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夏の高校野球始まる 甲子園球場の生みの親は台風

饒村曜気象予報士
甲子園球場の入場門(写真:アフロ)

第98回全国高校野球選手権が8月7日に始まりました。会場の甲子園球場は、大正13年(1924年)作られました。どの年も甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)……の十干と、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)…の十二支が順繰りにつけられていますが、大正13年は、十干の最初の甲(きのえ)と十二支の最初の子(ね)が組み今わされた60年に一度のめでたい「甲子」の年であったことから、甲子園球場という命名です。

武庫川の明治29年と30年の大洪水

大阪と神戸の間を流れる武庫川は、明治29年(1896年)と明治30年の2年連続で台風により大洪水が発生しています。

明治29年は、7月から雨が多かったのに加えて、勢力の強い台風が8月30日タ方に紀伊半島に上陸し、22時頃に大阪付近を通過しています。このため、阪神間は30日夜から31日にかけて風と雨が強まり、多くの河川で堤防が決壊しています。武庫川は31日4時頃堤防が決壊し、瓦木村(現西宮市)は全村水没して砂原となっています。

また、明治30年は、勢力は強くなかったものの、激しい雨を伴った台風が9月29日から30日にかけて九州から瀬戸内海を通って大阪に上陸したため、阪神間では多くの堤防が結界し、武庫川も支流の枝川(えだがわ)の堤防が決壊しています。

しかし、このときは、根本的に河川改修をする費用がなかったため、堤防の不備を緊急に補修しただけでした。

大正時代の武庫川大改修

大正時代になり、阪神地区の開発が進み、武庫川下流の土地にも価値が出てきました。

そこで、武庫川の支流である枝川と申川(さるがわ)を廃川とし、その土地を売って、その代金で武庫川の河川改修を行い、余った金で阪神国道(国道2号線)を整備する計画が建てられました(図1)。阪神国道を整備するといっても、武庫川付近では、旧阪神国道の北側を通る新しい道路(新国道)の建設です。

図1 武庫川改修計画
図1 武庫川改修計画

廃川敷地は81万平方メートルあり、兵庫県は、道路および水路を除く74万平方メートルを売却面積とし、武庫川の改修工事費の見積もり310万円と、阪神国道の改修費の1割の100万円を加えた410万円で、阪神電気鉄道株式会社(阪神電鉄)に売却しています。阪神電気鉄道は、住宅地経営とレクリエーションセンター設置などを考えていました。

甲子園球場の建設

大正4年(1915年)に大阪の豊中球場で始まった「全国中等学校野球大会(現在の全国高校野球選手権)」は、第3回から兵庫県の鳴尾球場に会場を移していますが、多くの観客がつめかけ、大混乱となっています。そして、大きな野球場の建設が強く要望されるようになり、阪神電鉄は、獲得した廃川敷地のうち、400平方メートルを使って、ニューヨークのヤンキースタジアムに匹敵する東洋一の大野球場をつくっています。

図2 甲子園球場と8月前半の風配図
図2 甲子園球場と8月前半の風配図

これが、4か月余の突貫エ事でつくられた甲子園球場で、阪神電鉄は、甲子園駅を新たにつくりました(図2)。

甲子園駅から球場に向かうと右手に松並木がありますが、これは旧申川の堤の松の名残です。

甲子園球場というと、暑さのなかにひとときの涼しさを運んでくる浜風が有名ですが、これは、夏の高気圧の勢力範囲に入ったときの日中に発生する海風で、甲子園球場から見ると、ライトスタンドからレフトスタンドに向かって吹いている風です。

このような経緯で作られた甲子園球場で、今年も暑さのなか、熱戦が繰り返されます。

図の出典:饒村曜(1999)、イラストでわかる天気のしくみ、新星出版社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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