Yahoo!ニュース

沖縄戦時にアメリカ艦隊を襲って大きな被害を発生させた台風

饒村曜気象予報士
ひめゆりの塔(提供:アフロ)

昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、物量にものをいわせ、またたくまに北部を占拠します。そして、5月4日の日本軍の総反撃を退け、日本軍を沖縄本島の南部に追い詰め、5月31日には首里を占領します。

日本軍は、6月4日、残った主力部隊を南部へ撤退させ、最後の抵抗を試みていますが、この時に、神風が吹いてアメリカ艦隊は大きな被害がでています。ここでいう神風は、神風特攻隊のことではなく、台風のことです。

アメリカ艦隊を襲った台風

6月4日から5日にかけて、沖縄本島の南東海上にいたアメリカ海軍の主力部隊は、南西方向から近づいてきた台風に巻き込まれ、戦艦「ピッツバーグ」は艦首が切断されるなど、戦艦や航空母艦、巡洋艦など36隻に大きな被害がでています(表)。

表 沖縄戦の神風による被害(1945年6月5日)
表 沖縄戦の神風による被害(1945年6月5日)

アメリカ海軍の主力部隊にいた空母「ホーネット」は、6月5日4時15分には接近した台風の右前方100キロメートルの危険半円にいました。このため、北上して5時15分から6時までは台風の可航半円に入っています(図)。

しかし、台風の進路予報を読み誤り、台風の中心から逃げるどころか6時15分には台風の進行方向全面20キロメートルと、中心付近に入り、その後、6時39分から12時40分まで動きを止め、台風の中心付近で猛烈な風と非常に高い波と闘っています。そして、台風が離れてから北上をして台風の可航半円に入っています。

図 台風の進路と空母ホーネットの動き
図 台風の進路と空母ホーネットの動き

前年の12月18日のフィリピンのレイテ島戦のときも、フィリピンの東海上で台風により駆逐艦が3隻沈没するなど、24隻が被害を受けていますので、2度目の神風です。

沖縄での戦闘は激化し、梅雨によるぬかるみの中、両軍に大きな被害がでていますが、徐々に南へ南へと追い詰められた日本軍の組織的な戦闘は6月下旬に終わっています。

このころ、沖縄が梅雨明けしました。沖縄戦の激戦は、梅雨入りとともに始まり、梅雨明けで終わったのです。

平和公園が作られている摩文仁で陸軍司令官らが自決した6月23日が「沖縄慰霊の日」となっていますが、この日が梅雨明けの平年日です。

今年の参議院選挙の告示日は、通常であれば6月23日でしたが、「沖縄慰霊の日」をさけて、前日の22日に行われます。

台風の飛行機観測

元寇のときと違い、太平洋戦争のときに吹いた2回の神風でも、戦局を変えるには至りませんでした。日本とアメリカとの物量の差が大きすぎたのです。

その中で、多くの悲劇があり、多くの慰霊塔が作られています。その中の一つ、「ひめゆりの塔」は、学徒隊として従軍していた女学生の出身校である沖縄県立第一高等女学校(校誌名が乙姫)と沖縄師範学校女子部(校誌名が白百合)の校誌名から名付けられたものです。

レイテ島戦の神風に次ぐ沖縄戦の神風による大損害は、日本に知られないよう、徹底的に隠されましたが、アメリカ国防省首脳部に大きな衝撃を与えました。

このため、台風観測の重要性が認識され、昭和20年から台風に対する飛行機観測のための組織が作られています。

危険を犯しても台風の中心に飛行機で飛び込み、台風の中心位置や中心気圧、風速の分布などを求める方法が采用されたのです。

太平洋戦争が終わっても台風に対する飛行機観測は継続され、そのデータは日本にも提供されています。

台風観測機として初期に使われたのはB29、戦争中は日本の都市を焼き払った戦略爆撃機です。しかし、戦後は、台風観測を行って日本の台風防災に貢献していました。

図表の出典:饒村曜(2002)、台風と闘った観測船、成山堂書店。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

饒村曜の最近の記事