観天望気の諺と日和見(ひよりみ)という商売
観天望気は今でも重要
昔から人々は天気予報のため空を見上げ、動物の動きとの関係を考えてきました。そのことを「観天望気」といいます。
その結果、諺が生まれ、後世に伝えられ、利用されてきました。
天気予報がなかった時代、重宝されていたというより、それしか自分の身を守る術がないので、人々は重視していました。
「観天望気」は、科学的手法で作られた天気予報が使われている現在においても、その役割は残っています。
気象庁では、「竜巻注意情報が発表された場合には、まず周囲の空の状況に注意を払ってください。黒い雲が接近するなどの積乱雲が近づく兆候が確認された場合には、丈夫な建物に避難するなど身の安全をはかってください。」と呼びかけているのは、その一旦です。
例えば、20キロメートル先に積乱雲があれば、その積乱雲が時速20キロメートルで動いているとすると、最悪1時間で頭上にやってきます。積乱雲の周囲で落雷が発生している場合は、数十分で落雷の可能性があるということで、「観天望気」で避難を呼びかけているのです。
きめ細かく、1時間先までの予報の精度は高くないので、「竜巻注意情報」が発表されたときには、「観天望気」を行って、気象庁の発表する情報を補って欲しいという考えからです。
勿論、数時間先、半日先…などの天気の予報は、「観天望気」よりも精度が高い予法です。あくまで、狭い範囲の1時間先までの予報について、「竜巻注意情報」で危ない可能性があるときには、「観天望気」で補って欲しいという考えです。
日和見と呼ばれる職業があった日和山
日本各地に日和山と呼ばれる場所があります。
例えば、信濃川河口で、北前船の寄港地として栄えた新潟湊では、日本海がよく見渡せる小高い砂山が日和山で、海上の安全を祈願した日和山住吉神社がありました。
そこでは方角石が置かれ、雲の濃淡や形、動きなどを観測し、湊の船に気象情報を提供する日和見という商売が行われました。
現在の気象庁の予報官や民間の気象予報士の仕事が江戸時代にもあったのです。
日和山近くには、回転する狛犬がある湊稲荷神社があり、新潟花柳界の遊女達は、狛犬をまわしながら長逗留となるよう逆風(向い風)祈願をしたといいます。一方、長逗留となると非常に困る荷主達が順風(追い風)祈願をした白山神社も近くにあります。
それぞれの目的で日和見を聞いていたのです。
大正11年(1922年)にこの地を訪れた北原白秋は、有名な童謡「砂山」を作詞しています。しかし、この年に完成した大河津分水は、信濃川下流の低湿地は広大な美田に生まれかわらせるとともに、河口に運ばれる土砂を減少させ、海岸浸食によって鳥取砂丘と並び称されてきた広大な新潟砂丘を消しています。
蛙の天気予報
新潟県柏崎で17世紀頃にできた三階節には「米山さんから雲が出た 今に夕立が来るやらピッカラチャッカラドンガラリンと音がする」が繰り返し出てきます。これは、柏崎海岸から標高993メートルの米山がよく見え、これを使った天気予報です。
静岡県民謡「ちゃっきり節」があります。静岡鉄道の遊園地のコマーシャルソングとして昭和2年(1927)に北原白秋が作詞したもので、「きゃある(蛙)が鳴くんて雨ずらよ」という囃子詞が各フレーズで入っています。
作詞を依頼されて逗留していた静岡市の花柳地で聞いた言葉を使ったのですが、これは、湿度が高くなり雨の可能性が高くなると蛙の活動が活発になると説明される諺ですが、中央気象台(現在の気象庁)の調査でも裏付けられている天気予報です。
気象事業が始まった頃、科学的な視点で「観天望気」や「諺」の見直しが行われ、有効なものは残すということが積み重ねられてきました。
科学技術が進歩したといっても、自然界には分からないことが沢山あります。昔のことであっても、使えるものは使う、あるいは、将来に繋がるヒントが隠れてるかもしれないという目線が大事だと思います。