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「おかえりモネ」とアメダスという「おなまえ」 アメダス生みの親は三陸移住

饒村曜気象予報士
宮城県のアメダス・気仙沼市気仙沼と登米市米山の位置

「日本人のお名前」と「おかえりモネ」

 NHKの朝ドラ「おかえりモネ」の主人公、永浦百音(愛称モネ)は、宮城県の気仙沼市で生まれ育ち、高校卒業後は宮城県登米市の森林組合で働いています。

 第9週(7月12日~16日)は、平成28年(2016年)3月の話でした。

 気象予報士試験に3回目で合格した百音が、下宿をしている新田サヤカさんの後押しもあり、家族に気象予報士として仕事をするという決意を伝えて東京に旅立つという所まで話が進んでいます。

 NHKの「日本人のおなまえ(7月15日放送)」では、「おかえりモネ」とのコラボで、スペシャルゲストは、主人公の永浦百音を演じる清原果那さんなどでした。

 そして、天気予報の「三種の神器」の一つ、「アメダス」という「お名前」を取り上げていました。

 筆者は、この番組に協力・出演した関係もあり、ここでアメダスについて深堀りします。

「三種の神器」

 歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いだという三つの宝物を「三種の神器」といいます。

 八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ 別名;草薙剣(くさなぎのつるぎ))、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の3つです。

 これから転じて、揃えていれば理想的なものや、必要なものを3つあげ、「三種の神器」と呼ぶことがあります。

 昭和29年(1954年)ころから、電気洗濯機、白黒テレビ、電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ、昭和40年(1965年)ころには、カラーテレビ、クーラー、自動車が「三種の神器」と呼ばれました。

 現在の天気予報でも「三種の神器」と呼ばれているものがあります。

 それが、天気図と気象衛星・気象レーダー、そしてアメダスの3つです。

アメダスとは

 アメダス(AMeDAS)とは、気象庁の気象状況を時間的、地域的に細かく監視する「地域気象観測システム」のことで、英語表記 「Automated Meteorological Data Acquisition System」の頭文字です。

 昭和49年(1974年)11月1日に運用を開始して、現在、降水量を観測する観測所は全国に約1,300か所(約17キロ間隔)あります。

 このうち、約840か所(約21キロ間隔)では降水量に加えて、風向・風速、気温、湿度(運用開始から昨年までは日照時間)を観測しているほか、雪の多い地方の約330か所では積雪の深さも観測しています(図1)。

図1 アメダス観測所の例 4要素(降水量、風向・風速、気温、湿度)と積雪深を観測
図1 アメダス観測所の例 4要素(降水量、風向・風速、気温、湿度)と積雪深を観測

 5月27日(木)の第9話の放送は、林間学校の植樹体験後、斜面から落ちた時に足をくじいた小学生と一緒に百音が山で雷雨に遭い、遭難するシーンでした。

 百音が、朝岡覚気象予報士のことを思い出して電話し、雷雨の見通しや避難の方法について聞いたとき、朝岡覚気象予報士は、「1分待ってください。こちらで調べます」といって、アメダスなどの気象観測データなどを調べています。

 そして、アドバイスは「風向が変わり雨足が弱くなったときに避難小屋へ移動。よく風の音を聞いて」でした。

 この時に、朝岡気象予報士が見ていたのは、地図をメッシュごとにくぎり、雨量階級に応じて色をつけた、アメダス観測値をもとに作られた予報画面です。

 アメダスの膨大な数値データを一目で把握するためには、このようなメッシュ画面が有効ですが、最初にこの方法を使ったのはNHKで、昭和58年(1983年)のことです。

 そして、その視覚的インパクトが強かったため、アメダスの認知度が一気に広がったといわれています。

 今ではあたりまえになっている方法ですが、当時は、アメダスの観測値を整理する表を作るのがやっとの時代でした。

 筆者が気象庁予報課で予報業務を始めたころは、予報官が電卓を使って手計算でアメダスの総降水量を求め、情報を作っていました。

 しかし、あっという間にコンピュータ技術が進歩し、アメダスを使った情報の質と量が様変わりしています。

気仙沼と登米(米山)のアメダス

 「おかえりモネ」の舞台となっている気仙沼市気仙沼と登米市米山には、ともにアメダス観測所があり、45年以上ものデータが蓄積され、平年値や極値などの統計値が得られています(タイトル画像参照)。

 この観測データを用いると、気仙沼の最高気温は東京の平均気温くらいです(図2)。

図2 東京の平均気温と気仙沼の最高・平均・最低気温
図2 東京の平均気温と気仙沼の最高・平均・最低気温

 このような気候の中で百音が成長したのです。

 平成26年(2014年)から永浦百音が働き始めた米山(登米)と、気仙沼の最高気温を比べると、1月と12月は差がほとんどありませんが、ほとんどの月は米山(登米)のほうが高くなっています(図3)。

図3 米山(登米)と気仙沼の気温差
図3 米山(登米)と気仙沼の気温差

 また、最低気温は、冬期間は米山(登米)のほうが低く、夏期間は米山(登米)の方が高くなっています。

 百音は、海で囲まれている気仙沼市から、内陸にあって夏と冬の寒暖差が大きい登米市で林業の仕事を始めたのです。

 そして、気仙沼や米山(登米)より気温が高い東京で、気象予報士としての仕事を始めるのです。

アメダスの生みの親

 アメダスは、筆者が若いころ、気象庁の予報課で予報業務に従事していた時の予報部長・清水逸郎さんが、観測部の高層課長であった時代に、さらに上司の観測部長だった木村耕三さんが、考えたすえにつけたと聞いています。

 つまり、名付け親は、木村耕三さん、仕事で各地を回っているうちに、百音が生まれ育った三陸が好きになり、定年後は三陸(岩手県大船渡市)に移り住んだ人です。

 アメダスが誕生するまでは、観測が人の手で行われていたために観測所の数を増やすことは大変でした。

 また、データの報告速度や誤差に限界がありました。

 先の将来に向けて、防災を強化する必要があり、そのために気象状況をきめ細かく、より迅速に把握することが急務でした。

 そこで、木村耕三さんたちが「地域気象観測システム」を考えたのですが、木村耕三さんの頭の中にあったのは、中国での戦争体験と聞いています。

 太平洋戦争中、招集されて中国東北部で天気予報の責任者だった木村耕三さん、気象観測データは全くありませんでした。

 そこで、考えたのは、各地の兵士に現在の天気、例えば、晴れとか雨とか見た状況をそのまま報告させ、それを利用して天気予報を行ったそうです。

 気象観測とはいえないような単純なことでしたが、それでも、多くのデータを直ちに集めることが天気予報の参考になったそうです。

 アメダスの、できるだけ多数の観測データを直ちに集める、というアイデアは、ナイナイづくしの戦争中に生まれたといえるでしょう。

 観測した多くの情報を、気象庁に送るために木村耕三さんが目をつけたのは、一般の電話回線でした。

 当時、データを遠くへ送るためには専用の通信回線が必要で、多額の費用がかかりました。

 一般の電話回線が利用できれば、費用が抑えられ、その分だけ観測所の数が増やせます。

 今となってはあたりまえですが、一般の電話回線でのデータのやりとりは、日本で初めての試み、前人未到なアイデアでした。

 したがって、国の機関である電電公社が、電話回線のデータ通信への開放を決めた最初の事例はアメダスです。

 電電公社は、昭和60年(1985年)4月1日に民営化され、NTTが誕生しています。

 NTTは、平成11年(1999年)に再編され、NTT東日本、NTT西日本、NTTコムが誕生していますが、主な事業はデータ通信です。

 アメダスがなければ、きめ細かな予報はできなかったと思いますので、画期的で偉大な業績と思います。

1時間毎の通信でも観測は10分毎

 気象庁では、アメダスにより、1時間ごとに多くの観測所からの観測データを集めることで、リアルタイムでしかも正確な防災情報を出すことに成功しました。

 ほとんど知られていませんが、木村耕三さんは、将来を見据えてちょっとした工夫をしています。

 それは、1時間毎に観測データを集め、それを利用するのですが、観測は10分ごとに行い、6回分の観測をまとめて1時間毎に送るという工夫です。

 電話回線で観測データを集めるのは1時間に1回しかできないという予算事情の時でしたが、観測は10分ごとに行うという、木村耕三さんのアイデアです。

 筆者が観測部統計室の補佐官だった平成7年度(1995年度)に、統計室では特別チームを作り、10分間データのデータベースを作っています。

 毎正時(00分)のデータは、コンピュータ処理され、広く使われる時代になっていましたが、毎正時以外の10分、20分、30分、40分、50分のデータについては、品質管理で即時的に使われただけで、そのまま特殊形式のフォーマットで塩漬け状態でした。

 アメダス開始の約20年後のことでしたが、10分毎の観測データが復活できたというのも、木村耕三さんたちの工夫があったからです。

 今では、アメダスの有効性が認識され、予算をかけても予算以上のものが得られることがわかっていますので、通信料に苦労したというのは過去の話になっています。

 百音に対して朝岡気象予報士が「10分先の天気がわかります」といえるのも、10分ごとのアメダスの観測データが45年以上にわたって蓄積された結果です。

アメダスというネーミング

 気象事業は各国の協力のもので成り立っています。

 このため、観測・予報データだけでなく、観測方法や予報の手法、技術者の育成方法なども、各国と情報交換が行われています。

 「地域気象観測システム」は、世界に先駆けて構築した時間的・地域的に細かく監視するシステムでしたので、英語表記が必要となり、清水逸郎さんが英語名「Automated Meteorological Data Acquisition System」、略号「AMDAS(アムダス)」を提案しています。

 部下のアイデアを聞いていた木村耕三は、大文字のMのあとに小文字のeをいれて「AMeDAS(アメダス)」としたほうが「雨出す」のようでおもしろいからそうしようといい、決めています。

 つまり、アメダスの略号に小文字のeが入っているのは、「気象(Meteorological)」だけ、頭文字と2番目の文字を使っているからです。

 「地域気象観測システム」だと、硬くて何を示しているものかわかりにくいと思いますが、気象観測の重要な柱である雨の観測を連想できる名前にしたことで、非常に良いネーミングとなりました。

 木村耕三さんもそれを意識していたのではないかと思います。

 ただ、NHKでアメダスという言葉を使ったところ、「NHKがなまるのは良くない。正しく発音し、雨ですといえ」というクレームがきたという話を聞いています。

 また、雨だけでなく風を観測する「カゼダス」を作ってくださいという、誤解からの要望も少なくなかったと聞いています。

「アメダス村」と「へそのアメダス」

 アメダスという言葉の浸透には、NHKの放送が大きく寄与したことには間違いがありません。

 アメダスが設置されている市町村の名前は、NHKだけでなく、民放でも連呼されますので、周辺の市町村より全国的に名前が知れ渡っています。

 このため、地域振興に「アメダス」を使った例がいくつかあります。

 「日本人のお名前」で紹介されていたのは、「アメダス村」、岡山県新見市千屋地区の別名です。

 アメダスの観測所が置かれたこから、「千屋」の地名は一躍全国区になりました。

 「日本人のおなまえ」という番組では、「アメダスが置かれてから、あのアメダスのある千屋でしょって言われることが多くなった」という地元住民の証言が放送されました。

 また、それにあやかった村民が地元をもっと盛り上げようと、「アメダス村」と命名、建国を祝して「アメダス祭り」を開催し、大盛況であったということも紹介されました。

 アメダスによる地域振興は、岡山県新見市千屋地区だけではありません。

 「へそのアメダス」というのも、その一つです。

 日本の中心「日本のへそ」は、人口をもとにした中心とか、面積をもとにした中心とか、中心の決め方によって場所が変わります。

 このため、各地に「日本のへそ」があり、地域振興に「へそ」を使っている自治体は少なくありません。

 このうち、兵庫県西脇市は、日本標準時間を決める基準となっている東経135.0度の線と、北緯35.0度の線の交差点があることから、「日本のへそ」のまちとしてPRしています。

 そして、その交差点には「日本へそ公園」を作り、近くにあったアメダス観測点・西脇の移転を気象庁に働きかけています。

 つまり、アメダスの西脇は、東経135.0度、北緯35.0度にあり、「へそのアメダス」となっています。

 「おかえりモネ」は、第10週(7月19日~23日)から東京編に入ります。

 このドラマは、実際におきた気象や社会のできごとを、細かいところまで忠実に取り込んでいますので、設定である平成28年(2016年)におきたことと密接にリンクする東京編と思います。

 百音が気象予報士として、アメダス観測データなどを使ってどのように活躍をするのか、今から過去資料のネット検索が楽しみです。

 大災害が発生すると、全ての人の人生に影響を与えます。

 被災地の真ん中にいた人の中には、妹の未知のように、吹っ切れたかのように開き直って目標を立て、それに向かって突き進む人がいます。

 たままた被災地を離れていた被災地の住人の中には、百音のように「震災の時に何もできなかった」という思いを引きずる人がいます。

 朝ドラ「おかえりモネ」の土曜日案内役、サンドウィッチマンのように、たまたま被災地にいて、その惨状を実際に見たことでその後の行動が変わった人もいます

 百音を演じる清原果那、未知を演じる蒔田彩珠、若手実力派の2人による今後の姉妹の行方にも興味がそそられます。

タイトル画像、図2、図3の出典:気象庁資料をもとに筆者作成。

図1の出典:気象庁ホームページ

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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