手(小倉東高)です。6人もいた高校生の中で、ピッチャーの米村投手、山本投手とは特に仲がよかったと記憶しています。

その米村和樹さんからの電話で亡くなったことを知りました。「安達が…」と少し言い淀んだ米村さん。安達さんがよく投稿していたLINEのタイムラインに「また入院します」「退院しました」と記されていたので体調が良くないことは感じていたものの、その文面はいつも彼らしい明るさを伴っていて、重い病気だと思ってもいませんでした。まさかという言葉しかありません。まさか、こんなに早く逝ってしまうとは。

告別式で挨拶をされたお兄さんによると、やはりこの2年ほどは入退院を繰り返していたそうです。昨年12月1日に退院して2日から店を開き、LINEでも書いていた通り「12月24日から正月までノンストップ!」で営業。1月2日に容態が悪化して入院後、帰らぬ人になりました。もしかして何かを感じていたのかと。きっと無理をしてでも、みんなに会いたかったんじゃないかと思ってしまいます。通夜の席で、安達さんの翌年に入団した井上貴朗さんが「頑張りすぎたんでしょうね。最後まで安達さんらしい」とつぶやいた、まさにそういう人です。

野球チーム『神戸美蹴館ロケッツ』の帽子と集合写真など。
野球チーム『神戸美蹴館ロケッツ』の帽子と集合写真など。

阪神タイガースには1993年から7年間、また打撃投手として2000年から3年間在籍。その後は三ノ宮で焼酎バー『ロケットボール』を経営しながら、中学生の野球チームで監督を務め、小学生も指導をしたり、野球をする子どもたちのために一生懸命でした。何かのインタビューで、どんな境遇にある子どもたちも野球ができるような何か、を考えていると答えていた安達さん。「僕が45歳くらいまでに」と続けた言葉の、その夢はまだ途中だったのでしょうか。

今だに浮かぶ詰襟姿の“安達くん”

初めて会ったのは1992年のドラフト会議が終わった翌日か数日後、大阪市北区茶屋町にあるMBS毎日放送のスタジオでした。まだもちろん兵庫・村野工業高校の生徒なので、黒い詰襟の学生服だった安達智次郎投手。背が高くて、手足が長くて、関係ないけど顔が小さくて、とても“雰囲気”を持っていました。でも笑顔は高校生そのものです。放送局が珍しいのか、あちこちキョロキョロ見回していたことも懐かしく思い出されます。

子ども時代からプロ入りまでの写真やメダル、甲子園出場の記念品など。
子ども時代からプロ入りまでの写真やメダル、甲子園出場の記念品など。

太田幸司さんがパーソナリティーのラジオ番組で、毎年ドラフト会議が終わると阪神をはじめ指名選手にゲスト出演していただくコーナー。でも放送時間が平日の夕方だったこともあり、ほとんど電話での生出演だったんです。まだ携帯電話も少なかった時代に、この前年の阪神ドラフト1位・萩原誠選手(大阪桐蔭)などは自動車教習所まで電話をした記憶が…。そういえば安達投手と同じ頃に電話出演した巨人・松井秀喜選手(星稜)が、同い年とは思えないほど落ち着いていたのは驚きましたねえ。

安達投手はMBSテレビにも出て、そのあとのラジオ出演だったような気がします。わざわざ来てくれたことに感謝を述べると、逆に「呼んでもらって嬉しい」とニコニコ。スタジオの空気にも動じず、達者な、それでいて年相応で好感の持てる受け答えでした。関西人らしく笑いもしっかり取って。歯を見せて大らかに笑うところや、周囲を楽しませるところは入団してからも、そして現役引退後もまったく変わりません。決して驕らず、さりげなく気を配り、チームメイトやマスコミにも慕われて、みんなが「いい人」だと口を揃えるくらい。

帽子を飛ばす全力投球が魅力です

2011年12月、タイガース・ジュニアチームの投手コーチを務めた安達さん。
2011年12月、タイガース・ジュニアチームの投手コーチを務めた安達さん。

ルーキーイヤーの1993年は、これまた私事ですが…CSテレビのGAORAでタイガースのウエスタン・リーグ中継が始まった年でもあり、かなり印象に残っています。1993年、1994年はまだ鳴尾浜球場ができておらず、ほとんどは甲子園での開催ですが『浜田球場』での公式戦もありました。客席どころか座る場所もままにならない中、ファンの皆さんは熱心に金網越しの小虎を応援されていたんですよね。

安達投手は、5月11日のウエスタン・リーグ近鉄戦(藤井寺)が初登板初先発。球数やイニングの制限もあり3回で予定終了でしたが、ヒットは2本で無失点と上々です。しかも1回から3回にかけて6連続三振という内容!まだ140そこそこの球速だったものの、この三振はすべて真っすぐで奪取。投げた時に帽子が飛ぶくらい常に全力投球でした。この帽子は自分でもバロメーターにしていて「きょうはええ飛び方やった!」という具合に分析してくれます。

この年は9月末からはファームの河野監督はじめ37人でアメリカ教育リーグに参加。また1994年に同期の塩谷選手と、1996年には田中秀太選手(1995年入団)と、これは2人だけでシーズン中の6月から約3ヶ月間アメリカへ行っています。確か1996年はヒジか手首かを痛めて、途中で帰国したような。それを確認しなくちゃと、まだ本人に電話をしようとしてしまう自分がいて、…困りました。

投げた日はわかりやすく上機嫌!

もう1枚、ジュニアチームの亀山努監督(中)、吉田浩コーチ(左)とともに。
もう1枚、ジュニアチームの亀山努監督(中)、吉田浩コーチ(左)とともに。

投球フォームに悩み、サイドから投げたりした安達投手。肩やヒジの故障など辛かった時期は何度もあったはずです。それに1995年は阪神淡路大震災で、自主トレもままにならない状況。この時のことは、1年前に書いた記事でご覧ください。この取材が最後の会話になってしまうとは思いませんでした。<阪神・淡路大震災から20年 あの朝、鳴尾浜では…(2)>

ちょうど安達智次郎から『安達克哉』に改名した年だったんですね。キャンプで脇腹を痛めてしまったものの4月末にはだいぶ上がってきて、登板後は「投げるのが嬉しい!もっと投げたい」と上機嫌でした。でも春先は、投げられないことに相当へこんで「全然おもしろくない。もうどうでもいい」と愚痴まで。いつもプラスにとらえて前を向く安達投手には、とても珍しいことです。「表に出さないようにした」と言うように顔や態度には出ていなかったと思います。だから余計に、あとにも先にも二度となかった、あの愚痴が印象深く残っているのかもしれません。

1995年5月10日の中日戦(鳴尾浜)でプロ初完投勝利。「5回までと言われていて、気がついたら9回やった」と笑っていました。いや気づくよ、普通。8回くらうには。そう言うと「ほんまやって!気ぃついたら9回やったんよ。ガハハ!」と大笑い。この日は打席で犠牲フライやヒットを放ち「高校時代も9番やけど結構打ってますよ。きょうの、ええバッティングやったでしょ?」と自画自賛でした。

中学に入るまではファーストだったし、陸上選手のように素晴らしいフォームで走る安達投手が外野手に転向したのは1998年。この年で何より一番に思い出すのは、鳴尾浜に初めて救急車がやってきたことです。安達選手も同じでよく覚えていたから、2人で話をするたびに思い出して笑っていました。いや、笑い話にできて本当によかったと思えるくらいの事故だったんですけどね。

あの激突事故を語らせると秀逸

下の写真でおわかりのように6月20日の広島戦で、6年目の安達選手が3番ライト、5年目の高波文一選手が1番センター、2年目の関本健太郎選手が2番セカンドでした。5回表の守備で、センター前と内野の間に上がった打球を追う関本選手と、前進してきた高波選手が激突!そのまま2人とも倒れてしまい、それを見た安達選手は「めっちゃテンパってて…目の前に転がってきたボールを拾って、投げなあかん!と思ったら三塁ベンチに放ってしもた」と。

1998年6月20日の試合結果。懐かしい名前があります。
1998年6月20日の試合結果。懐かしい名前があります。

私は現場にいなかったはずですけど、テレビで見ていたのか?しっかり覚えています。この時、高波選手は意識がなく「僕は覚えていないけど、あとで安達さんが一部始終を説明してくれたのでわかっていますよ。僕らがぶつかった時点から、自分はテンパって三塁ベンチへ放ってしまった。それから戻って、まったく動かない僕らを見て『うわ~これアカンわ。死んだんちゃうか…』と思ったことまで細かく言ってたので」と笑いながら話してくれました。

高波さんは安達さんの1つ年下で、平尾博司選手(大宮東)、井上貴朗投手(佐倉)と同期。悲報に接し「びっくりしました。病気だというのは聞いていたけど、こんなに早く…。行きたかったです。すごく可愛がってもらったので。面倒見がよくて、本当にいい先輩でしたね」としみじみした口調です。

安達選手自身はぶつかったわけじゃありませんが、この出来事を誰より近くで見ていたこともあって、以降も“語り部”として重要な役割を果たしていくわけです。何度聞いても内容がぶれないところ、そして何度聞いても笑わせるポイントはさすがでした。でももう聞けない。身振り手振りと絶妙な顔の表情も、もう見られないんですね。

ちなみに高波選手は左頬骨や顎などの骨折で入院、手術。復帰は球宴明けでした。関本選手は右の頬骨弓骨折ですが、数日の安静ののち1週間後にもう出場しています。そうそう、この印象深い試合でプロ初登板初先発したルーキーの奥村武博投手(土岐商高)は、4回途中まで7奪三振の好投。その奥村さんは退団後に一生懸命勉強して、今は公認会計士になっています。きのうの告別式にも横浜から駆けつけ、目を真っ赤にして遺影を見つめていました。

「みんなを見送ってから逝きました」

告別式に参列した阪神タイガースの高野球団本部長は「ひとことで言うと、ええ男です。誠実で真っすぐな、ええ男。いろいろ辛いこともあったと思うし、ドラフト1位の重圧もある中、弱音を吐かずプロらしく生きたと思います」とコメント。また関本賢太郎さんは「残念としか言いようがない。楽しい思い出しかありません。悔しいです」と話しています。参列したタイガースの先輩、後輩、OBの方々、皆さん一様に無念の表情でした。まだ41歳、見送るには早すぎます。

弔辞を述べたのは村野工高でバッテリーを組んでいた小平さんで、ゆっくり休んでほしいと、そして最後に「ありがとう!」と大きな声での締めくくりでした。出棺では、やはり高校のチームメイトだった西武・黒田哲史2軍コーチらによって担がれた棺が車に乗って出発するまで、ゆずの『友~旅立ちの時~』が流れていました。そういえば式でのお焼香の時も読経ではなく、安達さんが好きだったケツメイシなどの曲だったんですね。

帰り際、安達さんが監督を務めた少年野球チーム『神戸美蹴館ロケッツ』のOBで、今は高校3年生の子たちがズラリと並んでいました。どんな監督だったか尋ねると「楽しかった。おもしろかった!でも厳しくて怖い時もあった」と言います。体調を崩して監督を退いた安達さんに「中学を卒業したあとは長いこと会っていなくて…。もっと会いにいけばよかった」と言葉を詰まらせる子も。大丈夫、これからも安達監督は楽しく厳しく見守ってくれていますよ。だから頑張りましょう!

思い出の品とともに飾られた写真。辛さや苦しさをしまい込んだ、穏やかな笑顔です。
思い出の品とともに飾られた写真。辛さや苦しさをしまい込んだ、穏やかな笑顔です。

お礼の挨拶をされたお兄さんが「病気のことは何も言わず、兄の私ですら知ったのは昨年の11月だった」とおっしゃいました。どこまでも周りを思いやる人ですね。また最後の日は、お見舞いの方やお兄さんが引き揚げた直後、静かに息を引き取ったそうです。見送られるのではなく「みんなを見送ってから、ひとりで逝きました」とお兄さん。「そんな智次郎を忘れないでいてください」という言葉が胸に残っています。忘れません。安達くんがみんなにくれた笑顔も、優しさも、タテジマのユニホーム姿も。