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「天気晴朗なれども波高し」日本海海戦の日は、勝利に貢献した小栗忠順上野介が無実の罪で処刑された日

饒村曜気象予報士
横須賀市の三笠公園にある東郷平八郎の像と世界三大記念艦「三笠」(写真:イメージマート)

日本海海戦

 今から117年前の明治38年(1905年)5月27日、対馬沖の日本海で、日露戦争勝因となった海戦が行われています。

 ロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊による日本海海戦です。

 日露戦争は、日本とロシアの戦いでしたが、日本の後ろにはロシアの勢力拡大を阻止しようとするイギリスとアメリカがいました。

 しかし、英米とも、日本が勝つとは思っておらず、ロシアが疲弊してくれれば良いと考えていたといわれています。

 しかし、日露戦争での日本海海戦は、入念な準備で引き寄せた日本海軍が有利となる「天気晴朗なれども波高し」という気象状況の中で行われ、日本海軍の圧勝で、日露戦争で日本が勝つ大きな要因となっています。

 明治38年(1905年)5月27日、中央気象台(現在の気象庁)予報課長の岡田武松(32才)は、6時の天気図をもとに、朝鮮半島北部にあった発達した低気圧は日本海北部に去るため、対馬海峡付近は天気が晴れるものの、等圧線の間隔が狭いので風が強く、波も高いという予報をたてています(図1)。

図1 中央気象台が作成した天気図(明治38年5月27日6時)
図1 中央気象台が作成した天気図(明治38年5月27日6時)

 そして、ただちに大本営に「天気晴朗ナルモ波高カルヘシ」という予報文を送っています。

 大本営はこの予報文を、朝鮮半島の鎮海湾にいた東郷平八郎連合艦隊司令長官に送っています。

 仮装巡洋艦「信濃丸」がロシアのバルチック艦隊が対馬海峡に向かっていることを発見した直後でした。

 信濃丸は、欧州航路用に建造された日本郵船の船ですが、日露戦争が始まると海軍に徴用され、仮装巡洋艦に改造されています。

 正規の巡洋艦を作るよりも時間と経費を節約できるのですが、装甲等の防備力は弱く、砲弾が当たると簡単に沈むというのが仮装巡洋艦です。

 しかし、最新の無線通信機を積んでいました。

 東郷平八郎は艦隊を出撃させ、同時に、大本営に対して暗号と平文の混合した電文を打っています。

アテヨイカヌ ミユトノケイホウニセッシ ノレツヲハイ ハタダチニ ヨシス コレヲ ワケフウメル セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ

(解読)敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。

 最後の部分は、主席参謀の秋山真之中佐が平文で付け加えたもので、岡田武松の予報を簡潔に言い切っています。

 秋山参謀は、日本海軍が有利となる「視程が良くて波が高い」という気象状況の中で戦いが行われるということから、勝てるという確信で戦えと士気を鼓舞したのではないかと思います。

波が高いとバルチック艦隊より連合艦隊の方が有利

 ロシアは中国の旅順を基地に太平洋艦隊を持っていましたが、日露戦争が始まると連合艦隊によって主力艦艇が旅順港に封じ込められ、日本海北部に面したウラジオストクにある少数の艦隊以外は軍事行動ができなくなっています。

 このため、太平洋艦隊(バルチック艦隊)を大規模に編成して極東のウラジオストクに派遣し、極東での海軍力の増強が計画されました。

 バルチック海(バルト海)に面したロシア北西部の軍港・リバウ(現在はラトビア共和国のリエパヤ)を、明治37年(1904年)10月15日に出発したバルチック艦隊は、日英同盟でイギリスがスエズ運河の大型艦通過を認めなかったことからアフリカの希望峰をまわる大回りで極東に向かっています。

 しかも、イギリスの植民地であったケープタウンやシンガポールでは寄港して補給することができなかったことから、補給に手間どり、日本近海にくるのに7ヶ月もかかっています。

 しかし、巨砲を積んで攻撃力が強く、厚い装甲で防御力が強い戦艦は、海防戦艦を含めて11隻、高速で動き回れる巡洋艦9隻など、38隻からなる大艦隊は驚異でした。

 これに対し、日本の連合艦隊は、戦艦が4隻と少なかったものの、次々に砲弾を発射できる速射砲を多く積んだ高速の巡洋艦23隻など、合計108隻という数で対抗しました。

 また、数だけでなく、全艦船に最新の無線通信装置を搭載し、連携をとりながらの戦いを考えていました。

 連合艦隊は、三六式無線機(明治36年(1903年)採用)を戦艦「三笠」や巡洋艦などの大型艦艇から搭載をはじめ、日本海海戦時には、仮装巡洋艦も含む、駆逐艦以上の全艦艇に装備していました。

 グリエルモ・マルコーニ が大西洋横断無線通信に成功したのは、三六式無線機採用のわずか2年前、明治34年(1901年)12月のことです。

 当時、どの国の海軍でも全艦船には無線通信機を積んでいませんでした。

 つまり、無線については、世界一の装備でした。

 当事の海戦は、打った砲弾の着水をみて修正し、次の弾を打ってその着水をみて更に修正してゆく方法ですので、天気が晴朗で視程が良いと的中率は上がります。

 しかし、波が高くて船が揺れると命中率が下がってきます。

 波が高い海域での撃ち合いでは、手数の多い方が有利です。数打ちゃ当たるです。

 バルチック艦隊は、巨砲を打ったあと、次の弾を打つのに時間がかかっていますが、連合艦隊は連携しながら速射砲で次々に砲撃をして命中させています。

 加えて、バルチック艦隊が極東にくるまで時間がかかったことから、その間に日本海軍は猛練習をして技術を磨き、波が高いことによる的中率の低下を最小限にくいとめていました。

偶然ではない連合艦隊の圧勝

 日本海海戦の行われた対馬沖は、低気圧通過後の晴天で視程が良いものの等圧線の間隔が狭く、風の強い状態(波が高い状態)が続いていました(図2)。

図2 地上天気図(左は明治38年5月27日14時、右は5月27日22時)
図2 地上天気図(左は明治38年5月27日14時、右は5月27日22時)

 その結果は、バルチック艦隊の被害は21隻が沈没、日本軍の拿捕が6隻、中立国に逃げ込んだもののそこで拘留が6隻と、小型艦6隻しか生き残れませんでした。

 これに対して、連合艦隊の被害は、魚雷を発射して敵を攻撃する小型の水雷艇が3隻沈没しただけで、主力艦は総て温存という、世界を驚愕させた日本海軍の圧勝でした。

 連合艦隊が有利となる天気である「天気晴朗なれども波高かるべし」という予報は、偶然適中したのではなく、適中させるための準備が行われていました。

 日本は中緯度にありますので、天気は西から移動します。このため、正確な天気予報のためには、日本の西に位置する国々の気象観測が重要となりますが、上海やアモイ、マニラなど欧米各国の支配地域にある一部の地点しか気象観測が行われていませんでした。

 このため、日露戦争の可能性がでてくると、中央気象台では既に気象観測が行われているところからの情報入手に努めるとともに、明治27年(1894年)の春頃から増員をおこない、臨時観測所の増設等を行っています(表)。

表 日露戦争直前の臨時観測所等の増設
表 日露戦争直前の臨時観測所等の増設

 そして、これらの気象観測結果も使って、「天気晴朗なれども波高かるべし」という精度の高い予報が出されています。

東郷平八郎の小栗忠順への感謝

 連合艦隊司令長官で、薩摩藩出身の東郷平八郎は、日露戦争で勝利をおさめたあと、江戸幕府重臣の小栗忠順の遺族を自宅にまねき、ロシアに勝てたのは、小栗忠順さんが横須賀造船所を作るなど、近代化を進めてくれたお陰と感謝しています。

 安政7年(万延元年、1860年)、江戸幕府は、安政5年(1858年)に締結した日米修好通商条約の批准書交換のため、新見豊前守正興を正使とする使節団を米国に派遣しましたが、このとき、遣米使節目付として渡米したのが旗本の家に生まれた小栗忠順です。

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、武田真治が演じていますが、小栗忠順はアメリカで、近代産業の発展に驚愕し、ワシントン海軍工廠を見学した際に、落ちていたネジを近代産業の象徴として持ち帰り、常に手元に置いていたといわれています。

 帰国後は、幕府の勘定奉行として幕府の財政再建を図り、一大プロジェクトとしてフランスの援助を受けて横須賀造船所を作っています。

 船だけでなく関連するものを作る総合工場で、学校も併設されて人材育成が行われました。

 欧米から高度な製品を買うのではなく、自前で高度な製品を作れる技術者を育成したのですが、横須賀造船所が完成してまもなく、大政奉還になります。

 大政奉還のとき、薩長への徹底抗戦を主張した小栗忠順は罷免され、所領のある上野の権田村(現在の群馬県高崎市)へ退いています。

 しかし、官軍は権田村に戻っていた小栗忠順を捕らえ、謀反の疑いがあるとして処刑しています。

 日本海海戦の37年前の同じ日、慶応4年(明治元年、1868年)5月27日のことです。

 小栗忠順上野介の墓所がある群馬県高崎市の東善寺の村上泰賢住職は、著書「小栗さま」のなかで、小栗が作った横須賀造船所を、次のように表現しています。

富岡製糸場は横須賀造船所の妹

中島飛行機(現在のスバル自動車)と呉の海軍工廠は横須賀造船所の弟

近代化した生野銀山は横須賀造船所の機械と工具で作った義弟

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、主人公の渋沢栄一(演:吉沢亮)らが口にしたように、小栗忠順が生きていたら、日本はもっと早く、もっと大きく発展していたかもしれません。

 「一年先に幕府はどうなっているか分からないが、いつか幕府のしたことが日本の役に立ち、徳川のおかげで助かったと言われれば名誉なことだ」

 小栗忠順の言葉です。

図1、図2の出典:原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」。

表の出典:半澤正男(1993)、検証・戦争と気象、銀河出版。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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