気象災害の死者を減らすため、日中国交回復前から気象情報を中国からもらっていた

中国 天安門(写真:アフロ)

昭和47年9月29日、田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化の共同声明に調印したことにより、日中の国交回復が樹立しています。しかし、その16年前から、中国では日本の要望に応え、気象情報を日本に提供しています。

戦後の天気予報が当たらない原因

戦後の日本は、天気予報がよく外れました。そして、台風や前線などによる災害が相次いでいます(表)。

表 戦後の死者・行方不明者500名以上の気象災害(理科年表より)
表 戦後の死者・行方不明者500名以上の気象災害(理科年表より)

当時、その最大の原因と考えられていたのは、中国大陸からの気象観測データが入ってこないことです。第二次世界大戦後に再燃した中国内戦の結果、昭和24年に中華人民共和国が誕生していますが、朝鮮戦争で、北朝鮮人民共和国軍に義勇兵を送って参戦したことから、西側諸国との窓口は閉鎖されていました。

中国訪問学術文化視察団

昭和29年になると、中華人民共和国から「10月1日の中国国慶節に、日本から各界代表を招待したい」との電報が届き、学習院院長の安倍能成を団長とする15名の「中国訪問学術文化視察団」が北京をおとずれています。

視察団には、和達清夫中央気象台長が含まれており、和達台長は、ローマで開催されていた地球物理学の国際会議から直接中国入りしています。そして、ローマの宿で見た、洞爺丸台風により1500人の命が失われたという新聞のトップ記事をうけ、強い決意で10月11日の周恩来総理の代表団との会見で、中国の毎日の気象放送を熱望することについて理解と配慮とを得たいむねを願う発言をしています。

周総理からは原則的に理解ある言葉がありましたが、中国の直面している情勢から、今のところ非常に困難であり、将来への期待を持つということで話は終わっています。

 しかし、和達台長の発言は無駄にはなりませんでした。国際社会に対する応分の責任を果たそうとする中国人民共和国の考えがあったのかもしれませんが、昭和31年6月1日、日本の気象記念日の日に、突然各地の気象観測資料をヒラ文で放送し始めています。

戦後日本の天気予報がよく外れるのは「中共の気象資料がないからだ」とも言われたほどなので、中央気象台は大喜びで、気象放送の傍受を始めています。

よく当たる天気予報へ 中共、気象管制とく 実際に役立つ日も近い

…(略)…

中央気象台肥沼寛一予報部長の話

まだ正式に国交が回復していないので、直接気象台が地点番号の台本を入手するわけにはいかないだろうが、何らかの方法で観測位置を知りたい。また台本を入手できなくても、傍受を続けているうちに日本の天気予報に役立つところまで、何とか地点解読もできそうだ。いずれにせよ、中共がWMO(国際気象機関)に参加してこちらと協力できるようになるのがいちばんの理想だ。

出典:朝日新聞(昭和31年6月3日)

国際連合に加盟していなくても世界気象機関には加入できる

世界気象機関(WMO)は、国際連合に所属する専門機関の一つで、世界に気象事業の調和的発展を目標とした推進・調整を行っています。その前身は、明治6年(1873年)にオーストリアのウィーンに世界の主要海運国の気象台長が中心となって作られた国際気象会議です。日本に東京気象台(現在の気象庁)ができる2年前のできごとです。その後、国際気象会議は、国際気象機関(IMO)に発展します。

 第二次世界大戦後、国際連合が創設され、昭和25年(1950年)に世界気象機関ができると、国際気象機関は発展・解消しています。

ただ、過去の経緯もあり、国際連合に加盟していない国でも、国である構成員の3分の2以上の承認があれば構成員になることができました。日本は昭和28年に世界気象機関に加入していますが、国際連合への加入は昭和31年になってからです。

前述の中央気象台の肥沼予報部長の発言は、中華人民共和国が国際連合へ加入する見通しはなくても、世界気象機関へは入って欲しいとの発言です。その後、中華人民共和国は、国連に加盟する前から、世界気象機関では活動していました。

平和な時代は、各国が協力して気象観測を行い、その観測結果をお互いに交換し、それをもとに天気予報などの気象情報を作り、それを皆で利用するというのは、平和な時代の証明なのです。