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大和堆、春風堆、武蔵堆、膠州堆そして満州海淵 海底地形につけられた船の名前

饒村曜気象予報士
神戸の海洋気象台(昭和初期の絵葉書より)

地上にある山や谷などの地形に名前がついているように、海底地形にも名前がついています。

浅くなっている堆と非常に深くなっている海淵

海底地形の一つに、周囲より高くなっている「堆(たい)」と呼ばれる場所があります。ここは、プランクトンがよく発生するので、良い漁場となります。

北海道の礼文島南西の日本海には武蔵堆が、日本海中央部の隠岐島沖には大和堆、その北側に北大和堆(春風堆)、和歌山県潮岬沖の太平洋に膠州堆があります。

また、グアム島の南西には非常に深くなっている満州海淵があります。

これらの名前は、いずれも観測した船の名前からきています。

武蔵と大和

武蔵と大和は、太平洋戦争で有名なった戦艦ではありません。

日本海軍草創期の明治20年(1887年)に神戸にあった小野浜造船所で作られた大和、明治21年に横須賀造船所で作られた武蔵で、ともに鉄骨木皮の船です(全長61メートル)。ともに日清戦争後、特務艦となり、日本周辺の海の測量をしていました。

また、膠州は、第一次世界大戦で戦利品として獲得したドイツ商船を特務艦としたもので、全長77メートルでした。さらに、満州は、日露戦争で戦利品として捕獲したロシアの豪華客船「マンチュリア号」を特務艦にしたもので、全長103メートルでした。

これらの船を使い、日本海軍水路部(現在の海上保安庁海洋情報部)では、大正時代末期から日本近海の海底地形を詳しく調べています。

そして、命名したのが大和堆、武蔵堆、膠州堆、満州海淵です。

マリアナ海溝の調査をした満州

満州は、最新の海洋測器がとりつけられ、測量だけでなく、海洋物理や生物など、海の総合的な観測を行っています。そして、世界でトップクラスの測量艦・海洋観測艦として多くの海洋学者を育てています。

昭和2年(1927年)12月に行ったグアム島南西の海上で深さ9818メートルという深所を発見し、満州海淵と命名していますが、今でもマリアナ海溝の中の海淵の一つとして有名です。

北大和堆と春風堆

大和堆を最初に発見したのは水産講習所(現在の東京海洋大学)の天おう(區+鳥)丸で、深さが307メートルという浅瀬の値を得ていますが、その後、昭和元年に大和が精査し、深さが286メートルという浅瀬の観測値を得て、大和堆と命名しています。

そして、昭和6年に大和堆の北にある海を測量し、深さが418メートルという値を得て、北大和堆と命名しています。

図1 春風丸が春風堆を発見した測量
図1 春風丸が春風堆を発見した測量

この北大和堆は、昭和5年に神戸にあった海洋気象台(現在の神戸地方気象台)の観測船「春風丸」が発見し、春風堆と名付けていたものでした。

図2 春風丸のイラスト
図2 春風丸のイラスト

神戸の海洋気象台が、小さいとはいえ観測設備は一応整えてあった春風丸(125トン、全長27メートル)を持ったのは、昭和2年3月です。三菱造船所神戸で建造された日本初の海洋観測の専用船です。最初の3年間の総航海走距離が約3万キロメートル、総航海日数が539日という、125トンの船としては酷使されています。そして、北はサハリンから南は宮古島まで、ほぼ全国の周辺海域を観測し、日本近海の海洋学発展の基礎となる成果を次々と発表すると同時に、春風丸も多くの優れた海洋学者を育てています。

春風丸は昭和3年より、夏の静穏な時期を選んで日本海の観測を行っていましたが、昭和5年の第3次観測では日本海中部にある大和堆の北西に、大和堆とは別の浅瀬があるのを発見し春風堆と命名しています。一時期、日本海には、春風堆と呼ばれる浅瀬があったのです。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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