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明治17年の神田祭を中止させた将門台風 

饒村曜気象予報士
神田明神の初詣(写真:アフロ)

京都の祇園会、大阪の天満祭、東京の神田祭を三都を代表する三大祭とすることがあります。

この神田祭は、神田神社の5月15日を中心とする祭りで、江戸時代より、日枝神社の山王祭とともに、その豪華さをもって天下祭とも,また徳川将軍家の上覧があることから、御用祭とも呼ばれた祭りです。

初めは、山王祭、神田祭とも毎年同じように執行されていましたが,天和元年、幕府の命により民子の負担を軽くするために祭を隔年ごとに交互開催となったほど、豪華さを競っていました。このため、神田祭で大祭を行うのは、丑・卯・巳・未・酉・亥年で、その他の年は蔭祭となっていました。

今から132年前、明治17年の神田祭は、関東地方を襲った台風によりメチャメチャとなっていますが、これは平将門のたたりと考えられました。そして、この台風を将門台風と名付けられています。

秋に行われていた神田祭

神田神社(もともとは神田明神といい明治5年に神田神社と改称)は、天平2年 (730)に創建され,祭神は大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)で,延慶二年 (1309)に平将門命 (タイラノマサカドノミコト)が合祀となっています。

平安時代末期に関東地方に覇をとなえ、天慶3年 (940)に没した平将門を鎌倉時代になって、霊を鎮め祀り、人々の苦難を救い災厄を除く守護神としたわけで、徳川2代将軍秀忠は武州の総社とし、江戸城下の総鎮守としています。

この神田神社の祭りは、もともとは、9月15日 (太陰暦)と、稲の収穫後の秋祭りでしたが、明治6年(1873)に太陽暦が採用されたため、明治17年は太陽暦で9月15日に実施されました。太陰暦の9月15日は、太陽暦では10月中旬ころで台風シーズンは終わっていますが、太陽暦での9月15日はちょうど台風シーズンです。何年かに1回は、台風に影響される可能性があるわけで,明治17年はまさにそれにあたりました (図1)。

図1 将門台風襲来時の天気図
図1 将門台風襲来時の天気図

神田神社と平将門

神田祭の背景には,神田ッ子の平将門に対する共感と反骨精神に対して熱い思いがあったといわれています。

このため,平将門が明治7年9月に明治天皇の神田神社行幸に際して,明治政府が 「将門は朝廷に抵抗した」として干渉したために格の低い大社に移されると、神田ッ子は祭りをボイコットしています。

したがって、明治17年に当時の不景気を吹き飛ばそうと、維新以前の大江戸時代の神田祭りに戻そうと、今と貨幣価値がまったく違いますが、神田の氏子500戸より当時のお金で平均5円、計25方円もの大金を集めたともいわれています。

明治17年の神田祭は,番組は46番まであり、このほか番外が4本あったと言われています。

9月15日3時、第1番大伝馬町、第2番新石町の山車が勢ぞろいし、ときを揚げつつ繰り出したときに雨が降り出 し、風も吹いてきたためひき返しとなり、その後4時30分頃から雨勢が、9時頃から風も強まって祭りは中止となっています。

そして、前に述べた経緯があったため、"祭りは平将門のたたりがあった"と言われたといいます。

明治17年9月16日の時事新報 (主幸は福沢輸吉)は,次のような記事を載せています。

将門様の衝立腹……我300年鎮守の御恩を忘れ将門ハ朝敵ゆえに神殿に上べからず……よしよし今にもあれ目に物見せて呉んずと時節を待つ甲斐もなく隔年の祭礼は子供だまし 神力を費やす値打もなかりしに 今日という今日ころは大江戸の昔に劣らむ大祭礼待設けらる 将門様は時こそ来れりと日本国全州より数多の雨師風伯を駆り催し 大事の十四日の宵宮よりして八百八町を荒れ廻りて折角の御祭りをメチヤメチャに致されたるなり 一寸の虫にも五分の魂あり 況んや将門大明神様をやウカウカ朝敵呼ばわりして跡で後悔し玉ふなと…

出典:明治17年9月16日の時事新報

この神田祭りを襲った将門台風ですが、9月15日10時頃に東海地方に上陸し、関東地方を早い速度で横切って、同日夜には三陸沖へと抜けています。この台風による被害は,翌々日の17日に九州に上陸し,瀬戸内海から東海地方を襲った別の台風と併せて、死者530名などとなっています。

海軍観象台の観測

海軍観象台の観測を図2 に示すが,この台風で,最大風速は南々西の風827 ット(毎秒約44メートル),最低気圧は28.829インチ(約976ヘクトパスカル)を観測しています。

図2 明治17年9戸15日の海軍観象台での観測記録
図2 明治17年9戸15日の海軍観象台での観測記録

なお,この海軍観象台は,明治7年7月に東京の芝・飯倉に作られており、気象庁の前身の東京気象台が設置された明治8 年6月より1年早く作られています。

明治初期の気象業務は、海軍の観象台と内務省の気象台が並立して始まりましたが、のちに、行政改革で海軍の気象業務が内務省に移管されています。

天気図が作られ始めた明治17年

明治17年は将門台風だけでなく,8月25日に台風が九州に上陸 (死者1798名被害被害)するなど、台風の当たり年です。

そして,この年、東京気象台で毎日天気図が作られ、暴風警報が発表されるようになって2年め、また、天気予報が始められた年(6月より)でもあるなど、気象業務の最初の試練の年となりました。

神田祭は,明治23~24年に全国で死者約3 万5 千名というコレラの流行以後、祭日を5月に改めたといわれていますが、私は,季節的に台風シーズンよりは,初夏のすがすがしい頃の方が祭りに適しているという理由もあったのではないかと思っています。

なお,古い俳句で神田祭は秋を意味する言葉です。

花すすき 大名衆を 祭りかな(嵐雪)

平将門の復権

明治7年に末社に降ろされていた平将門ですが、降ろされてから110年後の昭和59年、氏子の決議により第3祭神として主祭神に戻すことになり、遷座祭が盛大に行われています。

なお、第2祭神は、平将門を格下の祭神にしたときに、常陸国大洗磯前神社より勧請した少彦名命(スクナヒコナミノミコト、えびすさま)です。

平将門は、今も昔とかわらず、江戸っ子の心に生きていると思います。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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