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撃墜された中国の気球はADS-Bを発信していなかった

JSF軍事/生き物ライター
アメリカ本土に侵入した中国の高高度気球(提供:Chase Doak/ロイター/アフロ)

 2月4日午後(アメリカ東部時間)、アメリカ軍は本土領空に侵入していた中国の高高度気球(高度2万メートル以上を飛べる特殊な気球)を、南東部サウスカロライナ州マートルビーチ沖の上空でF-22戦闘機のAIM-9X空対空ミサイルによって撃墜しました。目標が巨大な気球で吊り下げている機材も数十メートルもあったため、民間の被害が出ないように陸上の上空での撃墜を避けて大西洋に出るまで待ってからの撃墜です。 

 撃墜の前にアメリカ政府は中国の偵察用の気球だと断定して領空侵犯であると名指しし、中国は自身の所属の気球だと認めるも民間の大気観測用の気球が不慮の事故で迷い込んだものとしています。撃墜に対して中国は民間の気球に武力を使う必要は無かったと激しい抗議を行っており、米中関係が悪化する火種となりかねません。

気球がADS-Bを発信していなかったのは何故か?

 アメリカ軍は撃墜した気球の残骸の回収を行っており、分析によってどのような目的の機材だったか判明するでしょう。なお中国は民間の気球だと主張していますが、民間のどの組織がどの地点から気球を放球したかは説明していません。そしてもう一つ気になる点があります。今回の気球はADS-Bを発信していませんでした。

ADS-B(放送型自動従属監視)

 ADS-BとはGPSなどの衛星測位システムを利用して、航空機が自らの位置を発信して外部からの追跡を可能にするシステムです。航空関係者のみならず「フライトレーダー24」などのアプリを使えば民間の一般人でもチェックすることが可能です。

 このシステムは気球にも搭載できます。過去の民間の気球を使った実験だと、「Loon計画」という気球を用いたインターネット接続実験の高高度気球がADS-Bを発信していたことがあります。一方で撃墜された中国の気球は一体なぜADS-Bを発信していなかったのでしょうか? 

 国際的にADS-Bを発信する義務があるわけではないので(国によっては既に義務化)、これをもって民間の気球ではないと言い切ることは出来ませんが、長距離を飛ぶ予定であるなら追跡にも便利で安全も高まるので、民間の機材ならばADS-Bを搭載して発信していた方が自然です。軍事目的の機材だったならば隠密に作戦を行いたいのでADS-Bの発信はされません。

高高度気球の軍事利用

 高高度気球を軍事偵察に使う方法は冷戦時代の初期に計画されていたことがありますが、有人の高高度偵察機や偵察衛星の実用化によって廃れていった方法です。現代では無人偵察機の登場や偵察衛星の高性能化でますます偵察用途で気球の出番があるようには思えません。

 代わりに近年では「成層圏プラットフォーム」という発想が登場して、高度2万メートルの成層圏に気球や飛行船や無人機を滞空させて、通信などに使おうという方法が考案されています。この成層圏プラットフォームの軍事利用としては通信以外では防空システムのレーダーや赤外線センサーなどを搭載する案もあります。

 ただし成層圏プラットフォームを自国の警戒システムに使おうという発想はあっても、敵国の領空に侵入する用途での偵察に使おうという発想は見当たりません。気球や飛行船ではいくら高高度を飛んでいても敵が本気で攻撃してきたら撃墜されてしまいます。

 そうすると気球を軍事偵察に利用する方法としては、それこそ「民間の観測気球に成り済ます」という、相手が攻撃せず見逃してくれることを期待するような投入方法しかないでしょう。

 偵察衛星ではなく気球である優位点としては、同じ場所で滞空し続けることで、通信や電子信号の傍受(SIGINT)という面で有利になり得ます。偵察衛星でもSIGINT衛星はあるのですが、地球を周回している以上はずっとその場で傍受し続けることはできず、通過時の前後しか傍受が出来ません。気球ならばこれを「その場で立ち止まって聞き続ける」ことが可能になります。

 また電離層で反射されてしまう低周波数の通信はSIGINT衛星では傍受できませんが、電離層よりも低い高度を飛ぶ気球ならば低周波数の通信も傍受することが可能です。

変わったところでは、SIGINT(Signal Intelligence)用の衛星が存在する。SIGINTというと通常は陸上の固定施設、航空機、あるいは艦船を使用するものだが、宇宙空間で傍受を企てるのがSIGINT衛星だ。

ただし、電離層で反射されてしまう低周波数の通信、例えば短波(HF : High Frequency)通信は宇宙空間まで出てこない(だからHFによる遠距離通信が成立する)。そのため、電離層を突破して宇宙空間まで出てくる、高い周波数の電波だけが傍受対象になり得る。

出典:第124回 軍事とIT 人工衛星(3) 偵察衛星 | 井上孝司 | 2016/02/04

 ただし短波は大容量の情報伝送には不向きで使い難いので、軍事無線通信ではあまり重要な用途では使われていません。

過去の気球の撃墜例

 実は高高度気球の撃墜については先例があり、中国軍が過去に実施しています。2019年に中国空軍のJ-10C戦闘機がPL-10空対空ミサイルを用いて高高度気球を撃墜した動画が公開されています。

7日,中国空军发布精彩视频,显示我歼-10C战斗机击落一个空中目标! 

「中国空軍は7日、我が軍のJ-10C戦闘機が空中目標を撃墜したことを示す素晴らしいビデオを公開しました!」

该目标,很可能是外国超高空侦察气球!

「目標は外国の超高高度偵察気球のようです!」

出典:歼10C发射霹雳10导弹击落外国超高空侦察气球(图) - 新浪军事 | 2019年9月9日

 記事では『超高高度気球は我が軍が何十年も戦ってきた「旧友」であり・・・』とあり、昔からよくあることだと示唆しています。それは冷戦初期に実際に投入されていた軍事偵察気球だったのかもしれません。また民間の大気観測用の気球だったのかもしれません。この2019年の事例では気球の正体は判明していないようです。

 2023年のアメリカでの気球撃墜事例では中国が気球を飛ばしたことまでは判明しています。その用途は民間の観測用だったのか、軍事偵察用だったのか、残骸の調査結果で判明するでしょう。ただしこの事件はあまりにも政治的なものになりすぎてしまったので、よほどはっきりした証拠の提示と説明が無ければ納得させることは難しくなります。

軍事/生き物ライター

弾道ミサイル防衛、極超音速兵器、無人戦闘兵器、オスプレイなど、ニュースに良く出る最新の軍事的なテーマに付いて解説を行っています。

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