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気象証明と気象鑑定 昭和の巌窟王・吉田石松さんの無罪の決め手となった名古屋地方気象台の気象証明

饒村曜気象予報士
気象証明のイラスト

気象証明と気象鑑定

 気象庁では、気象業務法に基づき一般からの依頼があれば、過去の特定の場所、日時の気象状態について、気象証明や気象鑑定を行い、証明書・鑑定書の発行を行っています。

 気象証明は自然現象に関する過去の事実を確認できる場合に行い、気象鑑定は過去の周囲の観測資料をもとに科学的に事実を判断できる場合に行います。

 たとえば、「平成○○年△△月□□日○○時の東京都千代田区大手町における気温は△△度である。」というのは気象証明で、「平成○○年△△月□□日○○時の○○町における天気は××だったと推定する」というのが気象鑑定です。

 また、依頼書自体に記載された気象現象等の内容について、その事実を観測記録等で確認する「奥書証明」も行っています。

 裁判では、刑事事件も民事事件も、判断材料としてそのときの気象状態がどうだったのかということが大きなキーポイントとなることがあります。

 また、保険金がおりるかどうか(過失があるかどうか)の判断材料にも、気象状態は重要です。

たとえば、「その日は雨が降っていて、ずぶぬれになったので服を捨てました」という容疑者の供述は、「その日は雨の可能性はほとんどない」という気象鑑定があった場合には、信ぴょう性が小さいということがいえるでしょう。

 あるいは、非常に強い風が吹いたという気象証明は、「風には注意していたが、予想を上まわった強い風による事故で、風に対する備えを怠っていたわけではないので、責任は軽減される」という主張をあと押ししてくれるでしょう。

 この気象鑑定が、50年間にわたって無実を訴えていた人の冤罪を晴らす決め手となったことがあります。

昭和の巌窟王

 昭和38年(1963年)2月28日、名古屋高等裁判所で吉田石松さんの無罪判決があり、裁判長が人道上の観点から異例の陳謝をしています。

 大正2年(1913年)8月13日夜の名古屋市千種区の路上で小売商が殺された事件において、被疑者2人の男性(当時22歳と26歳)が無関係の石田石松さん(当時34歳)を主犯とする虚偽の供述をし、自分たちの罪を軽くしたというのが真実で、有名な冤罪事件の一つです。

 吉田石松さんは拷問でも終始否認を続けましたが、一審では「従犯」とされた2人に無期懲役、吉田石松さんに死刑が言い渡されました。

 その後、控訴審、上告審では無期懲役が言い渡され、実刑が確定して服役しました。

 吉田石松さんは、その後も冤罪を訴え続け、事件から50年後の無罪判決でした。

 なお、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説「モンテ・クリスト伯(Le Comte de Monte-Cristo)」を原作とした黒岩涙香の翻案小説「巌窟王」の主人公に似ていることから、吉田石松さんのことを、「昭和の巌窟王」と称することがあります。

 吉田石松さんのアリバイが成立するという判決の重要な決め手となったのが、名古屋気象台の気象鑑定と残されている関係者の供述調書の矛盾でした。

 とはいえ、吉田石松さんは、無罪判決当時、既に高齢で体力も衰えて自力歩行ができなくなっており、判決から9か月後の昭和38年(1963年)12月1日に老衰と肺炎で永眠しています。

 享年84歳で、このうち50年間は冤罪による犯人扱いでした。

事件当時の気象証明

 大正2年(1913年)8月13日は、日本海西部に低気圧があって、東明地方は概ね晴れていました(図)。

図 地上天気図(大正2年(1913年)8月13日22時)
図 地上天気図(大正2年(1913年)8月13日22時)

 しかし、名古屋の気象台がある千草区では18時過ぎから弱い雨が降りはじめ、19時から20時までの1時間に1.2ミリ、20時から21時までの1時間に0.1ミリの雨を観測しています(表)。

表 名古屋の大正2年(1913年)8月13日の1時間降水量
表 名古屋の大正2年(1913年)8月13日の1時間降水量

 気象庁ホームページにはのっていませんが、観測原簿などに残されている観測資料なども使って名古屋地方気象台では気象証明を行い、それが判決に大きく影響しています。

判決文の抜粋

ところでM1方は愛知県西春日井郡k村字lであるが、同所は旧名古屋市の周辺に文字どおり接着した地区で、名古屋気象台の観測場所たる同市中区r町から、北方わずか二粁位しか離れていないから、名古屋市とおうむね同一気象状況にあつたものとみてよかろう。しかるに、被告人が当日午後七時までL1硝子工場で働いていて、職工長L3にその仕事をひきつぎ、それから夕食をすましM2と外出したことは前掲各証拠によつて疑ないから、被告人がM1方附近で遭つた夕立は、名古屋気象台の右回答書にある第二回目の雨、すなわち午後八時三十分頃から降りだした夕立であると認められる。(右気象台の回答書にも北北西の方向に雷鳴があつた旨の記載がある)してみると、その夕立雨の降りだした時刻について前記のごとく、M3は午後八時頃と言い、M1は午後八時前とのべまたM6は午後八時前後と言つていて、同人等の表現に多少の相違はあつてもほぼ八時頃と一致した供述をしているけれども、これには約三十分位の時間のずれがあつたことがわかる。したがつて被告人が午後八時頃工場を出て五、六丁離れた八王子神社に参詣し、そこから数丁位のM1方附近にいたつて、屋内の様子を窺ううちに夕立雨に遭つたという被告人の供述こそ、時間的にももつとも事実に適合しているようにおもわれる。

ところで被告人が附近をぶらついていたM1方はL1方硝子工場の北方数丁位の地点であるから、そこから本件犯行現場までの距離は昭和三十二年(お)第二号再審事件における当高等裁判所第三部の検証調書によると、大約四粁余と推認せられ、当時この間をむすぶ適当な交通機関がなかつたことは当裁判判所に顕著である。そうだとすると、午後九時二十分夕立が降りやみ、M1方を辞去したM4等と同家附近でいきあつている被告人が、夜間、当時の田舎道をどんなにしても、午後九時四十分ないし四十五分頃までに四粁余を距てた本件犯行現場にいたることは、とうてい不可能といわねばならない。まして被害者B1は先きに触れたように、Fという繭問屋へ繭を荷車で運搬した帰途、偶々hへ行こうとして難に遭つた通行人であるから、同人の通りがかるのを見かけた附近の番小屋に住むA1、A2の如き者ならば、共謀して犯行をなすことも容易であるが、当時のような交通の未開の時代において、四粁余を距てた場所にいる被告人と、共同謀議をとげ実行行為を分担しうる余地のあろう道理がない。

タイトル画像の出典:饒村曜(平成11年(1999年))、イラストでわかる天気のしくみ、新星出版社。

図の出典:デジタル台風(国立情報学研究所のホームページ)。

表の出典:気象庁ホームページ。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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