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東海地震と日露和親条約と北方4島

饒村曜気象予報士
日本地図(GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ)

安政東海地震

 「東海地震」「東南海地震」「南海地震」「日向灘地震」といった南海トラフと呼ばれる海溝で発生する地震は、西日本が乗っているユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが年間数cmの速度で沈み込むことでひずみのエネルギーがたまり、そのひずみが100から150年ごとに限界に達して発生しています(図1)

図1 東海道・南海道沖における巨大地震発生年
図1 東海道・南海道沖における巨大地震発生年

 南海トラフをいくつかの領域に分けると、どの領域も周期的に地震を発生させており、規模の大きな地震は、複数の領域にまたがって発生しています。

 南海トラフ東部で発生する巨大地震は連動することが多く、嘉永7年11月4日(以下、カッコ内の日付以外は旧暦、1854年12月23日)に安政東海地震が、翌11月5日(12月24日)に安政南海地震が発生しており、差は32時間でした。

 なお、嘉永7年は自然災害が相次いだことなどから改元されて安政となっています。当時は、改元すると1月1日に遡って適用されていますので、嘉永7年に発生した南海地震は、安政南海地震と呼ばれます。

 安政南海地震のとき、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県広川町)の豪農で、関東の醤油業(現在のヤマサ醤油)で財をなした浜口儀兵衛(梧陵)の行動をもとに小泉八雲が書いたのが「A living god(生ける神)」です。

 日本のことを書いた英語教材がほとんどなかった明治から大正時代、「A living god」が教員を養成する全国の師範学校の英語読本となっています。

 また、尋常小学校(現在の小学校)5年生向けに、「A living god」を子供向けに書き直した国語読本「稲むらの火」を使って、事実上の防災教育が行われていました。

 浜口儀兵衛は、従者に路傍にあった稲むら(刈り取った稲を積み上げたもの)に次次に火をつけさせ、逃げ惑っている人が高台に避難するための道しるべとしたのです。このため、多くの人の命を救ったのですが、浜口儀兵衛の功績はこれだけではありません。

 次にくるであろう南海地震に備え、堤防を作ったのです。この堤防が92年後の昭和南海地震の津波から、住宅街を守っています。浜口儀兵衛は未来の人も助けたのです(図2)。

図2 広村堤防
図2 広村堤防

 そして、浜口儀兵衛が津波に立ち向かい、少しでも被害を減らすことができた地震であることから、安政南海地震が発生した11月5日は「津波防災の日」となっています

 

ロシアとの和親条約

 安政南海地震にめげずに浜口儀兵衛が活動していた頃、安政東海地震にめげずに活動していた人達がいました。

 その結果が、嘉永7年12月21日(1855年2月7日)に結ばれた日露和親条約です。

 嘉永7年3月3日にアメリカのペリーが、江戸湾に9隻のアメリカ艦隊が睨みをきかしているなか、約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現横浜市)に上陸して結んだのが日米和親条約(神奈川条約)です。

 その結果、日本は下田(現静岡県下田市)と箱館(現北海道函館市)を開港し、徳川家光以来200年以上続いた鎖国が終わっています。

 アメリカに続き、イギリスが嘉永7年8月23日に日英和親条約を結びました。

 当時、クルミア戦争をイギリスと戦っているロシアも、プチャーチンを派遣し、イギリスの目を避けながら交渉を行って12月21日に伊豆の下田で日露和親条約を結びました。

 それも、11月4日の安政東海地震の津波によって下田が大きな被害を出した直後です。

 プチャーチンの乗ってきたディアナ号は、繰り返し襲う最大6メートル以上の津波で大破しました。このため、イギリスの目を避けて伊豆国の君沢郡戸田(へだ)村(現在の沼津市)で修理することになりますが、曳航中の11月27日、暴風雨により宮島村(現在の富士市)沖で座礁、その後沈没しています。

 なお、ディアナ号の高さ4メートル、重さ3トンという巨大な錨は、昭和29年(1954年)に引き上げられたものが沼津市戸田の造船郷土資料博物館前に、昭和51年に引き上げられたものが富土市三四軒屋の緑道公団(通称「錨公園」)に展示されています。

ロシアとの国境線

 ロシアとの交渉は、武力による威嚇とは無縁の状態でおこなわれ、平和裏に日露和親条約が締結されています。

 日露和親条約では、千島列島は択捉島以南を日本領、ウルップ島以北はロシア領に、また、樺太については国境線を決めず、両国民の混在地となりました。

 その後、日本とロシアの国境は幾多の変遷がありますが、最初の合意が、この時の日露和親条約です。

日本初の本格的な西洋船

 戸田村には、幕府の許可のもと船大工等が集められ、ロシア人の指導の下で3ヵ月の突貫工事が行われ、全長25メートルの木造様式の帆船が建造されました。

 異人とは付き合うなという昔からの幕府の掟はありましたが、異国で地震と嵐の被害を受けた乗組員へ村人の好意があったのではないかと思います。プチャーチンが「へだ号」と名付けたのは、感謝の意味があったのではないでしょうか。

 「へだ号」は、ディアナ号よりかなり小さい船でしたが、これが日本初建造の本格的な西洋船です。プチャーチン等はこれに乗って帰国し、後に「へだ号」はロシアから幕府に献上となります。

 「へだ号」は堅牢で操船が容易と評判になり、はからずも近代造船技術を身につけた戸田の船大工たちが、戸田村だけでなく、江戸石川島をはじめ、各地で「へだ号」と同様の船、つまり、君沢形と呼ばれる船をつくります。

 明治初期の沿岸航路の商船は、君沢形が花形でした。

 日本開国というとアメリカのペリーの功績が大きく、あまりにも有名ですが、ロシアのプチャーチンも日本へ造船技術の伝承など、大きな役割をしており、正当な評価が必要と思います。

 日本周辺では繰り返し巨大地震が発生しています。その繰り返しの周期は、私たちの世の中の変化より、はるかに長いものです。

 安政南海地震の92年後の昭和21年(1946年)12月21日、南海地震が発生しましたが、164年後の現在も東海地震は発生していません。

 地震に対する警戒は、自分たちの代だけでなく、孫子の代まで続けてゆかないと、役立ちませんが、まずは日頃の備えと常に新しい情報入手が大事です。

図1の出典:饒村曜(2012)、東日本大震災 日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。

図2の出典:著者撮影。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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