今年の長期予報では暑い夏 長期予報は冷夏対策で始まり、昭和21年は餓死者がでるかに注目
気象庁の3か月予報(長期予報)が発表となり、今年の夏(6~8月)は、北日本と東日本で平年並みか平年より高い、西日本と沖縄・奄美で平年より高いという予報になっており、冷夏の心配はありません。
気象庁の長期予報は、もともとは、冷夏対策のために始まっています。
特に、昭和21年の夏の予想は、冷夏になるかどうか、多数の餓死者が出るかどうかで注目されていました。
昭和20年は冷夏で米不足
昭和20年は、終戦の日の8月15日が晴れて暑かったとドラマ等で繰り返されるために暑い夏との印象がありますが、この年はどちらかというと冷夏です。
北日本を中心に大規模な冷害が顕著でした。
加えて、西日本は秋に枕崎台風や阿久根台風によって大規模な水害がおきています。
戦争が続いたとしても食料難で戦えないという惨憺たる年でした。
このため、著しい米不足がおきており、米の出荷が最も盛んになる12月上旬の時点でも、全国平均で必要量の1割程度しか集まっていません。一番多く集まった新潟県でも49%と約半分です。北海道では1%しかありません。
東京や大阪など大消費地の逼迫は深刻で、東京や京都では米のストックが5日分と綱渡り状態になっています。
また、米だけでなく、漁船も燃料もないために漁がができず、魚がとれてもそれを消費地に輸送する手段がないなどから、あらゆる食料が大都市を中心に大きく不足していました。
多数の餓死者がでる懸念で始まった昭和21年
昭和21年1月4日には政府の閣僚懇談会では、当面の食料対策を話し合っていますが、戦争直後で外国からの援助は全く期待できませんでした。
加えて、戦費で国庫は空っぽで輸入もできず、農家でさえ米の在庫が少ないなかで、もっと農家から供出させるとった対策しかとれませんでした。
もし、昭和21年も冷夏で米の出来が悪いとなると、多数の餓死者がでるという最悪のシナリオが想定されていました。
中央気象台(現在の気象庁)は、昭和21年4月の2週間にわたる三陸沖の観測を行いましたが、これは、この年の東北地方の冷害予想の資料とするためであり、戦後最初に行った海洋観測です。
戦後初の海洋観測
昭和21年4月15日の朝日新聞では、紙の表裏の2面しかないなかで、「凌風丸(観測指導者は海洋課の竹内能忠)が今年の三陸沿岸の産業気象予想に視するため、青森県鮫角岬(さめかどみさき)沖から千葉県犬吠埼沖までを2週間かけて観測する。16日に東京港を出港」という記事を報じています(図2)。
これは、東北地方の冷夏に対する国民の関心が異常に高いことの反映です。
昭和21年11月6日に作られた凌風丸の戦後初観測の速報(図3:ローマ字で記載)には36地点の観測が掲載されています。
4月17日4時55分に犬吠埼沖の第1地点の観測、その後、東進と西北西進を繰り返しながらジグザグで北上して親潮を観測し、4月26日には鮫角岬沖で観測を行っています。その後帰路につき、4月27日20時30分の第36地点の観測が最後となっています。
農林省と中央気象台が協力し、夏の作柄を予想するための「産業気象談話会」ができ、中央気象台が昭和21年の夏期海面水温予想を発表したのもこの頃です。
「海峡概況」から「海の健康診断」へ
海の状況を定期的に速報するようになったのは、昭和21年8月に創刊した「海況概報」です。B4版の謄写版印刷で、当初は月刊の予定でした。
昭和21年前半の海況、海況・天候の予想、水温断面図などが掲載されていましたが、この「海況概報」は好評で、翌月からは旬報として、月3回の発行にかわっています。
「海況概報」は、年々内容が拡充し、昭和34年7月には「気象庁全国海況旬報」と改称し、昭和61年4月には「気象庁海況旬報」と改称しています。
これが、大発展したのが、現在気象庁で行っている「海の健康診断」です。
図の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション、成山堂書店。