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阪神淡路大震災から22年 防災に役立つのはハイテクとローテクの組み合わせ

饒村曜気象予報士
焼け跡 阪神淡路大震災(ペイレスイメージズ/アフロ)

今から22年前の平成7年(1995年)1月17日、淡路島北部の野島断層付近を震源とする兵庫県南部地震が発生しています。神戸と淡路島に大きな被害が発生し、阪神淡路大震災と名づけられました。

多くのインフラが停止しましたが、私が予報課長として勤務していた神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)では、大地震があっても通常通りの業務を行っています。

そのとき、防災に役立つのは、パソコン通信などのハイテクだけではダメで、壁新聞などのローテクと組み合わせることが大事と感じましたが、その考えは、今も同じです。

ハイテクのパソコン通信

阪神淡路大震災が発生する頃は、経費があまりかからない一般電話回線を用いたパソコン通信が盛んになっていました。

当時のハイテクというと、一般電話回線を用いたパソコン通信で、これが有効で役立ったという報道が多かったように思います。ただ、皆が使える手段ではありませんでした。

しかも、信用できる情報かどうかという問題が生じていました。

個人個人が正しいと思って情報を入力し、発信しても、結果的に全体像が誤って伝えられることになっても、それが善意である以上、有効な対策が取れると思います。

しかし、地震後3日くらいから、イタズラでの入力や、被災者の情報を流用して商売をしようとするなど、全体から見るとごくわずかですが、パソコン通信の自殺行為が始まっています。

なお、携帯電話は、普及し始めた頃で、ごく少数の人しか持っていませんでした。

携帯電話を持っている人は、普段通りに通信ができましたが、現在のように携帯電話が普及してくると、大地震発生時に、普段通りに使えるかどうかは分かりません。

ハイテクの技術は、どんどん進歩していますが、同時に、いろいろな欠点も露呈しています。

これを、おぎなうのが壁新聞などのローテクの技術です。

威力を発揮した壁新聞

地震発生後、変わったことというと、職員同士、何かいい情報、例えば、風呂屋の情報などの交換が盛んになりました。助け合いのコミュニケーションが良くなりました。

この中で威力を発揮したのがローテクの壁新聞です。

自分の知り得た情報を紙に書いて貼る壁新聞は、時間があいたときにゆっくり読めました。

また、自分の持っている情報を書き込めて、それを他の人が利用できました。

これが一番良い方法とみえて、気象台だけでなく、地震後訪れた他の防災機関はどこでも壁新聞がベタベタと貼られていました。

携帯電話の普及と手回し充電式ラジオ

地震のあと、携帯電話の普及が加速しました。

私も地震直後に買いましたが、そのときは、まだまだ少数派で、多くの人は公衆電話(災害時に電話がつながりやすい)に長蛇の列を作っていました。

それが、あっという間に多くの人が持つようになり、今はスマートフォンの時代です。

このように、ハイテク機器の普及が進んでいます。

一方、地震後に販売されている防災グッズの中に「手回し充電式ラジオ」が入るようになっています。

手回しで充電してラジオで情報を聞くというもので、保管している防災グッズの中にあるラジオが電池切れで使えなかったという反省からつくられました。

手回しで充電という技術はローテクですが、保存期限を考えなくてもよいことや、発展途上国では電池代も払えない人でも使えるというメリットがあります。

心打つ張り紙の映像

良かったテレビ番組に、公共広告機構(AC)が 2月上旬から繰り返し放送をしたテレビスポットがあります。

私は広告というより、地震報道の一種と感じていました。

神戸市東灘区に住む電通の石井達也デイレクターの「人救うのは人」というキャッチコビーを使ったもので5種類ありました。

図 公共広告機構「水 自由に使ってください」の画面
図 公共広告機構「水 自由に使ってください」の画面

全国向けには、作家の瀬戸内寂聴さんの「あの戦争ですっかり焼け残った中から立ち上がったのですもの。人救うのは人しかいない。」と数学者の森毅さんの2種類の呼びかけが、繰り返し、かなりの頻度で放送されていました。

関西向けには、「水 自由に使って下さい 飲めません」という井戸水のところにあった貼り紙(図)、「人手がたりません」の張り紙、「ファイト」の張り紙の映像だけを映してナレーションを流す3種類がありました。

ローテクの代表である「張り紙」が、被災地では心をうち、役立っていたのを使ったものです。

地震の3週間後に受けたラジオのインタビュー

地震から約20日後の2月8日にNHKラジオの取材を受けました。

横山義恭チーフアナウンサーと上田良夫チーフディレクターが、なんとしても被災された方々の声を聞き、それを放送で伝えたいということでした。

当時は、メチャクチャな交通渋滞で、自動車が思うように使えないため、二人は機材を担いで徒歩で取材を続けている最中とのことでした。

簡単な打合のあと、約20分間にわたってテープレコーダーを回しながら行われました。

2月15日のラジオ放送では、取材された内容がほとんどカットされずにそのまま放送になっています。

また、一連の放送のうち、私を含めた31人分について、「31人のその時 証言・阪神大震災(彩古書房)」という証言集が作られていますが、下記は、その中にある、地震発生3週間後の生活情報交換についてのくだりです。

横山:あれから3週間近く経ちますが、初動のときと、順次気象台の方の思いというのは変わってきたと思うんです。初めのころは緊張もあったでしょうし、また疲れもずいぶん残ったり、ご自身のお宅も被害に遭った方も多かったと思うんですけれども。

饒村:幸いなことに、気象台の職員、及びその家族に死傷者がいなかったので、それで多分皆さん一致団結してやれたんでじょうけれども、ただ、多くの方が亡くなっておりますし、当たり前の仕事が当たり前に出来るというのはすごいなという感じが、今、改めてしております。

横山:日常の業務が滞りなく出来るということですか。

饒村:そうですね。多分どこも同じだと思うんですが、普段でしたら、例えば簡単に車で物を取りに行ける。それが今は、大渋滞に巻き込まれて、それ一つでさえ大変な作業であるというように、これは気象台だけではないんでしょうけれども、ほんのちょっとしたことにも、皆さん非常に苦労しながら、いろいろな活動をされている。これが私の感じでございます。…あと、情報交換が盛んで,今度あそこの店が開いたとか、今度あそこの風呂屋が開いたとか、そういうコミュニケーション、これは非常に良くなりまして、何かいい情報を持ってきたらみんなに伝える。それによってみんなが行って、また新しい情報があれば伝える。そういう意味でコミュニ ケーションはよくなったという感じがします。

横山:助けあっていると。

饒村:そうですね。助け会いですね。役に立つ情報はみんなに伝えると。逆にみんなからも役に立つ情報を貰おうということで、助け合いがあちこちに出来ているというのが私の印象です。

出典:「31人のその時 証言・阪神大震災(彩古書房)」より

図の出典:饒村曜(1996)、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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