二二六事件は、雪が降っているときの事件ではない
降雪中に起きた三大事件として、多くの場合、
赤穂浪士討ち入り(元禄15年12月14日、1703年1月30日)、
桜田門外の変(安政3年3月3日、1860年3月24日)、
二二六事件(昭和11年2月26日、1936年2月26日)があげられます。
気象観測が行われていない元禄15年と安政3年の雪の詳細は分かりませんが、昭和11年については、大手町に中央気象台(現在の気象庁)があり、詳しい雪の観測が残されています。
大手町は、事件のあった永田町から約2キロメートルと距離が近いので、大手町の雪の観測は、ほぼ永田町の雪の観測とみなせます。
それによると、二二六事件は、降雪中の事件ではありません。
中央気象台の観測
昭和11年2月26日に中央気象台で雪を観測したのはの8時8分からです。毎時降水量は、9時から18時まで0.1ミリ以上です(表1)。
昼頃からは、1時間降水量が1ミリ以上(1時間降雪量が約1cmに相当)と、やや強い雪が降っています。
昭和11年(1936年)2月26日、陸軍の青年将校らを中心に、1468名がクーデターを起こし、斉藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣ら9名が殺害されるという「二二六事件」が発生しています。
「二二六事件」の反乱軍が兵営を出発したのが4時すぎで、首相官邸などの襲撃があらかた終わったのは、雪が降り始める1時間前の7時頃です。
映画やテレビなどでは、降雪の中での反乱軍兵士の出動が描かれることが多いのですが、これは脚色で、実際には、まだ雪は降っていません。
3日前の南岸低気圧による大雪が残るなか、曇りの天気の中の事件です。そして、最高気温が0.3度、最低気温が氷点下2.2度、平均気温が氷点下1.3度の寒い日の事件です。
大雪をもたらした南岸低気圧
昭和11年(1936年)2月22日に台湾の北東海上に発生した低気圧は、発達しながら本州南岸を進み、関東地方に記録的な大雪をもたらしました(図1)。
東京の23日の積雪量は36センチ(35.5センチ)と、140年以上の東京の観測で、明治16年(1883年)2月8日の46センチ、昭和20年2月22日の36センチに次ぐ、史上3位の記録です
関東地方で大雪となるのは、このように、本州の南岸を低気圧が通過するときです。最近では、平成26年2月15日に27センチと史上8位の記録がでましたが、このときも、南岸を低気圧が通過しています。
低い気温が継続
2月22日の大雪の後、気温が低い状態が続いたため、積雪はなかなか減りませんでした(表2)。
大雪の3日後の26日朝、「二二六事件」がおきています。26日朝の積雪量は12.6センチ、翌27日の降雪量は20.0センチと前日に比べて約7センチの増加です。
26日は、雪が降っていますが、残っていた積雪の方が多いのです。
昭和11年2月の東京は、快晴(日平均雲量が2.5未満の日)が5日、晴(日平均雲量が2.5以上7.5未満の日 )が8日、曇(日平均雲量が7.5以上の日)が11日、雪(降水量にして1.0ミリ以上の雪が降った日でみぞれも含む)が5日です。
20世紀前半の東京の2月は、今より気温が低く、雪も多かったのですが、それでも、まとまった雪の日は3日くらいですので、昭和11年は、東京で雪の多かった年ということができます。
また、北陸や東北地方の日本海側では1月から2月に大雪となっています。
強い寒気が南下し、冬型の気圧配置が強まって日本海側に大雪となる一方、ときどき南岸低気圧が通過して太平洋側でも大雪が降っていたというのが昭和11年の冬です。
また、昭和11年の冬は、昭和凶作群(昭和6年に東北と北海道、昭和7年に北日本、特に北海道、昭和9年に北日本、昭和10年に北日本と東日本と、毎年のように発生していた冷害)により北日本の農家が疲弊し、困窮のピークに達した年でもあります。
このような背景もあって起きたのが二二六事件です。
陸軍では対応策がなく混乱していましたが、昭和天皇が激怒され、自ら近衛兵を率いて鎮圧に向かうとの意思をお示しになったため、陸軍は決起部隊鎮圧へと向かうことになります(図2)。
事件後、岡田啓介首相は辞職、以後、軍部の政治的発言権が強まっています。
図1の出典:饒村曜(1999)、イラストでわかる天気のしくみ、新星出版社